*ねこのひかる*

□09 夫婦善哉
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 それから、季節が変わって。吹く風がぐっと冷たくなった、秋深く。

 これまでと変わらず、光と静は日々を仲良く過ごしていた。光の体力が落ちたために、二人の生活習慣が変化したりといった、ネガティブ要素はあるけれど。

 それ以外は、今までとそこまで変わらない穏やかな時間。無理のない程度に近所を一緒に散歩したり、お部屋でゆっくりと過ごしたり、くっついて一緒に眠ったり。

 元々これ以上ないくらい、互いを想い合って大事にしていた静と光。光の余命があとわずかだと知っても、急に過ごし方を変えたりしない。

 静は毎日大学に通い、勉強を頑張り、時には友人たちと遊びに出かけたりして、自分が今やるべきことをきちんとやって、毎日を過ごしていた。

 いくら光のことが大好きで離れがたいからといっても、べったりと依存しない。それは光本人や小春とユウジの妖精二人の願いでもあり、そして静自身との約束でもあった。

 猫も含めたペットは十年程度で飼い主のもとから旅立ってゆく。それはどんなに辛くとも悲劇などではなく、最初から分かり切っていた当然の帰結だ。

 人間に八十年もの長い時間が与えられているのも、猫に十年という短い時間しか与えられていないのも、全ては神様の思し召しであり、恨む方がお門違いなのだ。

 大いなる自然の営為や生命の輪廻に、小さな個が抗っても、それは天に唾する行為でしかなく、何の意味もないこと。

 いくらペットは人生の伴侶といっても人間のパートナーとは違う。どんなに願っても八十年を一緒に過ごせるわけではない。それを理解した上で、それでもお互いを愛して大事にする。互いに依存せずに、節度を持ったお付き合いをする。それが静と光の約束だった。

 当たり前のことだけどそれが一番難しく、それでいて大切なことだった。



「……寒くなったね」

 のんびりとした口調で、静は光のすぐそばでしゃがみ込み、猫の姿の彼に話しかける。光は晩ごはんの流動食を静かに行儀よく食べていた。

 体力が落ちた今は、かつてのようなドライフードはもう食べられない。食費は嵩むが、それは仕方のないことだ。穏やかな優しい瞳で、静は光の背中をそっとなでる。

「……お洋服、似合ってるよ。かっこいい」

 深い赤色のベスト。体温が低めの光が寒い日でも温かく過ごせるように、静が買ってきたウェアだ。完全室内飼いだけど、一日中エアコンをつけているわけにもいけないから用意した。少しでも快適に過ごして欲しい。

