*ねこのひかる*
□08 アクアリウム
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そして夏の終わりのある日。いよいよ計画は実行に移された。
「これがマグロなんやなあ……」
巨大な水槽を見上げて感慨深そうにつぶやく光に、静は吹き出すように笑う。
関西で一番大きな水族館。港近くで、すぐ隣には大きな観覧車やショッピングモールがあるところ。二人の初めてのデートらしいデートだけど、制限時間は四時間十分だ。猫の光が人間の男の子の姿でいられる時間。
ゆったりと泳ぐマグロをいまだに目で追っている光に、静は笑いかける。
「そうだよ。光が好きなやつだよ」
今は人間の男の子の姿だけど、本当は猫の光。好物はマグロの猫缶だ。本物と念願のご対面を果たして、感動に打ち震えている様子。
「そうか、これが……」
ぽつりとつぶやいて、光は改めてマグロを凝視する。クールなふりして興味津々だ。
水族館の中は、まるで深海にいるかのように薄暗い。アクリルガラスの向こうの群青の世界を泳ぐ大きなマグロは、黒いダイヤと呼ばれるのも納得の美しさだ。光はマグロを見つめながら。
「ほんますごいわ。これがあの、めっちゃ美味いやつなんやな……」
好奇心を隠しきれていない様子の光に、楽しんでくれているみたいでよかったと、静はほっとする。あとは、光が元気そうでよかった。胸の内で静はそうつぶやく。
お互いに明るく振る舞っているけど、本当は光は病を患っていて、あと半年も生きられない。だから遠出して遊びに行くなんて、本当はよくないことだった。
けれど、二人の最初で最後の思い出として、お出かけしようと決まったのが今回の水族館デートだった。もちろん光の容態が変わったらすぐに戻る。お互いに無理をしない、させないという約束のもとでのデートだ。
水族館はマグロがいるというのもあるけど、空調の効いた屋内で夏でも過ごしやすく、光の負担になりにくいからと選んだ場所でもあった。四時間だけだけど、のんびりと楽しみたい。
「ねぇ光、こっちジンベイザメいるんだって、早く行こうよ」
いつまでもマグロを見つめている光の手を取って、静は先に行こうとする。光と水族館というのがよほど嬉しいのか、静はとてもご機嫌だ。その幸せそうな笑顔は、悩み事や心配事など何ひとつなさそうな、穏やかなものだった。
「ん、ああ…… せやな」
光も微笑み返して、二人は薄暗い水族館の中を手を繋いで進んでゆく。
光もまた、静と同じくとても幸せそうにしていた。二人の様子は、周囲の他のカップルや家族連れの人たちと何ひとつ変わらない。余命わずかな恋人との最初で最後のデートという悲愴感はない。あくまでも自然体だ。
この幸せが永遠に続くと信じて疑っていないかのような、無邪気な振る舞い。
けれど、それでいいのだ。残りわずかな大切な時間を明るく過ごそうと二人で約束しあった。
ペットは元々長く生きられない。猫ならどんなに長く生きても十五年程度。いつかは別れなければならないときが来る。けれど、そういうときが来ても、静に元気でいてもらいたいというのが、光のたっての願いだった。
そして静は、彼のそんな願いを健気に実践していた。悲しい顔は決して見せず、まるで光の病のことなど忘れたように、何も知らなかった頃と同じように、明るく振る舞っている。
(……ごめんな。でもお前には強くなって欲しいんや)
いたいけな彼女に辛い要求を強いていることは、光自身も分かっていた。しかしそれでも、彼女には強くあって欲しかったのだ。それは光のためというよりは、静自身のために。
とはいえ正論で割り切ることもできず、油断すると光の胸も痛み始める。けれど、この痛みには耐える他ない。仕方がないのだ。今の自分にできることもまた、静と同じく悲しみを押し隠して明るく振る舞うことだけなのだから。
生まれつきのポーカーフェイス。感情が顔に出ないタイプでよかったと感謝しながら、笑顔の静に手を引かれ、光は水族館の中を進んでいく。
少し行った先にあったのは、まるでトンネルのような水槽だった。海の底まで潜ったらこんな感じなのだろうか。他のお客さんたちと一緒に、ゆっくりとしたペースで歩きながら光は思う。
