*ねこのひかる*
□07 受容
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その後も、静はずっと元気がなかった。当然だ。未遂とはいえ我が家に強盗が押し入り、撃退したと思ったら、今度は目に入れても痛くないほど可愛がっている愛猫が、余命半年と宣告されてしまったのだ。
しかし、家の外では静は普段と変わらず気丈に振る舞っていた。大学に行って授業を受けて、友人たちともこれまでと変わらず仲良く過ごす。あからさまにしょげていては、周囲に余計な心配と負担をかけてしまう。
それに、変に気を遣われるのもいたたまれなかった。周囲の優しさが今はまだ逆に辛い。
本日最後の授業を終えて。静は夕暮れ時のキャンパスを歩いていた。すると、背後から誰かが走ってくる気配がした。振り返った瞬間、明るい声で名前を呼ばれる。
「――静!」
声を掛けてきたのは、友人の梓真だった。静とは入学当初から仲が良く、よく一緒に授業を受けたり、みんなで遊びに行ったりしていた。梓真は照れたような、申し訳なさそうな様子で。
「ねぇ、さっきの第二外国語の授業のノート貸してくれる?」
「いいけど、梓真さっきの授業いなかったっけ?」
静は不思議そうな顔をする。先ほどの授業は、梓真もきちんと出席していたはずだ。すると、彼女は。
「うん、それがさ、ちょっと眠くて……」
恥ずかしそうに梓真は笑った。つられて静も口元を緩める。可愛らしい友達だ。静は小さく息を吐いて、カバンからノートを取り出す。
「もう、ダメだよ。はい」
穏やかに微笑んで、梓真に差し出した。
「ありがとう、助かる! 明日の専門の授業で返すね」
梓真は申し訳なさそうに受け取ると、しかし、おもむろに声を低くした。
「……ねぇ静」
「……え?」
急に変わった声のトーン。深刻そうな表情の梓真に、静はつい構えてしまう。
「まだ元気ないっぽいけど、大丈夫? 私で出来ることあったら何でも言ってね」
眉を下げて、梓真は心配そうに言う。
「……ッ、梓真」
「私ね、本当に静には悪いことしちゃったって、ずっと後悔してたの」
神妙な顔で梓真は続ける。彼女の瞳にはすでに涙がにじんでいた。そういえば強盗に襲われたあの夜の飲み会の幹事は、他でもない彼女だった。ようやくそのことに思い至り、静の目頭が熱くなる。
「私たちがちゃんと静をお家に送ってたら、あんなこと……ッ!」
そう言い終わるやいなや、梓真は俯いて涙をこぼし始めた。よほど後悔の念に苦しんで、一人思いつめていたのだろう。
「……そんなことないよ、梓真たちは悪くないよ」
あまりにも苦しそうに涙する梓真の背中をさすりながら、静は彼女を励ました。そして、梓真の負担を軽くすべく、ずっと言わなければと思っていたことを口にする。
「せっかく送ってくれるって言ってくれたのに、私が断っちゃったから……」
事件のあったあの夜。飲み会の一次会の終わりに、静は自分一人で光の待つ自宅に帰ろうとした。夜だけどまだそれほど遅くない時間で、歩いて数十分の距離だったから一人でも平気だと思った。
今まで危ない目に遭ったことなど一度もなく、まさか自分が狙われるなんて思わなかった。
そんな油断で危険な目に遭って、愛猫に怪我をさせて、周囲にたくさんの心配をかけてしまった。静は自分の浅はかさを改めて悔いた。
自分の不注意で、本当に申し訳ないことになってしまった。けれど、自分が胸を痛めている姿を梓真に見せるわけにはいかない。ただでさえ落ち込んでいる彼女を、さらに苦しめてしまう。
静は弱っている心を奮い立たせて、気丈に振る舞った。
「ていうか、悪いのは犯人なんだから、梓真は気にしなくていいよ」
変な心配かけちゃってごめんね。静は続けてそう謝る。
「そっか…… 私の方こそごめんね、静……」
梓真はぐずぐずと泣きながら、そんなことをつぶやく。
「ごめんね…… 一番大変なのは静なのに、私が泣いちゃってゴメン…… 本当バカみたいだよね……」
一度溢れ出した涙は、なかなか止めることができない。自分が泣いているせいで、静に気を遣わせているのに気づいていた、梓真は再び静に謝る。
「……そんなことないよ。心配してくれるの嬉しいよ。私の方こそ、変な心配かけちゃってごめんね」
静は梓真に改めてお礼を言った。たとえ気休めにしかならなくても、静にとって梓真の気持ちや励ましは、とても嬉しいものだった。思いやりのある同性の友人の存在は心強く、支えになっている。
梓真はようやく落ち着いたのか、涙を指先でぬぐうと、弱々しいながらも笑顔を見せた。
「……静、ありがとね」
無事に明るさを取り戻した友人に、静は安堵する。そして、その後。二人でしばらく世間話をしてから、静は梓真と手を振りあって別れた。帰る方向は別々だった。
友人の背中が見えなくなるまで見送ってから、一人になった静は、しかし表情を曇らせる。強盗事件のことはもういい。怪我もしなかったし何も取られなかった。まだ時々帰り道に不意に恐怖を感じたりするけど、きっと時間が解決してくれる。
