*ねこのひかる*

□04 くっつかないで!?
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 しばらく公園を散歩して、静と光は自宅マンションに帰ってきていた。

「光、お疲れ様」

 静は明るくそう言って、光を玄関マットの上に降ろす。しかし光は静に目もくれず、すぐにリビングに向かって駆けて行ってしまった。小さな黒い背中があっという間に小さくなる。

 それがここ数週間のお決まりの光景だった。今まで二人でお出かけして帰ってきたときは、光は静が靴を脱ぎ終わるときまで、玄関で待っていてくれたのに。

「…………」

 静の胸の内に、悲しみが込み上げる。照れ屋であまのじゃくな光は、言葉こそはきつくても、行動はとても優しかった。

 静が外出先から帰ってきたときも、玄関先でのお出迎えを欠かしたことはなく、彼のおかげで静は一人暮らしの寂しさを感じずに済んでいたのに。

 静は小さく息を吐いて、靴を脱いでリビングに向かった。今日もよく晴れていて、部屋の大きな窓からは、柔らかな日の光が白いレースのカーテン越しに差し込んでいる。

 部屋の隅に置いてある猫ベッドの中で、光は静のお古のニットに顔を埋めていた。眠いのだろうか。光はお昼寝したいのかな。

 自分はそんなに眠いわけじゃないけど、せっかく天気もよくて気持ちいいし、光と一緒ならお昼寝したいと思った静は、彼に声を掛けた。

「光、眠いなら一緒にお昼寝しようよ」

 猫の姿でも人の姿でもいいから、光とくっつきたかった静は笑顔を作って彼を呼ぶ。しかし、猫の光は一瞬だけ顔を上げて静に嫌そうな視線を送ると、再びニットに顔を埋めた。拒絶の意思表示なのだろうか。けれど、静は諦めきれず。

「も、光ってば……」

 彼に近づこうと猫ベッドに歩み寄ったが、光は静の接近に気がつくと、脱兎の勢いで猫ベッドを飛び出してリビングの隅に行ってしまった。光はそのまま、その場にちょこんと座ると、小さくあくびをして静から視線をそらす。

「……っ!」

 静は小さく息を呑む。さすがにこれは耐え難いほどショックだった。静はその場にしゃがみこむと、ついに涙をこぼし始めた。

「ひどいよ、光…… 私のこと、嫌いになっちゃったの……?」

 嗚咽交じりにそうこぼすと。さらに苦しくなったのか、ついに静はしゃくりあげながら泣き出した。数週間の苦しさが我慢の限界を突破したのか、涙で顔をぐしゃぐしゃにして泣いている。もう号泣と言っていい。

 さすがにこれには光も驚いたようで、そわそわとし始めた。けれど、光は静のもとにはすぐに行かずに、しばらくその場をうろうろとする。

 しかし、数分後。光は意を決したように静のそばまでトコトコと歩いて行くと、小さな声でニャウと鳴いた。

 彼のいつもの要求鳴きに、静はおそるおそる顔を上げる。真っ赤に腫れた目は痛々しいほどだ。そんな彼女を見上げて、光はもう一度小さな声で鳴くと、右の前足で床を三回叩いた。変身させての合図だ。二人で決めた秘密の暗号。

 静は不安げに、しかし光に望まれるまま、彼を優しく抱き上げた。瞳を閉じて唇を寄せる。しばらくして目を開けると、静の前には少し困った様子の人間の男の子の光がいた。光は静から目を逸らしたまま、どことなく気まずそうな様子で。

「……ほんまは言いたなかったんやけど」

「え?」

 静はきょとんとする。

「……でもお前が泣いとるの嫌やし、だから言うんやけど」

「……?」

「お前とくっつくと、また変な気ィ起こしてまいそうやったから、だから避けとったんや」

「……えっ?」

 恥ずかしそうに頬を掻く光に、静は呆然とする。

「猫の姿でもくっついとると、人になってちょっかい出したなるし」

 ほんまにごめん、意外なほど素直に光は謝ってきた。

 あまのじゃくでクールな光が、こんなにもまっすぐに謝罪の言葉を口にしたのは初めてだった。これまで積りに積もった静の悲しみや苦しみが、光のその一言で吹き飛んだ。

 涙で頬を濡らしたまま、静は表情を輝かせる。こんなに幸せな気持ちになったのは、ずいぶん久しぶりな気がする。

「光……」

 静はそうつぶやくと。

「もう、寂しかったんだからね!」

 そう言って彼に抱きつこうとするが。なぜか光は静の抱擁を華麗にかわした。彼女の腕が虚しく空を切る。

 静は一瞬だけ呆けた顔をすると、よほど腹が立ったのか、鬼の形相で光を睨みつけた。しかし、静がどんなに腹を立てても、光にとっては可愛い鬼さんだ。『ここまでおいで』とは言わないけど。

「……や、すまん。つい」

 気まずそうに、けれどニヤニヤと楽しそうに。光は静に謝った。あからさまにふざけているその様子。ついに静の堪忍袋の緒が切れる。

「も、もう絶対許さないんだから!!」

 このタイミングでからかわれたのはさすがに許せなかったのか、静はわなわなと身体を震わせる。よほど頭に血が上っているのか、顔がしだいに赤くなる。

「だから、くっつくとムラムラするんやって……」

「そんなこと知らないし! 許さないんだから!」

 光の言い訳もおかまいなしだ。静はそう叫ぶと、光に向かって突進していった。まるで猪かなにかのようだ。可愛らしいウリ坊の突撃を、光は華麗にかわす。お世辞にも広いとは言えないリビングで、追いかけっこが始まった。

 逃げる光と追いかける静は、まるで闘牛士と闘牛のようにも見える。静はよほど意地になっているのか、どれだけかわされても光を追うのをやめようとしない。しかし、何度トライしても光を捕まえられないと悟った静は。

「抱っこさせてくれないんなら、もう猫缶あげないんだから!!」

 真っ赤な顔で絶叫した。光の大好物のマグロの猫缶。いつも楽しみにしているご馳走なのに。強権を発動させた静に、光は困った声を上げる。

「そ、それは卑怯やろ……ッ!」

 クールぶっていても、人になれても。それでも光は静の可愛い飼い猫だった。飼われている弱みを握られている。もちろん惚れた弱みもだけど。明るくて優しいけど時々すごく寂しがり屋の、飼い主さんには敵わない。

「ほんま、ありえへんわ……」

 やっぱり、静のことが大好きだ。この気持ちは、どんなに頑張っても、もう止められない。小さく苦笑してから、光は改めて静への想いの深さを噛みしめる。

 たとえ神様とその御使いを敵に回すことになっても、この想いをなかったことにするのは、光にとっては不可能だった。
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