マントのような大きなエイや、カラフルな熱帯魚の群れが頭上をすっと泳いでいく。群青の世界は地上とは別世界の美しさだ。深海の青いパノラマ。
静と手をつないで歩みを進めながら、光は上方の景色を眺める。今まで映像だけでしか知らなかった世界が、目の前にあるのは不思議な気持ちだ。
光はずっと室内飼いで、今までは静のお家の中と、静に引き取られる前にいた猫カフェの店内くらいしか知らなかった。そして、パソコンやテレビの画面に映し出される画像や映像。
それが人間になれなかった頃の、まだ普通の猫だった頃の、光の世界の全てだった。
しかし、人間になれるようになって、静と一緒に外にお出かけするようになって、光は色々なことを知った。映像ではない、五感全てを使って味わう現実。
先ほどのマグロだけではない。移動中の車窓からの景色や、チケット売場の人混みに、美しい青い空。晩夏の湿気をはらんだ暑い風や、子供たちの笑い声に、水槽のアクリルガラスの冷たい固さ。そして、すぐ隣にいる静のコロンの匂いも、二人で半分こしたアイスクリームの美味しさも。
光は世界の美しさや広さを改めて実感し、改めて静と神様に感謝した。自分をここまで連れてきてくれてありがとう。人間に変身する力をくれてありがとう。
元々は余命短いペットの心を慰めるための変身の力だったけど、この力のおかげで自分は幸せだ。猫の姿では不可能だとずっと諦めていた夢が、今は全て叶っている。ずっと好きで憧れだった飼い主さんと、まるで本当の恋人同士のようにデートできている。
残り少ない命でも、人間になれるようになったお陰で、自分はこの上もないほど幸せだ。
海底トンネルをくぐり抜けると開けた場所に出た。この水族館の一番の見どころの大水槽だ。ビルの数階分くらいありそうな巨大なアクリルガラスの向こうには、ゆったりと泳ぐジンベイザメがいた。雄大なパノラマだ。ジンベイザメを見上げる人たちは、皆とても小さく見える。
光は静に連れられて、水槽のガラスのそばまでやって来た。人混みを縫うようにしてたどり着いた最前列。
「すごいね、光。ジンベイザメだよ。私も初めて見たよ」
「ほんまにすごいなあ……」
先ほどのマグロも大きいなと思ったけど、ジンベイザメはそれとは比較にならない。体長は十メートル以上もあり、まるでモンスターか怪獣のようだ。今もゆったりと泳ぎながら、大きな口を開けて海水を吸い込んでいる。
その様は巨大な掃除機だ。人一人くらいなら余裕で丸飲みできてしまいそう。そんなジンベイザメの後ろを、アジの大群がついていくように泳いでいる。
一匹一匹は数十センチ程度でも、数千匹単位の大きな群れとなると圧巻だ。群青の海水の中でもなお、照明の灯りを受けて銀の輝きを放つ巨大な魚群は、息を呑むほどに美しい。
鈍く輝く渦のようなそれが、光と静の眼前を流れるように泳ぎ抜けてゆく。その様子はさながら海中の竜巻だ。トルネードのような群舞は、まるで脈動する巨大な生命体。光は思わず感嘆の声を漏らしてしまう。
「おお……」
「こっちもすごいね」
感心している様子の光に、静も相槌を打つ。
「ほんまやな」
光は口元を緩めて微笑む。
「……光は、やっぱりマグロが一番好きなの?」
「……?」
唐突に発せられた静の質問の意図がつかめず、光は不思議そうな顔をする。
「初めて見て一番感動したのって、やっぱりマグロ?」
なぜか随分と真剣な表情で、静はそう尋ねてきた。たしかに食べ物で一番好きなのはマグロの猫缶だけど、それはあくまで好物の話だ。眺めて一番感動したのは。
「なんやろうなあ……」
けれど、改めて尋ねられると悩んでしまう。みんな綺麗で、みんなすごかった。
美味しそうなマグロも、巨大なジンベイザメも、数千匹単位のアジの群れも、マントのようなエイも、色鮮やかな熱帯魚も、不思議な美しさのクラゲも、みんなそれぞれ綺麗で。
「……やっぱ選び切れへんわ」
全部、素敵で選べない。珍しく素直な光の返答に、静は満足そうに目を細める。
「私も、一番なんて選べないよ」
