*ねこのひかる*

□05 オクリオオカミ
1ページ/2ページ

「……飲み会?」

 ある日の夜。飼い主の静にそう言われて、猫の光は訝しげに眉を寄せた。猫の、といっても今は人の姿だ。つい先ほど、愛しの飼い主さんのキスで変身させてもらったばかり。

「うん。だから明日は遅くなるの、ごめんね?」

 少しだけ申し訳なさそうに、静は小首を傾げて謝る。彼女の艶やかな髪がさらりと揺れ、シャンプーの香りがふわりとあたりを漂う。

 夕食後のバスタイムのあと。静の一人暮らしのマンション。お風呂上りの彼女は、首にかけたタオルで髪の毛を拭いている途中だ。

 シャンプーの香りは猫の姿では何とも思わないけど、人間の男子の姿の今は、なぜかとてもいい匂いに感じる。首筋に顔を埋めてもっと嗅いでみたくなるような、爽やかなのに妙に魅惑的な、その匂い。

 しかし、そんな不埒なことを考えているなんて知られたくない。光はあえて平静を装うと、静から視線を外してそっぽを向いた。

「……いや、別にええけど」

「そっか」

 静は微笑みを返すと、再び髪を拭き始めた。光のぶっきらぼうにはもう慣れっこだ。いつものことと分かっているから、少しも動じない。それが楽でもあり嬉しくもありなんだけど。でも今は少しだけ嫌だった。

 しかし、素直になれない光は静の方を何度も見たり、かと思えば意味もなく視線を宙にさまよわせていた。本当はまだ聞きたいことがあるのに、恥ずかしくて聞けないでいた。

 しかし、そんなことをしていたら静に笑われてしまった。

「……男の子いるけど、一次会で帰ってくるから、心配しないで?」

 いつも自分を可愛がってくれている飼い主さんに、隠し事なんてやはり不可能で、光は唇を尖らせる。

「……別に、そんなん気にしてへんし」

 素直になれないのは、子供じみたプライドのせいだ。捨てたくてもなかなか捨てられないプライドは、自分の心を縛る重い鎖だ。それでいて、自分の未熟さを否応なくつきつけてくる、鏡のようでもある。

 光はあからさまに機嫌を悪くする。こんなことで腹を立ててしまう自分が、そして、そんな幼くて我儘な自分を笑って許してくれる、大らかな静に腹が立つ。

 自分でもわかっている。こんなのは八つ当たりですらない。完全に甘えているだけだ。

「遅くてもええで、鬼のいぬ間に心の洗濯や」

「も、怒らないでよ。早く帰ってくるから」

 静に気遣ってもらっても、光はそっぽを向いたまま。しかし、今は明らかに嬉しそうにしていた。先ほどから引き結ばれていた口元は緩み、眉間の皺は消えている。

 こういうところは本当に分かりやすい、可愛い男の子。良くも悪くも自分の気持ちを誤魔化せない。大好きな彼女の思いやりに浮かれている。静は首にかけたタオルで髪を拭き終えると、再び光に声を掛ける。

「……光、膝枕してあげようか?」

「ッ!」

 好きなものは、静のお膝の上とマグロの猫缶。光は思わず静の方を向いてしまう。お風呂あがり、Tシャツにショートパンツという軽装の彼女の、柔らかそうな太ももをじっと見つめて。

「……まあ、お前がしたい言うんなら、しゃあないな」

 光は再びそっぽを向く。淡く頬を染めてつぶやいた。



***



(……ちょっと遅くなっちゃったかも)

 静はスマホで時刻を確認すると、ため息をついた。空を見上げれば、漆黒の闇に小さな星々が瞬いているだろう。今はちょうど例の飲み会が終わったところだ。静は光との約束通り一次会で抜けてきた。

 友人たちから心配そうに「送ろうか?」と言われたけど、二次会に行きたいだろう子たちを付きあわせてしまうのは申し訳なく、静は送りを断って夜道に一人だけでいた。

(……急いで帰らなきゃね)

 静はスマホをクロップドパンツのポケットに戻すと、気を取り直して歩き始めた。飲み会の会場は大学近くの居酒屋だった。自宅マンションまで歩いて約二十分。夜だけどあたりは明るく、人通りも多い。

 だからこそ油断していたのだろう。自分を尾行するその男性の存在に、彼女は気がつかなかった。静はそのまま自宅マンションまで戻ってきてしまう。

 夜の九時前、小さな明かりに照らされた薄暗い共用スペースには誰もいなかった。静はいつも通りにマンションの階段を上る。元々高層階には住んでいないから、自室の前にはすぐに辿り着く。

 死角に隠れている男性の存在に気づかないまま、静はカバンの中から部屋の鍵を取り出して開錠する。ドアを開けて部屋に入ろうとした、そのとき。

 背後から突進してきた男性が、ドアを乱暴に開け放し、彼女を室内に突き飛ばした。そして自分も部屋に押し入る。

「――きゃっ!!」

 悲鳴を上げてその場に倒れ込んだ静を、男性はそのまま組み敷こうとしてくる。しかし、玄関先には猫の光がいた。いつも通り、その場所で静の帰りを待っていた。

「――フギャッ!!」

 異常事態を察知したのか、光は唸り声を上げて男性に襲い掛かる。太い腕に噛みついた。ここ数日は暑いくらいの気候だったからか、男性は薄着だった。光の牙は男性の洋服の生地を突き破り、太い腕に深々と刺さる。

