*ねこのひかる*
□10 Still in Love
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カーテンの隙間から眩しい朝日が差し込んでいる。まだ日が昇ったばかりだけど、静はすでに目覚めていた。自分の隣で丸くなっている小さな黒い姿を、黙ったままじっと見つめている。
猫の姿の光だ。人への変身は一日四時間だけだから、朝までは一緒にいられない。日が昇る前に、光は猫の姿に戻ってしまう。
呼吸のたびに腹部を小さく上下させて、安らかに眠る光を見つめるうちに、これまでの彼との思い出が静の脳裏に蘇る。
初めて出会った猫カフェ、まだ中学生だったあの頃。それからあっという間に時が流れて、気がついたら静は大学生になっていた。光を連れて実家を離れて一人暮らしを始めて、あの奇跡が起きた。
普通に考えれば絶対にありえないような間柄だったけど、それでも、ずっと可愛がっていた光から同じように大事に想ってもらえていたのが嬉しくて。静は彼が猫であろうと人であろうと同じように愛していくと決めた。
恋人が同じ人間ではないことに苦しんだり、光の余命のことを知って神様を恨んだこともあった。
けれど、そのことがあったからこそ人の姿の彼と出会えて、こんなにも深く心を通わせることができたのだと思い直して、静は懸命に光の死という運命を受け入れようとしていた。
辛いことも沢山あったけど、とても幸せだった。初恋はいつだって甘くほろ苦く、そして叶わないけど。静は気持ちを奮い立たせて、この厳しい現実と闘おうとしていた。
(……苦しいけど頑張るからね、光)
光の飼い主として、恋人として。誰よりも彼を愛しているから。どれほど辛くとも最後まで彼と向き合って、その最期をきちんと看取るのだ。
光に朝ご飯をあげてから、静は身支度をして大学へと向かう。
季節は移り変わってもう冬だ。街路樹の葉は枯れ落ちて、吹く風は肌を刺すように冷たい。今日も吐く息が白くなるほどに寒く、静も周囲の人々も皆コート姿だった。
大学の構内を校舎に向かって歩いていると、静は友人に声を掛けられた。
「――静! おはよう」
「……梓真。おはよう」
仲のいい女友達の梓真だ。以前、静が強盗事件に巻き込まれたときは、自分のことのように心配してくれた。しかし、明るく声を掛けてきた彼女は、静を見て眉を寄せると。
「静、なんか痩せた? 大丈夫?」
「痩せてないよ。もう、梓真ってば」
「ホントに?」
「ホントだってば、もう」
心配そうに尋ねてくる友人に対して、嘘をつくのは心苦しかった。けれど、本当のことを話せるわけもなく、静は誤魔化すほかない。
強がっているだけだと、自分でも気づいていた。ここのところずっと食欲がなく、病的なまでにやつれてしまっている。鏡に向かっても、あまりの顔色の悪さに驚いてしまうほどだ。青白くて、まるで幽霊のように見える。
(……でも頑張るの。光と約束したんだ)
泣かないこと、強くなること。どんなに苦しくても、笑顔でいること。
その頃。光は無人の室内で、じっと身体を休めていた。リビングの猫ベッドで、静の着古したニットに埋もれるようにして丸くなっている。
レースのカーテン越しに見えるのは、冬の澄んだ青い空だ。静は夕方まで帰ってこないけど、彼女の匂いのするふわふわのニットさえあれば、光は頑張れた。
愛しい静の匂いに包まれているだけで、安心できて癒される。たとえ彼女がいなくても、この温もりさえあれば一緒にいるように思える。
(……せや、アイツかてあんな辛そうなのに頑張っとるんや)
意識を失いかけるほどの腹部の激痛に耐えながらも、光は静の弱々しい笑顔を思い出す。
(……だから、俺も)
しかし、病魔に蝕まれた身体にはかつてのような体力はなく、それに引きずられるように、苦しい痛みと闘う気力も奪われてゆく。
元気だった頃は一人で気ままに過ごしていた無人の室内。あの頃は静の不在も、心の洗濯くらいにしか思っていなかったのに、今は心細くてたまらない。
寂しくて辛い。身体の痛みよりも今は、隣に静がいないのが苦しい。本当は今すぐにでも帰って来て欲しい。学校になんて行かずに、片時も離れず自分のそばについていて欲しい。
行かないで、一人にしないで、ずっとそばにいて。どれほど大人ぶっていても、光の本心はそんな幼い子供だった。けれど、彼は決してそれを口にしない。これ以上、愛する静の人生の邪魔はしたくなかったのだ。
大学を休ませるわけにはいかない。ずっとついていてもらっても、どうせ病気は治らないのだ。それに今だって静は懸命に、自分を支えようとしてくれていた。外出は最低限で、休日はずっと家にこもって自分のそばについていてくれた。
光は固く目を閉じて、必死に痛みをやり過ごす。
(…………ッ)
あとどのくらい待てば、静は自分のもとに帰って来てくれるのだろう。空の様子からいっても、早くてあと半日後だろうか。
(……静)
光は寂しさに瞳を潤ませる。早く会いたい。早く帰って来て。優しい声で名前を呼んで。
「――光」
そう、こうやって名前を……。
(……?)
無人のはずの室内で、静の声が聞こえた気がして、光は顔を上げる。ぼんやりと、靄がかかったようににじむ視界。
眼前に広がっていたのはマンションのリビングではなく、あの懐かしい猫カフェだった。
(……何でや、ここは)
朦朧とする意識の中、光が呆然としていると、正面に大きな影が落ちた。紺色のセーラー襟に赤いリボン。両膝を床について、優しい声で名前を呼んでくれる。
「――光、大好きだよ」
忘れるはずなどない。眼前にいるのはセーラー服の似合う中学生の女の子。自分に会いに毎日のように来てくれた。
(静……?)