今の静が気にしているのは、愛猫で恋人の光ことだ。こちらの方がよほど辛く苦しく、いまだに受け入れられない。もう長くないと言われてしまった。あと半年も経てば光はいなくなる。永遠に手の届かないところに行ってしまう。
可愛い姿にもう会えなくなると思うと、悲しくて苦しくてどうしていいかわからない。悲しみで人が死ねるなら、自分はきっともう死んでいる。
それほどまでに打ちひしがれているせいか、外では気丈に振る舞えていても、家の中で静は泣いてばかりいた。
大学や外出先から帰宅して、いつも通り猫の姿の光にお出迎えしてもらっても、その顔を見るなりしゃがみ込んで泣き出してしまったり、猫の姿や人の姿の光に意味もなく抱きついて、長い間めそめそとしていたり。
外での無理がたたっているのか、光と暮らす家の中で、静は自分の感情を全くコントロールできずにいた。こんなことではいけない、しっかりしなくちゃと思っているのに、ままならない。
姿かたち関係なく、大好きな光を目にするだけで、苦しくなって泣いてしまう。愛する光を失いたくない。しかし彼を救う手立てはなく、どうしようもない。光の病状はそれほどまでに悪かった。
けれど、自分がそんな辛い状況にあるのに。光はいつもめそめそと泣いてばかりの静に、根気よく付き合ってくれた。ひとことの文句も言わず、自分にすがりつく彼女を受け入れて、優しく宥める。
人の姿、猫の姿でできることは違うけど、光は自分にできる精一杯で、静を励まして支えようとしてくれた。抱きしめて、抱きしめられて、涙をぬぐって、キスをして。ひたすらその繰り返しだ。それがずいぶんと長い間続いた。
***
そして今も。静は光の腕の中でめそめそと涙をこぼしていた。嗚咽を漏らし、何度も苦しそうにしゃくりあげる。人の姿の光は、そんな彼女の背を優しくさすってあげていた。
ここしばらく静はずっとこんな調子だ。光は辛そうに眉を寄せる。俯いて背中を丸めて自分にすがりついて泣く今の静は、まるで別の女の子のようだ。そこにかつてのいつも明るく温かかった彼女のイメージはない。
本当の彼女はいつも明るくて優しくて、そして自分なんかよりもずっと強くて包容力があって、不甲斐ない自分の全てを受け止めてくれていた、そんな女の子だった。
けれど、今の静は正反対だ。自分では抱えきれない苦しみを抱えて、乗り越える術も持たず、ひたすら誰かにすがるだけのか弱い女の子。あんなにも強く優しかった彼女が、ここまで変わってしまうなんて。
(……苦しいのは俺も一緒なんやけどな)
というかむしろ自分の方だ。不思議にどこか醒めた頭で、光はそんなことを思う。
あと半年で消えてしまう自分の命。それを知った当初は、なんで自分がとか、もっと長生きしたかったとか、単純に死ぬのが嫌だとか怖いとか色々思ったけど。
でも、それはもういい。長生きできないのは辛いけど、それはもういいのだ。いまだにぐずぐず泣いている静をあやしながら、光は不思議に凪いだ気持ちでいた。
というか、そもそも最初からこうなるのが自分にはなんとなく分かっていた気がする。先日明かされた虹の橋キャンペーンの話も、そういえば以前妖精のバンダナの方が言いかけて、坊主の方に止められていたような気がするし。
余命半年と聞いた当初はショックだったけど、今はもう納得できている。死ぬのは怖いけど、自分はこういう運命だったのだと、今はもう受け入れている。早死には辛いけど、それと引き換えに人間になれる力をもらったのだと思えば。
(……俺は、後悔なんてしてへんで)
納得できるし、後悔もない。あの力のおかげで、ずっと手の届かなかった飼い主さんの静に手が届くようになって、両想いになれて、短い間だったけどこんなに幸せな時間を過ごせたのだ。だから、もう思い残すことはない。
(……静、ありがとうな)
心の内で光は改めて静に感謝する。
(お前が俺のことを沢山愛してくれたから、こんなことになっても俺は挫けずにおれるんやで)
自分だけじゃない、彼女の力もあったからこそ。神様はあの奇跡をくれた。
『一心同体相思相愛、思いの強さは奇跡を起こすんやでぇ』
妖精の眼鏡の方もいつかそう言っていた。
しかし。声を殺して肩を震わせる静の背中をさすりながら、光は息を吐く。いつも優しくて誰よりも強かった彼女は、今は見る影もない。
自分のためにこんなにも変わってしまった彼女を見るのが、光は辛く苦しかった。けれど、その感情とは裏腹に。自分のためにここまで嘆いてくれるのを、嬉しく思う気持ちもあって。
これほどまでに深く悲しんでくれるほどの強い愛情。それが愛しの飼い主さんで恋人の、静という子なのだ。こういう子だからこそ、自分も種族を超えた恋に落ちた。
こんなにも深く愛してくれてありがとう。素直になれない自分は、そんなこと口が裂けても言えないけど、静を支えて励ましたい気持ちに嘘はないよ。難しいかもしれないけど、元気を出して欲しい。
彼女の笑顔を取り戻すために、自分に何ができるだろう。今度は自分が彼女を支える番だ。
いまだに悲しみに暮れる静の背中をさすってやりながら、ついに光は口を開いた。