*ねこのひかる*

□06 発覚
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 翌日の午後。静と光の二人はさっそくかかりつけの動物病院に来ていた。

「――あなたはもうすっかり元気になったみたいね」

 馴染みの女医にまっすぐな笑顔を向けられて、静は恥ずかしそうに答えた。

「はい、お陰様で……」

 この女性の獣医も、事件後の静と光を気にかけていてくれていた一人だった。賢くて優しい人で、以前から光の健康相談にも乗ってもらって、とてもお世話になっていた。

 静は猫の姿の光を腕に抱いて、椅子に座って彼女と向かい合っていた。光もまた、静の腕の中で大人しくしながら耳をピンと立てている。猫の姿でも人の言葉は理解できる。

 しかし、獣医はにわかに表情を曇らせると。

「……ところで、光くんの精密検査の結果なんだけどね」

「え……?」

 背筋に冷たい何かが押し当てられたような感覚。にわかに不安になって静は硬直する。

「怪我自体は、最初の診察でも話した通りたいしたことないの。だけどね」

 一旦言葉を切って獣医は小さく息を吐く。そして。

「落ち着いて聞いて欲しいんだけど」

 神妙な口ぶりで彼女は続けた。

「怪我とは別に、病気で状態がすごく悪いの。そうね、今のままだと――」

 女医の言葉に静は愕然とする。

『半年も、もたないかもしれない』

 衝撃でめまいがする。遠のきそうになる意識を、静はその場で必死に繋ぎとめていた。



「小春さんたちは知ってたんですか!?」

 病院から自宅マンションに戻ってきてすぐ。静は小春とユウジの妖精二人を呼び出して、詰め寄っていた。光は猫の姿のまま、彼女の腕の中に抱かれている。

「う〜ん、バレてしまっては仕方がないわねぇ……」

「ッ!」

 気まずそうに頬を掻く小春に、静は息を呑む。元々青かった顔が、色を失い白くなる。さすがにそんな静を気の毒に思ったのか。ユウジが小春の話を補足する。

「……もともとこの変身ごっこは、若いのに死期の近いペットに、悔いのない生を送らせてあげようっちゅうキャンペーンの一環やったんや。未練や思い残しを少しでも減らすために、今までお世話になった飼い主とも、直接やりとりさせてあげようっちゅう神様の計らいやな」

 ユウジの口ぶりは淡々としていた。彼の言葉を継ぐように、小春が改めて口を開く。

「その名も虹の橋キャンペーンや。若くして死ぬペットと飼い主のコンビでも、特に絆の強い二人が対象者や。まあみんな絆は強いけど、その中でもさらに特別な二人やね。一心同体相思相愛、思いの強さは奇跡を起こすんやで」

 小春の口調はあくまでも明るい。そこには静と光を揶揄する意図は微塵もない。しかし、あまりにも残酷な事実をあっけらかんと告げられて、衝撃のあまり静は光を抱いたまま膝から崩れ落ちた。

「そ、そんな……!」

 ついに堪え切れなくなったのか。彼女の瞳から大粒の涙が溢れる。とめどなく伝い落ちるそれは、すぐに床に染みをつくる。言葉もなく泣きじゃくる静を、しかしユウジは突き放す。

「……神の奇跡がそう簡単に起きるわけないやろ。若いのに死ななきゃならんからこその特別措置や」

 小春も同様だ。明るいけれど、あくまでも他人事として一線を引いている。

「まあ症状がなければ、病気の進行に気づかないのもしゃあないわなぁ。光クンは体力あったし、ちょっとの違和感はカバーできちゃうのが仇になったわね」

 そこまで言ってから、小春はまるで歌うように言った。

「最後の命の輝きは美しく尊いね、ミラクルもこれなら起きて納得〜」

 能天気なその台詞に激して、静は彼に食って掛かった。

「どうしてもっと早く教えてくれなかったんですか!!」

 涙をこぼしながら激昂する静に、しかし小春は苦笑する。

「……逆に聞きたいんやけど、早く教えて欲しかった?」

「ッ!」

 頭のいい彼に質問を質問で返されて。静は目を見開き固まった。そして、小刻みに震えはじめる。

「……せやろ、楽しい生活に水差すだけや。別にわざわざ教えんくても、アンタたち二人は仲良しで幸せそうやったし」

 可哀想な子供を見るような目で、小春は静に諭すように言う。彼の隣のユウジもまた、抑揚のない声で続ける。

「一線越えるのが禁止なんもそのためや。元々種族が違うからゆうんもあるんやけど、悔いなく生きて思い残すことなく死ぬために、そんなことは要らんどころか逆効果やろ。もうすぐ死ぬ相手とそんなことになったって、余計辛くなるだけや。ただでさえ大事な相手に先立たれるなん辛いのに、追い打ちみたなるで」

