*ねこのひかる*
□09 夫婦善哉
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耳慣れない甲高い声で名前を呼ばれて、静は驚いた様子で声の方を見る。そこにいたのはまるでファッション誌から抜け出てきたような、華やかで可愛らしい女子三人組だった。
「どうしたの〜? 買い物?」
先ほど声を掛けてきた子が、お約束の質問を口にする。ここはスーパーの駐車場。だからもちろんそうなんだけど。
「う、うん……」
戸惑いと怯えを含んだ表情で、静はそう答える。
「そうなんだ〜」
どうでもよさそうにそんな相槌を口にしながら、その女の子は友人二人を引き連れるようにして、静と光に近づいてきた。二人の前途に立ちふさがる。
彼女たちの言動に、光はわずかに顔をしかめる。先ほどまでは上機嫌だったのに、急に目つきが険しくなる。
普段から無表情だから分かりにくいけど、それを差し引いても、今の光はすごく不機嫌だ。それこそ、静以外の人でも分かるくらいに。
けれど、声を掛けてきた女の子は怯まなかった。
「――ねえねえ、こっちの人ってもしかして彼氏?」
光に視線を投げながら、興味津々といった様子で静にそう尋ねてくる。三人の中でも一番派手で気の強そうなリーダー格。長い睫毛に縁どられた瞳は好奇心に満ちていて、静がここで認めてしまえば、翌日には学校中で触れまわられそうな雰囲気だった。
今は人間の男の子の姿でも、本当は猫な光の存在を、言いふらされるのは抵抗があった。静は嘘をついてしまう。
「……ちがうよ、イトコだよ」
「ッ!」
静がそう口にした瞬間。隣の光が小さく息を呑む気配がして、静の胸がズキリと痛む。一瞬だけだけど、険しい視線を送られたのにも気がついていた。
「なんだ、彼氏じゃないんだ〜」
静の返答に女の子は嬉しそうな笑みを浮かべると、堂々と光にアプローチをしてきた。
「あ、私静の大学の友達で〜 名前なんて言うんですか〜?」
「……光や」
さすがに名前を聞かれて答えないわけにはいかないと思ったのか、あるいは『静の大学の友達』というフレーズが効いたのか。
意外なことに、光は嫌そうながらも、その子にきちんと対応する。
「光くん?」
女子に名前を確認するように呼ばれて、しかし光は眉を寄せた。瞬間的に込み上げる形容しがたい不快感。静以外の女の子に下の名前を呼ばれたくない。それは実際に呼ばれて初めて気がついたことだった。
その子には悪いけど、自分にとってはやはり静だけが、そういう対象として見れる女の子だ。
けれど、静の知人相手にまさか『気安く呼ぶなや』などと言うわけにもいかず。光はとっさに名字をでっちあげる。
「……財前、光や」
由来はもちろん自分のルーツ、猫カフェ『ぜんざい』
「財前くんっていうんだ」
光の意図を汲んだのか、女の子はわざわざ名字で呼び直してきた。今の時点で不興を買うのも損といった、計算や配慮もあったのだろう。けれど、その子は光から離れようとせず、重ねて尋ねてきた。
「ねえ財前くん、静とは……」
しかし、ついに耐えられなくなったのか。
「……別にお前らに関係あらへんやろ。つか、急いどるんや。静、早よ行くで」
しびれを切らした様子で一息にそう言うと。光は静の手を取って、女子たちのバリケードをを強引に突破した。そして、そのままスーパーの中に入っていく。
***
「今日、びっくりしたね。光は人の姿でも格好いいから、やっぱり人気あるんだね」
「…………」
買ってきたぜんざいを二人で食べながら。静は光に明るく話しかけていた。しかし、光はムスッと押し黙っているばかりで、ろくに返事もしない。黙々とぜんざいを口に運んでいる。
スーパーの前で女の子たちに絡まれてから、光はあからさまに機嫌が悪かった。そんな彼を気遣って、静はずっと気丈に振る舞っていたのだが、効果がないどころか、むしろ。
「SNSでもね、猫の姿の光のことみんなが可愛いって言ってくれるんだよ。光が人気者だと私も嬉し……」
「――ええ加減にせえや」
「っ!」
自分が話している途中だったのに、低い声で遮られて、静は息を呑む。