全部綺麗ですごかったもん。ぽつりとそう続けて。まるで海の底にいるかのような、水族館の薄暗い照明の中で、静は淡く微笑む。
今日も自分の飼い主さんは、本当に可愛らしくて綺麗だった。今日のデートのために張り切って新調してくれた白いワンピースや、貝殻やパールのあしらわれたネックレスやヘアアクセもよく似合っていて。
その姿はまるで、深海のお城で暮らす人魚姫のような、儚さと美しさだった。
***
館内を一周した後、二人は外に出てきた。もうおやつの時間を過ぎた頃。暑い盛りを過ぎたのはよかったけど、残り時間はもう少ない。
光が人に変身したのは水族館に着いてからだったけど、四時間十分の変身時間は丸一日のデートには、やはり物足りなく感じる。
しかし、二人は芝生でのんびりとくつろいでいた。海が近いからか、カモメのような鳥が頭上遥かを舞っている。少し離れた場所には巨大な観覧車があった。こちらも関西で一番大きいと有名なもの。
いつものように、静は光に膝枕をしてあげていた。水族館の館内とはいえ沢山歩いたから休憩中。同じようにくつろいでいるカップルや家族連れも多かった。
「……なんか、公園とか思い出すね」
「せやな」
二人でよく訪れた近所の公園や川辺。美しい芝生の上で、静はよくこうやって光に膝枕をしてあげていた。
張り切って遠くにお出かけしてきても、やることは普段と変わらない。いつも通り、のんびりと仲良く過ごす。
「そうだ、光。次はどこ行く?」
「ん…… 別に俺はなんでもええで」
「なんでもいいの?」
「今日は静の我儘なんでも聞いたるよ。元々今日はそういう日やろ」
ぶっきらぼうでそっけないけど、発言の内容は驚くほど優しい。今までの光の振る舞いからは考えられない。
「えっ?」
思わず静は彼を見返してしまう。
「……疲れんやつ限定やけどな」
淡く頬を染めながら、静から目を逸らして。光は照れ臭そうにそう付け加える。
「……光」
あまのじゃくな光が初めてくれた、素直に静を思いやる言葉。今までならきっと、もっと辛辣な言葉が返ってきていた。考えるのが面倒だとか、そんなのお前が考えろとか。
照れ隠しだとわかっていても、そういう言葉を浴びせられるたび、静は少しだけ悲しい気持ちになっていた。
(優しくなったな……)
改めて静は感慨に耽る。病が発覚してから、光は本当に優しくなった。優しかったのは元からだけどひねくれていたから、行動は思いやりがあっても、彼の言葉はいつも厳しかった。
けれど、今は違う。自分を素直にいたわってくれて、温かな言葉をかけてくれる光に、静は瞳を潤ませる。光のまっすぐな優しさが嬉しくて仕方がない。
「……光、ありがとね」
瞳に涙を浮かべて、静は光にお礼を言う。
「…………」
まだ照れているのか光は無言だった。静から視線を外して黙り込む。
静に「ありがとう」と言われるたびに、光の胸は不意にぎゅっと苦しくなる。嬉しくもあるけどそれ以上に切なく、この気持ちを何と呼ぶのか、光はまだ分からずにいた。
お礼を言いたいのは自分の方だ。静がこんなにも沢山の愛をくれたから、今自分はとても幸せだ。けれどそんな言葉は、きっと一生口にはできない。どう頑張っても自分は、まっすぐで優しい静のようにはなれないから。
「……そんなんええから、何がいいん?」
光はぶっきらぼうに催促する。早く話題を変えないと、恥ずかしくていたたまれなかった。静は少しだけ考えるそぶりをすると。
「あのね、一緒に観覧車に乗りたい」
気恥ずかしそうに、そんなことを口にする。デートの定番、王道中の王道だ。
「……ええで。もう少し休んだら行こうな」
静の膝枕で寝そべっている光からは見えないけど、芝生の上で横座りしている静の視点からなら見える観覧車。
シースルーのゴンドラが有名で、天気のいい日には遥か遠くの山並みや国際空港までが見渡せるという巨大なもので、眺望の美しさはお墨付きだ。
光の了承をもらった静は、嬉しそうに微笑んだ。
「うん、ありがとね」
光の髪をそっとなでる。静によしよしとされながら、うとうとと光は微睡み始める。光が瞼を閉じたのを見届けて、静は視線を観覧車の方に向けた。