*ねこのひかる*

□10 Still in Love
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 思えば今まで色々なことがあった。まだ静が中学生だった頃に猫カフェで出会って、すぐに家族にしてもらって、五年ものあいだ家族として一緒に過ごして、憧れにも似た恋心をずっと封印していた。

 そして今年の春、大学進学を機に一人暮らしをはじめた静に連れられて、このマンションにやってきた。

 ひとつ屋根の下で大好きな静と二人きり。いつも一緒で幸せだったけど、彼女の口から大学で知り合った他の男の話を聞くたびに、ただの飼い猫のくせに嫉妬に駆られて苛立ちを募らせていた。

 あの奇跡が起きたのはそんな中でのことだった。

 最初は自分のことしか考えてなかった。自分の感情の全てを、綺麗なものも醜いものも全部、力の限りぶつけることを愛だと思っていて。そして自分の思い通りにならないことがあるたびに腹を立てていた。

 思えばあの頃の自分はどうしようもなく幼かった。身勝手で我儘で、静を愛していたつもりでも結局は自分のことしか考えていなかった。

「――ねぇ光、私たち、いつまで一緒にいられるのかな」

 ベッドの中、腕の中の静は今夜も寂しげに自分を見上げてくる。大きな瞳は涙で潤んでいた。彼女はいつからこんなに弱くなってしまったのだろう。以前の温かく柔らかな笑顔はもうずっと見ていない気がする。

「それは言うたらアカン約束やろ」

 そう励ましても、静はずっと悲しそうなままだ。長い睫毛がゆっくりと伏せられる。

「……そうだね、ごめん」

「泣くなや。ほら」

 彼女の目尻から伝う涙を、光は優しいキスでぬぐう。しかし、その涙は止まらなかった。あとからあとから溢れてくる。

「ほら、俺のことで泣くな言うたやろ。笑って、静」

「うん、ごめんね、光……」

 自分でも残酷なことを言っていると思う。けれど、これ以外の励まし方が分からない。

 本当はどう振る舞うべきなんだろう。鉛のように重い何かを心の内に抱えながら、光はそんなことを考える。

「ほら、もう遅いんやし寝るで、明日も大学あるんやろ」

 彼女を寝かしつけようと髪をなでてやりながら、光は穏やかな笑みを浮かべた。静にしか見せない、淡く優しい微笑みだ。

「うん、おやすみ、光」

 光の胸に顔を埋めながら、静は辛そうながらも笑ってみせる。血色を失った青白い顔に貼りついた、生気をなくした弱々しい笑み。

 それはかつての強く優しかった彼女からは想像もできない姿で、これでは静の方が先に儚く消えてしまいそうだ。

 光はそんな静を、両腕できつく抱きしめた。彼女がいなくなってしまわないように。この恋を見失ってしまわないように。

(……今度は、俺がコイツを支えるんや)

 人間になるあの力は、本当は余命いくばくもないペットの心を慰めるための神様の厚意だった。悔いのない生を送らせて、やがて訪れる死を安らかに受け入れさせるための力。

 それを知る前は、たった数時間しか人になれないことを不満に思い、自分もそう生まれたかったと人間の男性を妬んでいた。せっかく与えられた力に感謝もせず、自分の不安や自信のなさを埋めるために、大切な彼女を困らせていた。けれど、今は違う。

 自分の余命ことを知ったときはショックだったけど、時を経た今は、穏やかな気持ちで受け入れることができている。人になれる力をくれた神様にも、今は素直に感謝できている。

 あの力をくれてありがとう。一日たった四時間だけど、この力のお陰で、大好きな静とさらに深く愛し合えた。楽しいことよりも苦しいことの方が多い恋で、自分も泣いたし静も沢山泣かせたけど。

 それでも。一日数時間だけでも人になれるようになってよかった。こんな自分を受け入れて愛してくれた静にも、ありがとうと言いたい。

 最後まで不完全で不器用な自分で、もうすぐ会えなくなってしまうけど、ずっと静のことを愛しているよ。最初で最後のデート、観覧車で指輪を贈ったときの、永遠を願ったあの気持ちに嘘はないよ。

 自分の腕の中で眠る静を見つめながらそんなことを想って、光もまた瞳を閉じる。



***



 鉛色の曇天に荒れ果てた大地。ひび割れた地表の間隙からは紅蓮の炎が噴き出している、おおよそこの世のものとは思えない異様な世界。そんなところに、この二人はいた。

「やっぱりここは暑いししんどいわね〜 ユウくん」

「ほんまやな〜 小春」

 小春とユウジだ。静と光からは妖精さんと呼ばれているけど本当は天使。猫の光に人間に変身できる力を与えてくれた神様の御使いだ。

 二人は背中の金色の翼を羽ばたかせて、この恐ろしい世界の空を飛んでいた。

「まさか、ミケ子がほんまに煉獄に迷いこんでしまうなん思わんかったわ」

 ユウジは困った様子で頬を掻く。

「そうねぇ……。だけど、あの子も飼い主に執着してたものねぇ……」

 小春もまた眉を下げてため息を吐く。

 ミケ子とは、光と同じ虹の橋キャンペーンの当選者のミケ猫だった。可愛らしい小さな子猫で、子供のいない中年夫婦に可愛がられていたのだが、昨日ついにその短い生に幕を下ろした。