「――ふざけんなや。お前さっきからずっと、俺にケンカ売っとるんか」
しびれを切らしたのか、我慢の限界を突破したのか。光はついに口を開く。けれど、光はかつてないほどに怒っていた。こんなに静に対して腹を立てている光は見たことがない。しかし同時に、光はとても悲しそうだった。
「あんときイトコとか言うたのはしゃあないにしても、俺ら恋人同士なんやろ? 違うん?」
食べていたぜんざいのカップをテーブルの上に置いて、光は静に真顔で詰め寄る。
「指輪贈ってずっと俺だけのもんや言うて、お前も頷いたくせに、俺がみんなの人気者で嬉しいとか本気で言うとるん? 猫とか人とか関係あらへん。猫んときも人んときも、俺はお前以外のヤツに可愛いとか格好いいとか褒められても、嬉しくもなんともないわ。お前は俺に対する独占欲とかないん? 相思相愛や思うとったのは俺だけなん?」
よほど溜めこんでいたのか、今宵の光は意外なまでに饒舌だった。
「っ、光」
光のあまりの必死さ、切実さに、静は怯む。
夏の終わりの、最初で最後のデートらしいデート。観覧車のゴンドラの中で静に内緒で買ってきた指輪を、光はまるでプロポーズをするかのように贈ってくれた。
静の左手の薬指に綺麗な指輪を飾ってくれて、ずっと俺だけのものでいてって、命ある限り一緒にいようねって、光はそんな温かな言葉と気持ちをくれたのに。
しかし、静はその彼に悪気がなかったとはいえ、ひどいことをしてしまった。
イトコと言ってしまったのもそうだけど、その後のフォローも光の気持ちを逆なでするものばかりで。あんなことをすれば、光が怒るのも当然だった。
「……ごめんなさい」
「せやで。アイツらに舐めたことされても、怒りもせんとしおらしくしとって、今もヘラヘラしおって腹立つっちゅーねん」
光の文句はまだ続く。それほどまでに腹に据えかねていたのだろうか。
「お前は俺の彼女なんやろ。もっと堂々としとれ。嫌ならちゃんとそう言え、怒れ」
「……っ!」
相変わらず光は手厳しい。静のことを少しも甘やかしてくれない。けれど、光がここまで怒るのには理由があった。自分がいなくなってからのことを見越しているのだ。
優しすぎるほど優しい静には、だからこそ強くあってほしかった。嫌なことをされたらちゃんと嫌だと主張すること。自分を守るために毅然とした振る舞いをすること。
今はよくても、余命わずかな光は静をずっとは守ってやれない。だからこそ、光は静の半端な言動に腹を立てていたのだ。
「あんな奴ら、威嚇してさっさと追い払え」
淡々とそう言って。しかし、光はフーッと牙を剥いて怒る猫の物真似をした。
本当は猫だからなのか、物真似は無駄にハイクオリティー。真面目なのかふざけているのか。
「わ、私、猫じゃないよ」
つい静は言い返してしまうが。人の姿の光の猫の物真似にうっかりと笑みをこぼしてしまう。人間の男の子の彼はクールで、そんなことをしそうにないから、尚更おかしかった。
元気を取り戻した静は、にっこりと微笑むと。
「でも、次何か言われたら、威嚇して追い払っちゃうよ」
彼女の柔らかな笑顔に、光はようやく表情を緩めた。
「せやで。フーとかシャー言うて、毛ぇ逆立てて牙を剥くんや」
「も、だから猫じゃないってば」
何の役にも立たないアドバイスと、無駄にリアルな猫の物真似。それは光も分かっていてやっている冗談めいたものだ。けれど、ずっと落ち込んでいた様子の静に笑顔が戻り、光は安堵する。
(せやで。お前はずっとこうやって、ニコニコしとってくれれば、それでええねん)
心の優しい静には、ずっとこんなふうに穏やかに笑っていて欲しい。
だから、そのためにも自分を守って現実と闘う強さを身につけて欲しかった。一人でもちゃんとやっていけるように。次の恋ではきちんとした幸せを掴めるように。
「……」
静の次の恋。しかしそれは、光にとっては最も考えたくないことだった。自分の死を想うよりもずっと、こちらを想像することの方が辛い。いたたまれなくなった光は、静から視線をそらす。
