*ねこのひかる*
□07 受容
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「あーもう我慢できんわー」
病気のことなんて知らなかった頃と何ひとつ変わらない、飄々とした口調で。光はそんな言葉を口にした。
完全なる棒読みだ。感情は全くこもっておらず、我慢できないなんて明らかに嘘。光は静の頭をよしよしとなでながら、そのままの調子で続ける。
「いつまでそうやってグズグズしとるつもりなんや。ただでさえ残り時間少ないのに」
「――ッ!」
残り時間という単語に身体を震わせて、静は泣き腫らした瞳で光を見上げる。怯えに揺れる泣きはらした瞳。しかし、そんな不安げな彼女に向かって光は淡々と語り掛ける。
「……ペットはいずれいなくなるもんなんやで。寿命なん元からせいぜい十年程度や。お前今ハタチとかやろ。俺がおらんようなった残りの六十年、ずっと泣いて暮らすつもりなんか?」
悲壮感などかけらもない、淡々としたローテンション。光はこんなときでもマイペース。
「でも!」
そんな彼に静は何かを言い返そうとする。しかし光は彼女の言葉を遮ると。
「つか、一番辛いのはどう考えても俺やろ」
「……え?」
予想の斜め上を行く言葉をかけられて、静は固まる。まさかの展開だ。思わず間抜けな声を出してしまう。
「そもそも何で病人の俺が健康なお前を支えとんねん。普通逆やろ。病気なん俺の方なんやで、飼い主のお前が責任もって俺を支えるべきやろ」
ほんまありえへんわ、とため息を吐かれて。
「ええっ……」
静は呆然としてしまう。自分で言うかそれという台詞に、静の瞳に溜まった涙が引っ込む。
しかし、それが光なりの励ましなのだ。ひねくれいて口が悪くて、でも本当は誰より静を想ってくれている。それが静の大事な猫の光だった。
静の膝枕が大好きで、ことあるごとにおねだりをしたり。静が家にいないときは、静の着古したニットにくるまって寂しさを紛らわせていたり。そして静の帰宅の気配を察知したら、一秒でも早く会いたくて玄関の前に飛んで行って、彼女がドアの鍵を開けるのを今か今かと待っていたり。
暴漢に襲われたときも、光のお出迎えの習慣のおかげで静は助かった。玄関先にいた光が男に噛みついて、彼の邪魔をしてくれたから。静は男に組み敷かれる前に、彼の魔の手から逃げ出すことができた。
その後も、光が小さな猫の身体で男に命がけで立ち向かって時間を稼いでくれたからこそ、静は警察署に電話して助けを呼ぶことができた。
素直な愛情表現は少なくても。光はこれほどまでに静を大切に思っていた。大好きで大事な飼い主さん。今までずっと一緒にいたから、静はそれを痛いほどに分かっていた。どれほど光に愛されているか。
クールでそっけなくても。静が光を愛しているのと同じくらい、光もまた静を大事に思ってくれていた。
「辛いこともあるけど、それでも俺は静にはいつも笑うとって欲しいんや。残りあとちょっとになってもうたけど、それでも今までみたいに明るく過ごしたいんや」
「……光」
「それに、その方が長生きできそうやろ」
「っ!」
「だから、お前は元気でおって?」
まるで懇願されるような淡い笑みを向けられて。静は再び涙をこぼす。あと半年で光はいなくなる。そのどうにもならない事実を改めて突きつけられて。悲しみが涙となって静の瞳から溢れ出す。
けれど、静は光の言葉を噛みしめながら、動物が自らの死をどのように受け止めるのかを思い出していた。猫を始めとした動物たちは、愛玩動物でも野生動物でも、死期が近いからといって、慌てたりへこんだりはしない。
当然のことながら動物たちは単純な出来事や事実に、必要以上に意味を与えたり、何かのメッセージを読み取ろうとしたりはしない。死の恐怖や苦しみを感じることがあっても、基本的に事実は事実として粛々と淡々と受け入れるだけ。
静も本当は分かっていた。毎日泣いて暮らしていても笑って過ごしていても、同じように過ぎていく貴重な残り時間。だから、明るく過ごさなければ損なのだ。
とはいえ頭ではそう理解していても、すぐに割り切ることはできずに、ずっと落ち込んでいた。だけど、もうやめにしないと。大切な残り時間は、今もどんどん減り続けている。無駄にできる時間なんてない。……だから、早く元気にならないと。