 しかし、その無感動な口ぶりとは裏腹に。ユウジはとても優しかった。けれど、それは小春も同様だった。

「無用の混乱や不幸はウチらも生みとうないんや。一線を越えたら二度と人間になれんくなるんは、そういうことを防ぐペナルティやね」

 ずれた眼鏡を上げながら、穏やかに続けられたその言葉には、意外なほどに思いやりと配慮があった。人の姿であればできないわけじゃない。けれど、禁止されていたのはそういう理由だったのだ。

 いまだに涙を止められずにいる静を宥めるように、小春は改めて彼女に頼み込んできた。

「……まあ、そうゆうことや。死期近いとはいえ人間になれへんくなるなんて嫌やろ? 猫の姿二十時間に人の姿四時間で、きたるその日まで平和に暮らしてよ。な?」

 申し訳なさそうに、けれど何かをしっかりと言い含めるような小春の言葉。普段は能天気で明るい彼に、真面目な様子でそんな言葉をかけられて。静は思い出していた。

 普段は妖精さんと呼んでいるけれど、お人形サイズで背中に金色の翼を生やしている小春とユウジは、本当は天使で神様の御使い。

 きっと彼らのお仕事内容は、地上の迷える魂を天国に導いてゆくことなのだ。たとえ短くとも悔いのない生を送らせて、その魂を成仏させる。

 それが二人の仕事なら、彼らが普段通りなのも理解できる。そういう立場の彼らが、今の静のように取り乱したりするはずがないのだ。

「わかりました。もう大丈夫です……。呼び出してすみません」

 これ以上食い下がっても、二人を困らせてしまうだけだ。静は小春とユウジに頭を下げる。二人は心配そうに顔を見合わせるが、今はそっとしておいた方がいいとでも判断したのか、そそくさと姿を消した。

 二人がいなくなったのを確かめてから。静は腕の中の愛猫を力の限り抱きしめた。

 猫の姿でも人の言葉が分かる光は、自分が余命いくばくもないと知ったはずだ。さきほどの獣医との会話、妖精二人との会話を、彼はどんな気持ちで聞いていたのだろう。

 しかし、猫の姿のせいか表情が読めない。光は今、どんな思いでいるのだろう。



「――ああ、ついにバレてしもうたわ。ユウくん」

 ところ変わって。この世のものとは思えないほど美しい緑の草原で。妖精さんではなく天使二人は自分たちの仕事相手についてお喋りしていた。

「もぉ〜! あんなバレ方するくらいなら、最初から言うといた方がまだマシやったわ!」

 小春は地団駄を踏みながら、オーバーに悔しがっていた。

「それは無理やろ……。でも、もう少しええやり方で知らせてやれればよかったな……」

 苦虫を噛み潰したような顔をしながらも、ユウジは腕の中のポメラニアンをなでながら、そう続ける。

 この場所では、ユウジと小春は手乗りサイズではなく、ちゃんと人間の大きさだった。身長は約一七〇センチ。二人とも人の姿の光より背が高い。そして、二人のその背にはあの金色の翼はなかった。今は不要だからしまっているのだ。

 ユウジの腕に抱かれているポメラニアンは、先ほど別件の仕事で二人がこちらに連れてきたばかりの子だった。生まれつき内臓に異常があり、たった六年でこちらに来るしかなかった子だ。