後頭部に温かな手のひらが触れる。なでられているのは頭部なのに、なぜか腹部の痛みが消えてゆく。
ここは無人のマンションの一室のはずなのに、大学生の彼女の下宿先のはずなのに、なぜ?
だけど、そんなことはもうどうでもいい。彼女の手のひらは、どうしてこんなにも温かくて心地いいんだろう。
「――光、安心して。これからはずっと一緒だよ」
優しい囁きに光は涙ぐむ。それはずっと光が求め続けていた言葉だった。猫カフェから引き取られたときも、静は柔らかな笑顔でそう言ってくれた。大好きな彼女の家族にしてもらえたのが、涙が出るほど嬉しかった。
そして、光は何かに包み込まれるような感覚を覚える。まるで誰かに抱きかかえられているようだ。静にそうしてもらったときのことを思い出し、光は安堵する。先ほどまではあんなに心細かったのに、今は満ち足りた気持ちだ。
すると、光は不意に強烈な睡魔に襲われる。まるでどこか別の世界に引き込まれてしまいそうな強い睡魔だ。抗うことなどできない。
(……俺、死ぬんかな)
静の声が上方から降り落ちてくる。
「――光、おやすみなさい」
眠ってはいけない、脳裏に誰かの声が響くが、病に侵された身体は言うことをきかない。
(……でも、死ぬ前にアイツの声が聞けたからまあええか)
光はそっと瞳を閉じる。いつの間にか体の痛みは消えていた。今なら満ち足りた気持ちで旅立てそうだ。
(……おやすみ、静)
小さなベッドの中で安らかに眠る黒い猫。それは時が止まったかのように動かない。無人の室内は、まるで絵画に描かれた世界のように、全てが静止していた。
そして半日後の夕暮れどき。ドアの鍵を開ける音がマンションの室内に響いた。
「光、ただいま〜」
静だ。ようやく大学から戻って来た。玄関先は無人だったけど彼女は驚かない。以前は毎回だった光のお出迎えも、彼が具合を悪くした今はもうなくなっていた。
けれど、部屋の奥には光の気配がたしかにあって、静はそれでお迎えをしてもらったような気持ちになっていた。しかし、今日は様子が違った。何の物音も気配もない、水を打ったように静まり返った室内。
「……光?」
静かすぎる部屋の様子に静は違和感を覚える。
「――ッ!!」
反射的に手にしていたカバンを投げ出して、靴を脱ぎ捨て、静はリビングへと駆け込んだ。そして、自分の目に飛び込んできた光景に、彼女は言葉を失う。
冷たいフローリングの上で、静の愛猫は四本の足を投げ出して横たわっていた。その目はたしかに閉じられていて、静は衝撃に息を呑む。
「――光っ!! 光っ!!」
この世の終わりのような悲鳴を上げて、静は彼に駆け寄った。そのまま、静は彼を抱き上げようとするが。よく見ると、光の腹部は呼吸で小さく上下していた。どうやら眠っているだけのようだ。
「……っ!」
よかった、とは言葉にならない。大粒の涙を溢れさせ、静はその場にへたり込む。あまりの辛さと苦しさに、静はそのまま俯いて肩を震わせて泣いた。嗚咽交じりの号泣だ。フローリングに涙が落ちて幾つもの染みを作る。
こういうことがもう何度もあった。眠っている光を死んでいると勘違いして狼狽する。そのたびに、静は胸を潰すような苦しい思いをしていた。
(光、苦しいよ……)
まるで真綿で首を絞められているような、生殺しの辛さだ。いつまでも宙ぶらりん。けれど、それが解消されるのはもっと嫌だった。光がいなくなるなんて、そんなことは、やはり静には受け入れられない。
(……私のバカ。辛いのは私じゃなくて光なのに)
泣かないでいると約束したのに。元気でいると約束したのに。けれど、実際の自分は泣いてばかりだ。彼に隠れるようにしてめそめそと。
深すぎる愛は、こんなにも人を弱くするのだろうか。自身の心の内の弱さや怖れに振り回されて、静は疲弊しきっていた。
(……私より光の方がずっと辛いんだから、私がしっかりしなきゃいけないのに……)
安らかに眠る光の隣で、静は涙をぬぐってかぶりを振る。すると。その気配でようやく静の帰宅に気が付いたのか、光が目を覚ました。
「ニャウ」
何度か瞬きをしてゆっくりと起き上がると、小さな声で静に向かって挨拶をした。
『おかえり』
覇気はなくとも穏やかな笑顔を向けてくる。猫の姿でも分かる。今の光はとても嬉しそうだ。
「……光っ!」
静は光を抱きかかえると声を上げて泣いた。今度は安堵の号泣だ。よかったと何度も繰り返して、彼の名前を呼ぶ。光が生きていて、自分に笑顔を向けてくれることがこんなにも嬉しい。
かつては当たり前でしかなかったこと。けれどそれが失われようとしている今は、こんなにも尊く感じる。
光は少しの間不思議そうにしていたが、幸せそうに瞳を細めた。大好きな飼い主さんからの抱っこは、こんなときでも嬉しく感じてくれるようだ。
どれくらいそうしていただろうか。しばらく経ってようやく泣きやんだ静は、真面目な顔で光の目を見つめた。
「……ねえ光、お願いがあるの」
いつになく真剣な様子の彼女に、光はわずかに小首をかしげて彼女を見上げる。
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