 しかし、現世の飼い主夫婦に強い執着を残した彼女は自力では成仏できずに、あろうことか天国と地獄の境の、この煉獄に迷い込んでしまった。

 ユウジと小春の本日の任務は、この世界のどこかにいる彼女を見つけ出し、天国まで連れて行くことだったのだが。

「でも、猫と言えば、光クンたちは大丈夫かしらね……」

「……心配やな」

 小春とユウジは表情を曇らせる。猫つながりで思い出してしまった、自分たちの担当顧客のうち一組。

 あちらもペットの方が飼い主に強い執着を示していた。そのうえ飼い主とペットの年が近く、しかも異性だったせいで、恋人同士のような関係に陥ってしまっていた。天使二人の間に重い沈黙が落ちる。

 しかし、そのとき。ユウジは燃え盛る炎の隙間に、見慣れた少女の姿を見つけた。人の姿の彼女だ。

「――あ、小春見てみい! ミケ子おったで」

「あっ、ほんまや!」

 二人は慌てて彼女のもとまで飛んでいき、上空から声をかけた。

「ミケ子〜! 見つけたで〜!」

「こっちよぉ〜! ミケちゃ〜ん!」

「あっ、ユウコハちゃ〜ん!」

 ユウジたちの声に気がついたミケ子は、明るく返事をするが。ずっと一人で泣いていたのか、大きな目の周りは赤く腫れていた。

「ミケ子あかんやろ、ここは天国やなくて煉獄や、お前が来たらあかんとこやで」

「せやで、ミケちゃん。もう肉体はのうなったのに、いつまでも現世に執着するからこんなとこに迷い込むんや」

 ミケ子の眼前にふわりと降り立つと、ユウジと小春は口々に彼女を叱る。優しく教え諭すようなその口調。しかし、ミケ子は二人をキッと睨み返した。

「だって、パパとママが!」

 父母といっても、実際の両親ではなく飼い主夫婦のことだ。子供のいない中年夫婦はミケ子を実の娘のように可愛がっていた。

 そしてミケ子もまた、そんな二人に過剰な愛と執着を抱くようになっていた。

「あんなに悲しんでたもん! 私だってパパとママと離れたくないよ!」

 ムキになって言い返す様は、尊く美しい親子愛。

「天国になんて行きたくない! お家に帰してよ!」

 ミケ子は気持ちのままに叫ぶが、現実はそれを許さない。それを知るユウジは声を荒らげる。

「何言うとんねん! お前はもう死んだんや、体かて焼かれて骨になったやろ!」

「体なんていらないもん! オバケでいいからお家に帰る! 帰してよ!」

 しかし、ミケ子は一歩も退かない。勝気で我儘な幼い少女。

 甘やかされ過ぎたのか、あるいは愛情が強すぎたのか。コンパニオンアニマルとして人間と同じように可愛がられたペットは、しばしば現世の飼い主に執着し成仏を拒む。ここ数年、そういう子たちが急激に増えた。だからこその虹の橋キャンペーンだった。