本当はそんなものして欲しくない。彼女の真っ白な身体に、他の男が触れるのなんて許せない。自分以外の男が彼女に対して、かつて自分がしていたことと同じことをするなんて、同じ欲望を向けるなんて許せない。
けれど、長く生きられない自分が、そもそも彼女の飼い猫でしかない自分が、そんな身勝手な独占欲で静の未来を縛りつけるわけにはいかないのだ。
彼女にはちゃんと幸せになって欲しい。自分が苦しめてしまった分、次の恋ではちゃんと……。
(……ほんまは、イヤなんやけどな)
ずっと自分だけを想って、二度と恋などせずに生きて欲しい。
(でも、しゃーないな……)
けれど、光はそんな気持ちを押し殺して、静のもとから去る準備を始めていた。
自分の身体の限界が近いことにも、なんとなく気がついていた。毎日の流動食すら食べるのが辛くなっていた。
静が大学に行っていて不在のときも、ずっと眠るようにうずくまって痛む身体を休めている。昔は自分一人だけのときは、心の洗濯とばかりに室内で遊んでいたのに、今はそうする気力も湧いてこない。
もうすぐそのときが訪れる。光はそう予感していた。どんなに去りがたくても、静のもとから去らなければならなくなる、そのときが。
「……光、どうしたの?」
しかし、らしくなく考え込んでいたら、静を不安にさせてしまった。
「ん、何でもないわ」
彼女を心配させないように明るくそう答えて、光は静の手元に視線を落とす。彼女の手元には、いまだにぜんざいのカップがあった。その中のふるふるとした白玉を目にして、光の心にふと悪戯心が芽生える。
光はスプーンを手にして、彼女の白玉を素早く奪い取って口に運んだ。
「あ、最後の一個だったのに!」
静の悲鳴を聞き流しながら、美味しそうに白玉を頬張って、光は得意げに笑う。
「だから取ったんや」
明らかに静をからかっているその姿に、静は怒り出した。
「ひ、光のバカぁ! 食いしん坊!」
「お前が油断しすぎなのがアカンのやろ」
「えー!」
「は〜 でもほんまにぜんざい美味いわ」
しかし、光は謝るどころかあからさまに話題を逸らした。
「え?」
「こんな美味い食い物あるとは思わんかった」
「本当? ぜんざい美味しい?」
けれど、鈍い静は気が付かない。あっさりと乗せられて、最後の一個の白玉を横取りされたのも忘れて、嬉しそうに微笑む。
「気に入ってくれたんだ。嬉しい」
「……思い出補正もあるけどな」
「そうだね。猫カフェ懐かしいよね。私も思い出しちゃうよ」
猫カフェ時代。あの頃から光は可愛かった。美しい黒い毛並みに端正な顔立ち、宝石のように輝いていた大きな緑の瞳。
そっけないふりをして本当はすごく甘えん坊なところも、静の目にはどの猫スタッフよりも可愛らしく見えて。里親募集に気がついてすぐに譲ってもらった。
それが五年前だ。静がまだ中学生の頃。それ以来ずっと静は光を可愛がっている。嬉しいときも悲しいときも、ずっと一緒だった。そして、今はもう大学生。すっかり大人になった。
光もまた、あの頃を振り返る。あの頃の静は幼かった。セーラー服の似合う中学生。常連客で自分を猫かわいがりしてくれた。
優しくて愛情深くて、こんな子とずっと一緒に暮らせたら、どんなに幸せだろうと思っていた。
猫だから見上げるばかりだったけど、静の無邪気な笑顔は、光の目には一番まぶしく輝いて見えた。看板メニューのぜんざいを食べているときも、いつも幸せそうにしていた。
そして五年の月日が流れた今、静はずっと大人びて綺麗になった。けれど、光が大好きなあの笑顔は今も変わらない。目尻を下げて優しく微笑む、あの笑顔。
「ぜんざい美味しかったね、光」
「せやな」
ようやく食べ終わって、光と静は無邪気に笑いあう。ぜんざいは温かくて甘くて美味しかった。こういう何でもない時間を大切に過ごしていきたい。
こうやって一緒にいられるのは、あともうほんのわずかで、辛いことやままならないことも多いけど。それでも人生は捨てたもんじゃない。今日も幸せだ。
「また買ってくるね」
「せやな、頼むわ」
そして、今が幸せなのは。隣にあなたがいてくれるからだ。