「……うん。光、ありがとね」
大好きな光のためにも、自分のためにも、元気になろう。同じ時間を過ごすなら笑顔でいよう。大切な残り時間を明るく楽しく過ごそう。静は気持ちを新たにする。
やっぱり、光のことが好きだ。同じ人間じゃなくても、あと半年しか一緒にいられなくても、光のことが大好きだ。人になれなかった頃や、猫と人の二重生活を無邪気に楽しんでいた頃と何も変わらずに。二人で前向きに生きて行こう。静は改めてそう決意する。
彼女が落ち着いたのを見届けて。
「――つか、お前何かしたいこととかないん?」
静の背中をぽんぽんと叩きながら、光は問いかける。
「したいこと?」
「せやで。どうせなら元気出るように、普段やらんような特別なこと、やったらええんちゃうの」
静の髪の毛をいじりながら、光はどうでもよさそうに言う。無関心を装っているけど、彼女の髪をいじる仕草に緊張と落ち着きのなさが現れている。
「特別なこと?」
不思議そうな静に、光は言った。
「せやで。たとえばやけど、どっか遠出するとか」
静を元気づけるための、彼からのデートのお誘い。一日四時間しか人になれずに、あとは猫の姿だったから。静と光のデートやお出かけはいつも近場だった。徒歩圏内で遠出なんてしたこともない。
「……いいの? 大丈夫?」
静は心配そうに眉を寄せる。誘ってもらえるのは嬉しいけど、光が心配だ。無理してないかとか、身体は大丈夫なのかとか。
「移動時間長くても、俺キャリーバッグで我慢するし」
「ほ、ほんと? 平気?」
「平気やで。むしろ狭いとこのが好きなくらいや」
「そっか……」
狭いところが好きなのは猫の習性だ。静は安堵する。しばらく考えてから、彼女は改めて口を開いた。
「……それじゃあ、水族館に行きたいな」
屋内で空調が効いているから、夏でも涼しく負担にならない。のんびり過ごせそうだし安心だ。
「……ええな、魚おるとこやろ」
光は楽しげに目を細める。魚に興味を持ってしまうのは猫だからだろうか。
「そうだよ。あ、マグロもいるよ!」
光の好物はマグロの猫缶だ。静は笑顔でアピールする。
「おお、それは見てみたいわ。あの美味いやつ、本物はどんななんやろ」
光も楽しそうに微笑む。静も嬉しそうに言葉を重ねた。
「すっごく大きなお魚なんだよ」
そのキラキラとした笑顔に、ようやく光は確信を持った。静はもう大丈夫だ。
「よし。今から出かけるで、静」
「えっ?」
「本屋にガイドブック探しに行こ」
ずっと静を勇気づけてあげたかった。自分の力でこの場所から連れ出してあげたかった。光は静の小さな手を取った。彼女の返事は待たずに、ぎゅっと握りしめる。
猫の姿では静はあんなに大きく感じるのに、人の姿だとこんなにも小さく感じるのは、やはり何度経験しても不思議だ。
人間の男の子の姿の光に、強く手を握られて。静は感動に息を呑む。光の方からこんなふうにリードしてもらったのなんて初めてだった。
今までは静の方から光を誘って、静ばかりが彼の面倒を見て、お世話をしていたのに。それがいつのまにか逆転していた。
ずっと小さな子猫だと思っていた光は、いつのまにかこんなにも頼りがいのある立派な男の子になっていた。我儘で甘えん坊な幼い少年などではなく、大事な女の子を自分の力で守り支えようとしてくれる、強くて格好いい男の子。
静は感慨深い面持ちで瞳を細める。彼の姿がまぶしい。
「うん。……光、ありがとね」
泣き腫らした赤みがいまだに残る瞳で、静はにっこりと笑った。そのたおやかな微笑みは、かつての元気だった頃の彼女の笑顔と重なる。
光と一緒にいられるのはあと半年。けれどこうやって、彼の成長を一番近くで見守っていられるのが、何にも代えがたい静の幸せだった。
***
静の小さな手を握って本屋までの道を歩きながら、光は改めて考える。猫の姿のときは、あんなにも大きくて母や姉のようにすら感じていた静だけど。人の姿の今はとても小さく感じる。母のようになんてとても見えない。自分と同い年くらいの普通の女の子だ。