 肉を食いちぎらんばかりの、光の本気の噛みつきだ。牙が食い込む場所からは血がにじみ、男性は顔を歪ませる。

「――ッ、何だこの、クソ猫!!」

 こうなっては静を構っているどころではない。腕に取りついた光を振り払うべく、男は格闘し始める。

 静は一瞬だけ呆けたような顔をするが、すぐに部屋の奥に逃げ込んだ。玄関前には男性がいるから、外に逃げるのは不可能だ。それに光を置いてはいけない。静はすぐさまポケットのスマホを取り出すと。

「――もしもし、警察ですか!?」

 登録してあった電話番号に発信する。一一〇番ではなく地元の最寄りの警察署。

「――ハイ! 今すぐ来てください!」

 静のよく通る声を聞き男性は舌打ちをする。自分の腕に噛みついている光を力任せに引きはがす。

 しかし、光は猫らしい柔軟性で華麗に着地すると、再び男性に飛び掛かった。……けれど、今度は上手くいかない。

「生意気なんだよ!!」

 男性が乱暴に腕を振り、光は床に叩きつけられてしまう。

「――光!!」

 リビングの奥で静は絶叫する。小さな愛猫が固い床に打ちつけられる姿はあまりにもむごたらしく、静の瞳から涙が溢れる。いくら猫の光でも、このままでは男性に殺されてしまうかもしれない。

(……助けなきゃ!)

 その瞬間、静の脳裏にベランダに置いていた箒のことが閃いた。柄が長くて頑丈なそれは、男性と戦う武器にぴったりだ。静はすぐさま窓を開けて、それを手にすると。

「――光から離れて!!」

 鬼気迫る形相で絶叫し、一瞬の躊躇もなく玄関先の男性に向かって突進していった。その様は、まるでファンタジー映画の女戦士のようだ。か弱い女の子などではない、箒を手にした最強の槍使い。

 小さな愛しい家族であり恋人の光が、今まさに生命の危機を迎えているのだ。そして今このとき、彼を救えるのは自分しかいない。

 後先のことなど考えず、静は裂帛の気合いとともに男性に打ちかかった。助走をつけて体重を乗せた強烈な突きが男性の身体に決まる。静は怒りに顔を歪ませて涙を流しながら、さらに男性に攻めかかった。

 そんな彼女に怯んだ男性は、その場に落ちていた静のカバンをひったくるように拾うと。

「くそッ……!!」

 当てが外れたとばかりに逃げて行く。男性のお目当ては静のお財布だったらしい。安堵した静は箒を取り落すと、その場に膝から崩れ落ちた。



 その後。静の部屋近くの共用スペースには、人だかりができていた。警察の人が来ての事情聴取だ。マンションの管理会社の人も何人か来ていた。

 夜も遅い時間なのに休前日というタイミングのせいか、騒ぎを聞きつけたマンションの住人たちが集まってきていて、あたりは騒然としている。

「――押し込み強盗だって!」

「――え、ウソ!?」

 マンションの住人は、静と同じ大学生や二十代の社会人の単身世帯が多い。他人事と思えないのか、静に気づかわしげな視線を向けていたり、心配そうにお互いに何事かを囁き合っていた。

「――犯人はどうしたの?」

「――すぐ捕まったって」

「――本当?」

 そんな喧騒を聞き流しながら。静は細い腕に小さな愛猫を抱きしめて一人俯いていた。まだ恐怖が抜けていないのか時折ぼろぼろと涙をこぼして、女性警官やマンションの管理会社のスタッフに励まされている。

「……大丈夫? しゃべれそう?」

 女性警官に尋ねられ、静はこくりと頷く。今はまだ苦しくても、彼女は懸命に頑張ろうとしていた。

 幸いにも犯人はすぐに捕まった。静のカバンを持って逃げた男性はマンションの建物から慌てて飛び出したところ、ちょうどやってきた警官たちと鉢合わせになったらしい。

 不審な男が似合わない女性物のカバンを持っていたということで取り押さえられ、そのカバンの中から静の免許証の入った財布が出てきたため、言い逃れもできない現行犯。カバンは無傷で静のもとに返ってきた。

 まだ憔悴しきっている様子の静の背中をさすりながら、マンション管理会社の女性スタッフが彼女を勇気づけるように褒めていた。

「……ベランダの箒、よく思い出せたわね。すごいわ」

 女性警官も相槌を打つ。

「最寄りの警察署の電話番号入れていたのも立派よ」

 二人の思いやりに、静は涙をこぼす。同じ目線に立って励まそうとしてくれているのが伝わってくる。細やかな気遣いと温かさも、沁みるほどに嬉しかった。

 しかし、そのとき。大柄な男性刑事が静たちのもとに近づいてきた。何か用事があってのことだろう。けれど、静はあからさまに怯えてしまう。

 猫の光を抱いている腕に力をこめ、恐ろしい何かを見るような目で男性刑事を見上げる。恐怖で冷静さを失いかけている静を心配した女性刑事が、男性刑事を視線で制して。

「――何かあったらいつでも電話してね」

 代わりに彼女が静に向き直ると、ポケットから名刺を取り出して差し出した。光を抱えたまま静は小さく頷くと、それを無言で受け取った。
次へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