 しかし、その子を差し置いて。余程悔しかったのか小春はいまだに騒いでいた。

「ほんとにもう、アタシとしたことがメッチャ悔しいわ……! ムキ〜!」

 ユウジの腕の中のポメラニアンと、天使二人の周囲にいる動物たちが、不思議そうに小春を見上げる。

 ここ、緑の草原には沢山の動物たちがいた。さまざまな種類の犬や猫、小鳥にネズミにハムスター。可愛い彼らに囲まれて、ユウジはため息を吐いた。

「せやなぁ……」

 小春もユウジも静と光のことを心配していた。職業倫理の都合で過度な干渉はできないけど、それでも二人は意外なほどに静と光に優しかった。

 しかし、唐突に。ユウジの腕の中のポメラニアンが一点を見つめて震えはじめる。

「……? どうしたんやお前」

 ポメラニアンは急に暴れ出して、ユウジの腕の中から飛び出した。そのまま脱兎のごとく駆けてゆく。勘のいい小春は、ポメラニアンの意図を即座に察すると声を上げた。

「まさか!! あの子の飼い主はまだ高校生のはずやで!?」

「嘘やろ!?」

 天使二人は慌てて小さな後姿を追いかける。しかし、その先にいたのは。

「……ああ、あの飼い主さんのお婆ちゃんや」

 ポメラニアンが嬉しそうにまとわりついていたのは、一人の老婆だった。安堵した小春のつぶやきがユウジの耳に届いて、ユウジは我知らず目元を拭っていた。

「そういえば、長くないかも言うとったしな……」

 それに、もうひとつ。元気だったころは、あのポメラニアンを、お婆ちゃんが一番可愛がっていたとも。

 自分の足元に嬉しそうにまとわりつくポメラニアンを、老婆は抱えあげた。喜びもあらわに、ポメラニアンは老婆の顔をペロペロと舐める。ひとしきり二人は再会を喜び合う。

 すると。緑の草原の青い空に、大きな虹がかかった。

「……虹の橋や」

 空にかかる虹は、そのまま老婆の足元まで七色の美しい光を伸ばしてくる。不思議な光景だ。しかし、何度見ても胸を打たれる。小春とユウジは感動のあまり息を呑み、老婆と虹を見つめる。

 いつの間にか、二人の周囲には沢山の動物たちが集まってきていた。さまざまな種類の犬や猫に小鳥やウサギ。みんな可愛らしい愛玩動物だ。彼らもまた老婆と虹を見つめていた。

 老婆はポメラニアンと視線を交わして幸せそうな笑みを浮かべると、その足を一歩前へと踏み出した。そのまま大きな虹の橋を渡って、老婆とポメラニアンは空高くへと吸い込まれるように消えていく。

 ここに二人は天に召されたのだ。それは神々しいまでの。

「大往生やな……」

「せやな……」

 ユウジと小春は空を見上げながら、つぶやくように言う。彼らの周りの動物たちは、羨ましそうに老婆とポメラニアンを見上げていた。彼らも心の内では愛する飼い主に会いたいと願っているのだろう。

 おもむろに、年老いた大型犬が遠吠えを始めた。それはあまりにも物悲しい吠え声だ。どんなに会いたくても会えない、愛しい人を恋しがるような。寂しさが伝播したのか。その場にいる犬たちは次々と遠吠えをし始める。

 老婆と小型犬を天に届けて、虹の橋は姿を消した。すると同時に、星屑のような儚い煌めきが辺りに降り落ちてくる。美しい虹の残滓だ。空にかかる美しい橋は、消えるときにいつもそれを降らせる。……まるで季節外れの雪のような。

 小春がつぶやく。

「……ここに来たんがお婆ちゃんでよかったわ」

「……せやな」

 いつのまにか、小春とユウジは瞳に涙をためていた。……稀にいるのだ。亡くなったペットの後を追ってすぐにこちらに来てしまう、愛の深すぎる飼い主が。しかし、今回はそうではなく、二人は胸をなで下ろす。

 降り落ちてくる美しい煌めきの中で、動物たちの寂しげな輪唱を聞きながら。小春とユウジの二人は虹の橋の消えた空を見上げて、そっと手を合わせた。



 自宅のリビングで、静はずっと涙をこぼしていた。神様は寿命を伸ばすのではなく、悔いない生を送らせる方を選んで、奇跡を起こした。

 どうして寿命を延ばす方にしてくれなかったのか。永遠なんて望まない。人の自分と同じくらいとも望まない。けれど、せめて他の猫と同じくらい長く生きて欲しかった。あと半年だなんて、そんなのあまりにも短すぎる。

「……ッ、光」

 静は何度もしゃくりあげ、肩を震わせて、一人で泣いていた。フローリングの固い床に爪を立てて、静はずっと俯いたまま涙をこぼす。既にお通夜のような号泣ぶりだ。

 光は猫の姿のまま、静のすぐ隣でうずくまっていた。伏せた顔を両方の前足で隠して、震えている小さな姿は。まるで声を殺して泣いているようにも見えた。
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