猫カフェからもらわれてきて五年間、静はずっと自分を大事に可愛がってくれた。まるで本当の母のように、何の見返りも求めずに一途な愛を注いでくれた。そんな彼女に今度は自分が愛と感謝を返していくのだ。その命が尽きるときまで。
一日たった四時間でも、飼い猫ではなく人間の恋人として静を支えよう。きっと神様はそのために、自分に変身の力をくれたのだ。
今までは自分の身勝手な要求を押しつけて、静を困らせて、自分のことも苦しめてばかりだったけど、それはもうやめよう。たった四時間しか人間になれないことを恨むのも、人間の男を妬むのも、もうしない。
ずっと求めてばかりだった自分から、相手に与えられる自分になる。自分のできる精一杯で彼女に愛を返していこう。何よりも貴重な限りある残り時間を、大切に楽しく過ごそう。
(……静、ほんまに好きやで)
決して口には出せない想いを、光は心の内で噛みしめる。
余命わずかでずっと一緒にいられなくても、男女として結ばれることが永遠になくても、それでも静のことが好きだ。彼女も同じ気持ちでいてくれると、今なら素直に信じられる。
普通の人間同士の恋人のようにはなれなくても、限りある時間を二人で幸せに過ごしたい。自分の命の灯が消える、そのときまで。
本屋に着いてすぐ旅行雑誌を買って、光と静は隣の喫茶店でお茶をしていた。買ったばかりの雑誌を広げながら、和気藹々としている。楽しそうなその様子は、周りからは仲のいい恋人同士にしか見えない。
けれど実際は猫と飼い主だ。神様しか知らない秘密の恋。光の正体を知っているのは静だけで、静の本当の優しさと強さを知っているのも光だけ。
世界で一番、甘くほろ苦い片想いが二つ。決して結ばれることのない二人は、どんなにお互いが想い合っていても、永遠の恋人未満だ。しかし、それでも。静と光は幸せそうだった。
「――見て見て! 光、こことかどうかなあ」
はしゃいだ様子で、静は紙面を指さした。関西で一番大きな水族館の紹介ページだ。近くにはショッピングモールに大きな観覧車がある。ハーバーサイドの景色が美しいところで、夏のお出かけにもぴったりだ。
「……まあええんちゃう」
「適当!」
初めての遠出、デートらしいデート。大好きな人とのお出かけは計画するのも楽しい。静と光は笑いあいながら、行先の詳細を相談する。
旅行で一番楽しいのは計画を立てているときというのは、あながち外れていないのかもしれない。それくらい二人の笑顔はキラキラとしていた。互いを見つめる瞳は愛おしげで、そこに他者が入り込む隙などない。
全てが願い通りにはいかないけど、それでもやはり生きることは何よりも尊く、そして素晴らしいことだ。自分の心の持ち方次第で、どれだけでも幸せを感じられる。それがたとえ他人から見たら、とても満足できないような状況でも。
一緒にいられる、同じ目線で言葉が交わせる。お互いを愛して慈しみ合うことができる。今この時だけでも、人間の恋人同士と同じように過ごせるだけで幸せだ。猫だからとずっと諦めていたことが、今は全て叶っている。
それがたとえかりそめでも、自分は幸せだ。だけど、それも全て静のお陰だ。静が自分をこんなにも愛してくれたから。
きらきらとした宝物のような時間を大事に過ごそう。二人で過ごす最後の夏でも明るくいよう。口に出さずとも静もそう思っていてくれるはずだ。元気に過ごして、沢山の楽しい思い出を二人で一緒に重ねて行こう。
雑誌の入ったビニール袋を提げて、笑いあいながら手を繋いで家路を辿る光と静を、小春とユウジの天使二人は、天界から見おろしていた。
「……元気になったみたいやなぁ」
ハンカチで目元をふく小春に、ユウジが相槌を打つ。
「……せやなぁ」
二人とも満足げに目を細めていた。こういう幸せな思い出を与えてあげたかったから変身の力を授けたのだ。
場合によってはより残酷な結果を招いてしまいかねないあの力だけど。この二人なら大丈夫だと、試練があっても乗り越えてくれると信じたからこそ、神様はあの二人を選んで奇跡を起こした。
「これでひと安心やな、小春」
ユウジは小さく息を吐いて、笑みを浮かべる。
「ほんまやね、ユウくん」
小春もまた穏やかな笑顔を浮かべていた。神様の目にやはり狂いはなかった。御使い二人は胸をなでおろす。しかし光と静はもちろん、それを知るよしもなかった。