 悔いのない生を送らせて、思い残すことなく最期のときを迎えさせる。神の教えに背かないように、寂しさに迷って道を踏み外してしまわないように。

「……ミケちゃん、あんな」

 さすがにこのままではいけない。眉を寄せた小春がミケ子の肩に手を伸ばした、そのとき。

「――哀れなり、娘よ」

 地の底から響くような声にミケ子は肩を竦ませる。ユウジと小春もまた、ハッとしたような顔をする。

「この煉獄の炎をもってしても煩悩を清められず、成仏を拒むとは」

 どこからともなく現れたのは、漆黒の法衣を纏った高僧だった。

「銀!」

 ユウジが彼の名前を呼ぶ。銀と呼ばれた彼は、地獄への案内人だった。成仏を拒み煉獄や現世を彷徨う魂を捕らえ、地獄に連れて行く。

 彼に囚われてしまったら、今度こそ取り返しがつかなくなる。ミケ子を渡すわけにはいかないと、ユウジは声を張り上げる。

「これ以上地獄行きの子を増やすわけにはいかんねん! 俺らの査定に響くんや!」

「さてい?」

 あまりにも卑近な単語に、ミケ子が不意に真顔になる。しかし、彼女の隣の小春は、眼鏡を持ち上げながら醒めた口調で言った。

「――アンタは知らんでええねんで」

 煩悩にまみれたやりとりだ。この場で最も浄化が必要なのはミケ子ではなく天使二人のようだ。

「とにかくアカン、この子は渡さんで!」

 世にも間抜けな決め台詞を発したユウジは、自ら前に出てミケ子と小春を庇うように立った。地獄の使いの魔の手から二人を守ろうとする。

「しかし本人が成仏を拒んでおる」

 だが、銀は動じず淡々と言葉を続ける。

「この場所におっても、いずれ魔物に食われるばかり。聞こえるだろう。あの恐ろしい唸りが」

 銀がそう口にすると同時に、どこからともなく低音の唸り声が風に乗って聞こえてきた。

「ならばその前にワシが地獄に連れて行く。世のことわりを乱し、生命の輪廻に逆らう罪深い魂には、相応の罰を与えねばならん」

 罪深い魂、相応の罰、恐ろしい単語にミケ子は青ざめる。

「――その娘を渡せ、天使」

 銀はユウジたちに迫る。この煉獄にいてもいずれ魔物に食われてしまうけど、地獄に連れて行かれればもっとむごい仕打ちが待っている。凄惨な拷問を加えられ、自身の罪深さを思い知らされてから、悪魔に魂を食われてしまうのだ。

 拷問を受けずに死ぬか、受けてから死ぬか。煉獄と地獄ではその違いしかないけれど、地獄の拷問の悲惨さを知っているユウジは声を張り上げる。

「まだ小さい子ォや、迷っとるだけやで。まだ分かっとらんのや。この世のことわりも、肉体の死が何を意味するのかも」

「コハちゃん、地獄ってなあに」

「……それは」

 小春は一瞬だけ言いよどむが、伝えた方がいいと判断したのか、改めて口を開いた。

「現世で悪いことをした人や、死んでも成仏を拒む人らが行くとこや」

「そうだとも。地獄とは世を乱す罪人を処するところ。愚か者に相応しい罰を与え、その魂を滅ぼすのだ」

 銀は静かな声で続ける。

「暗黒の業火に焼かれ百年の時を苦しみ、最後は悪魔に魂を食われる。咎人に相応しい哀れな末路だ」

 現世での死は肉体の滅びだけど、魂の滅びは本当の消滅だ。完全な無となり、生命の輪廻から外れて消える。

「ッ!」

 自分に与えられるかもしれない罰の内容を聞き、ミケ子は息を呑む。すると、そのとき。

「――グルル……」

 低い唸りとともに、どこからともなく巨大な犬にも似た何かが姿を現した。三つ首の狼だ。

 輝く銀の体毛に蛇のたてがみと竜の尾を持つそれは、地獄の門を守る魔狼の兄弟で、煉獄を徘徊している化け物だった。

 恐ろしい化け物の登場に恐怖したミケ子は、その場に力なくへたり込む。そして、彼女は魔物の口のあたりを指さすと。

「あれ……って!?」

 魔物がくわえていたのは、血まみれの少年の死体だった。小柄で黒い短髪、左耳にピアスをつけた少年は、しかし、静に飼われている光ではない。

 似た面差しの別人だ。けれど、違う子であってもユウジと小春は胸を痛める。

 現世での死ののち煉獄に迷い込み、天使に救い出される前に魔物の餌食となったあの子は、自分たちが救えなかった魂の末路なのだ。

 化け物は死体を乱暴に打ち捨てる。少年の亡骸は固い岩肌に叩きつけられると、すぐに塵と化した。

 かつて少年だった塵は、あっと思う間もなく紅蓮の炎に呑みこまれ、煉獄の灰色の空に噴き上げられる。彼の未練は清められたのだろうか。

「――さあ、その娘を渡してもらおう。天使よ」

「イヤや言うとるやろ! 査定に響くっちゅーんや!」

 しかし、あんなにも無慈悲な光景を目にしたばかりだというのに、ユウジは相変わらず妙な理由で銀の要求を拒む。すると、ついにミケ子が叫んだ。

「や、やだ! 私、地獄なんて行きたくない! ユウコハちゃんと天国に行く!」

「よお言ったで!! ミケちゃん!!」

 ミケ子の叫びに小春は表情を輝かせる。

「ほらみい! お前はとっととその化けもん連れて帰れや!」

「……仕方ない」

 得意げに胸を張るユウジに、銀は淡々と言葉を返した。その細い瞳からは何の感情も読み取れない。銀はゆっくりと踵を返すと、音もなくその場から姿を消した。

 あとに残された化け物は、しばらく名残惜しそうに佇んでいたが、おもむろに遠吠えのような唸りを上げると、岩肌を蹴りどこかに駆けて行ってしまった。

「やったわね、見逃してもらえたわよ!」

「うん!」

 無邪気に喜びあう小春とミケ子。ユウジはそんな二人に明るく言った。

「よっしゃ! ほな、天国いくで!」

 迷える魂を極楽浄土にご案内、それが彼ら天使の本来のお仕事だ。

「今度は迷わんように、がっちりお手て繋いでいくわよ!」

「せやで、もう手間かけさすんやないで!」

 小春とユウジは、それぞれミケ子の左右の手をギュッと握りしめた。少女を真ん中に手を繋ぐ姿はまるで、しっかり者のお兄さん二人と可愛い妹のような微笑ましさだ。

「は〜い!」

 お笑い天使にエスコートされて、ミケ子は上機嫌だ。そのままミケ子は天使二人の翼で、空高く舞い上がる。三人仲良く、荒れ果てた煉獄から美しい天上界に向かっていく。



***
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