「でも、これからお出かけだから、脱ごうね」

 ちょうど、光がご食べ終わったタイミング。光のウェアを脱がせて、口元を拭いて歯磨きをして。静は光を抱え上げて、瞳を閉じてキスをした。

 愛を込めた静のキスで、猫の光は人間の男の子に姿を変える。

 一日四時間十分だけの逢瀬の始まりだ。今夜の予定は手を繋いでのお散歩。光の外気浴を兼ねて、スーパーまでお買い物に行く。



「こうやってお出かけするの久しぶりだね」

「……せやな」

 手を繋いで、二人は近所のスーパーまでの道を歩いていた。肌寒い秋の気候が二人の距離を自然と近づける。肩と肩が触れ合うほどの近い距離で、静と光は寄り添って歩く。

「あ、そうや。忘れんうちに言うとかんと」

「え、なあに?」

「さっきのゴハン、あれ魚の苦いところ入っとるやろ」

「えっ?」

 先ほど光にあげた流動食。あの猫缶は青魚丸ごと一匹使用が宣伝文句の新製品だった。栄養がありそうだったから、買ってみたんだけど。

「やっぱ苦いの気になるわ。他のがええ」

「わ、わがまま……!」

「しゃあないやろ。苦手なもんは苦手なんや。これでも頑張って全部食ったんやで」

 しかし、気恥ずかしそうにそう続けられて、静は溜飲を下げた。小さく息を吐く。

「もう……」

 可愛い恋人にそうねだられてしまったら、従うほかない。お手頃価格も魅力だったけど、他のものにしよう。

「つか、俺がやった指輪はどうしたんや。今もつけとらんやろ。なんでしとらんのや」

 しかし、唐突に光はそんな言葉を口にして、静と繋いでいる右手にギュッと力を入れてきた。

 車通りの少ない住宅街の小路。光が歩道側で静が車道側を歩いていた。本来は逆なんだろうけど、病気の光が心配な静は、進んで車道側を選んでいたのだ。

 おっかなびっくりといった様子で静は光を見上げる。不機嫌というわけじゃないけど、光はあからさまにすねていた。

 普段はそっけないのに、今は感情むき出しだ。眉間に皺を寄せて、唇を尖らせて、これ以上ないほどに不満そうにしている。

 人の姿の外見は静と同い年、大学生くらいのはずなのに。今の光はまるで中学生の男の子のようだ。先ほどから彼に握られている静の左手が、にわかに熱を持つ。

 大人と子供のはざまの、少年らしい格好よさと可愛らしさ。愛おしさが込み上げて、静は彼から目が離せなくなる。

 しかし、返事もせずに見つめていたら。光は静の答えを急かすように、右手にギュッと力を込めてきた。焦った静は、しどろもどろに弁解する。

「……ッ、だ、だって」

「だって、なんや」

「だって、もったいないんだもん……」

 光に詰め寄られて、静は頬を淡く染めて答える。

「大事すぎて、つけられないよ……」

「はぁ? あんなんつけてなんぼやろ……」

 指輪はそう高いものではなかった。シルバーのカジュアルなものだ。宝石もニセモノで、可愛らしい日常使い用。なのにそんな言葉を口にする静に、光は呆れる。しかし、彼は嬉しそうに微笑むと。

「……静は、ほんまにアホやな」

 発言自体は辛辣だけど、その口調と瞳はとても温かい。静のことを愛おしく大切に思っているのが伝わってくる。静は小さく息を呑むと、頬を淡く染める。

 光は静と繋いでいる手を自分の口元に持っていくと。静の左手の甲、薬指の付け根あたりに、チュッと小さな音を立てて、可愛らしいキスをした。

「っ、光……」

 いつ誰が通りかかるかも分からない路上なのに。静は恥ずかしがって彼を拒もうとするが、光は静の手の甲から唇を離さない。しかも、そのまま歯を立ててきた。

 静は肩をすくませた。痛いわけじゃないけど変な感じだ。恥ずかしいやら、妙な情動を催してきたやらで、静の瞳が潤み始める。

「光、だめだよ、こんなとこで……」

 自宅からも大学からも近い住宅街の小路。いつ知り合いに見られるかもわからない場所で、恋人とこんなことをするのは、静には抵抗があった。けれど。

「こんなとこやからええんやろ」

「ッ!」

 自分が歯を立てたところ、静の左手の薬指の付け根に舌を這わせながら、光は楽しげにつぶやいた。

「……外ですんの、なんやむっちゃ興奮するわ」

 うっとりと細められた瞳の奥に、たしかに潜む欲望を感じて、静は呼吸を忘れる。ずっと一緒にいるとつい忘れてしまうけど、人の光はやっぱり人間の男の子で、だからそういう欲求もあるわけで。

「っ」

 反射的に静が光から離れようとするが。しかし、その瞬間。静は光に抱きしめられた。つないだ手を引き寄せられて、光の腕の中に閉じ込められる。そのまま光は数歩後ろに下がった。

 往来の邪魔にならないように、静に危険がないように、なるべく道路の左側、歩道側に寄る。

「も、光」

「唇にはせえへんし」

「そ、そういう問題じゃないよ……!」

 渋る静にはお構いなく、光は繋いでいない方の手を静の腰に回して、彼女の身体を自分の方にぐっと引き寄せた。

「ッ!」

 鼻先が触れ合いそうなほどに顔を近づけて、光はまるで煽るように言う。

「チューされるん、どこがええ?」

 とてもご機嫌な様子だ。そして、明らかにふざけている。分かりやすく恥ずかしがっている静をからかっている。

「唇以外なら、どこでもしたるよ」

「だ、ダメだよ。離してよ」

「ちえっ、まーしゃーないな」

 なぜか恩を着せるようにそう言うと。光は静の額にキスをして、彼女の腰に回す手を緩めた。今まで強引に背伸びさせられていた静は、アスファルトの上に着地して、安堵の表情を浮かべる。

 しかし、光は懲りもせず、静の首筋に顔を埋めてきた。

「も、光……」

「ちょっとだけ、こうするだけやから」

 その場所に何かされるのかと、静はつい身体を固くしてしまったけれど。光は本当になにもしなかった。静の匂いを楽しむように、ときおり鼻を鳴らすだけ。

 今は人間の姿なのに、まるで猫のような彼に、静の胸に温かなものが込み上げる。息遣いはくすぐったいし、道端でこんなことをするなんてと思うけど、すっかりほだされてしまった。

 光の言う通り、外でするのってなんだかすごく興奮する。誰が通りかかるかも分からないこんなところで、見られてしまうスリルを味わいながらする行為は、恥ずかしいけど気持ちいい。悔しいから言わないけど。



***



 途中で色々としていたら遅くなってしまった。ようやく静と光はスーパーにたどり着く。お客さんで賑わう店の前の駐車場で、静は不意に空を見上げると。

「もうすぐ満月なんだって」

 漆黒の夜空には少しだけ欠けた丸い月が浮かんでいる。秋の月はやはり綺麗だ。金色の大きなお月様。しかし、光は興味がなさそうだ。

「……へえ」

「もう、どうでもよさそう!」

 光の気のない相槌に静は怒るが。けれど、光はいつもこんな感じだ。そっけないのはいつものこと。おおらかな彼女は気にせずに、すぐに話題を進める。

「あ、ねえお団子買う? きっと売り出しになってるよ」

 季節のイベントも甘い物も、静はどちらも好きだった。光に明るく尋ねる。だけど、光は乗り気ではなさそうだ。

「ん…… せやなあ」

「え、だめ?」

 不安そうな静に、光は普段通りのそっけない口調で。

「……どうせなら、団子よりぜんざいがええわ」

「ぜんざい?」

「昔猫カフェでお前がよお食っとったあれや。あれがええわ」

 懐かしい話題を出されて、静は表情を緩める。もう何年も昔のことなのに、覚えていてくれたなんて。

「じゃあ、白玉ぜんざいだね」

 急に冷え込んできた秋の夜にぴったりの、温かなスイーツ。汁気のある甘い粒あんに、もちもちの白玉が入ったそれは、静の家に引き取られるまで光が過ごした猫カフェ『ぜんざい』の看板メニューだった。

 様々なトッピングをのせて、寒い時期はホットで、暑い時期はアイスで供されるそれは、さながら和風パフェといった趣で、静は光に会いに行くたびにそれを注文していた。けれどそれは、もう五年以上も前の話だ。

「……でも、そんなことよく覚えてたね」

「いつも美味そうに食っとったからな」

 まるで何でもないことのように、光はつぶやいたけど。彼の頬は隠しようもないほど熱を帯びていた。

 そう、静のことなら。どんな些細なことでも全部覚えている。光はそれほどまでに彼女のことが好きだった。それは猫カフェにいた頃から変わらない。

 光にとって、静はずっと昔から特別だった。世界中でたった一人の、特別で大好きな女の子。もう何年も憧れていて、そして諦めていた。あの春の日、神様に人間になれる力を与えてもらうまでは。

「もう、光ってば」

 光の分かりやすい照れ隠しに、静は嬉しそうに笑う。彼女にとっては、世界で一番愛おしいあまのじゃく。本人ですら記憶が曖昧な昔のことまで覚えているくせに、まるで大したことじゃないとばかりに強がっている。

 静は改めて、光の愛の深さを感じる。

(……その頃から気にしててくれたんだ)

 まさに積年の想い。気恥ずかしくも、面はゆい。

(……嬉しいよ、光。ありがとね)

 夜風は冷たく、秋らしい気候だけど、静の胸は温かいもので満たされる。

「じゃあ、今日のデザートはぜんざいにしよっか。それから……」

 幸せいっぱいの笑顔で、静がそう言った、そのとき。

「――あれっ、静?」

「ッ!」
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