*ねこのひかる*

□03 越えてはいけない
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静の匂いが好きだ。 
甘くて温かいミルクのような、あるいは天日干ししたお布団のような、
そんな安らげる優しい匂い。
なんとなく生き別れた母猫が思い出されて、静が不在で寂しいときは、
光はよく猫ベッドに入れてある、彼女のお古のニットに顔を埋めている。
その匂いを胸いっぱい吸い込んだり、
柔らかな生地を揉んだり吸ったりして、気持ちを紛らわせる。
ニットは本人じゃないけど、ひとときの寂しさを埋めるには充分だ。
けれど、代役が本命に敵うわけもなく。
静が家にいるときは光はニットには見向きもせずに、
ひたすら静に甘えて自分を可愛がらせていた。
静が大好きだ。離れたくない。本当はいつも一緒にいたい。
自分はマイペースな猫だから一人でも楽しく過ごせるけど、
それでも彼女がいないと時々どうしようもない寂しさに襲われる。
普段はそっけないふりをしていても、
光はそんな甘えん坊で寂しがり屋な、可愛い猫の男の子だった。

しかし、現在。人の姿の光はとても満ち足りた気持ちでいた。
休日の夜の自宅マンション。ソファーに座ってノートパソコンに向かう静の膝の上に、
光は頭を乗せていた。
大好きな静の、大好きな膝枕。
ゼロセンチの距離でくっついているから、彼女の匂いや気配も濃厚に感じられる。
(……やっぱ、静の膝の上は最高やな)
いつも通りの無表情で、けれど光は最高の幸せに浸っていた。
柔らかくなめらかな人肌と、身体のぬくもり。
この幸せな感触を知ってしまったら、毛布やクッションではもう満足できない。
同じ匂いがついていても物足りないのだ。
やはり静の、愛する飼い主さんは特別で最高だ。
膝枕以外にも、静の腕の中にいるときに感じる胸の膨らみの柔らかさも、
光はとても好きだった。
あのふんわりとした触感は特別で、
猫のときも人のときも光は思わずフミフミと揉んでしまいたくなるのだ。
しかし、そんなことばかり考えていたら妙な情動を催してきてしまった。
(……あ、あかん)
光は戸惑いに視線を泳がせる。猫の姿のときはこんなことになったりしないのに。
つくづく人間の男の身体というものは、便利なのか不便なのかわからない。
しかし、どうしようもない気持ちになった光は、
相変わらず楽しそうにパソコンの画面を眺めている静を見上げた。  
猫だったらきっとゴハン待ちの顔。
けれど、今は人間だから物欲しそうなといった方が適切だ。
本当は静に声を掛けたい。
しかし、自分の方から呼びかけるのはなんとなく悔しくて、
光は無言で彼女をじっと見つめる。
しかし、幸いなことに静の方から声を掛けてきた。
「ねぇ光、SNSでねイグアナ飼ってる人とお友達になったんだよ」
「……は?」
「すごいよね。普通のペットと違って飼うの難しいのに……」
種類は違えど同じペットを飼うものとしてシンパシーを感じるのか、
静は心から感心している様子だ。
けれど、当然のことながら。
(どうでもええ……)
光は小さく息を吐く。他人のペットへの興味など自分が持てるはずはない。
マイペースな猫としては自分と飼い主さん以外はどうでもいいし。
「……つか、そんなことして遊んどるんなら、俺を構えや」
人の姿でいられるのは一日たった四時間なのだ。無駄にしたくない。
興味が持てない話題ばかりを振られた光はつい不満をこぼしてしまう。
素直になれないから、甘えたいときはいつもこんなふうに拗ねたり怒ったりしてばかり。
褒められた振る舞いではないけど、これもまた光の可愛らしいところだ。
それを心得ている静は動じない。
「あ、そうだったね。ゴメンゴメン」
明るく謝ってノートパソコンの電源を落とした。今からは完全に光だけのもの。
しかし、それでも光は満足できなかった。
謝り方が軽すぎる。あまりにも適当で貴重な時間を無駄にしている反省が伝わってこない。
「…………」
静に優しく髪をなでられながら。
けれど光は、そんなやつあたりじみた怒りを覚えてしまっていた。
自分の頭をよしよしとする手つきは、猫の姿の自分をなでるときと全く一緒だ。
そんなところも気に入らなかった。
姿かたち関係なく、分け隔てなく接してくれているといえば、その通りなんだけど。
それでも釈然としない。
飼い猫が一日四時間だけ人間にとか、
その飼い猫に愛を告白されてお付き合いしているとか、絶対普通ではないと思うのに。
静はなんだかんだで、以前と変わらずのんびりとしている。
(……アイツは悩んだりとかしないんやろか)
自分はいつも悩んでばかりだ。考えても仕方のないことを、いつまでも。
生産性のなさにかけては、自分のしっぽを追いかけてその場でぐるぐると回り続ける、
ストレスにやられた犬に負けていない。といっても自分は猫だけど。
(……今の、妙な関係のままでええって、思っとるんやろか)
にわかに光の胸の内に灰色の靄が立ち込める。
大好きな静に膝枕をしてもらいながら、頭をなでてもらっている今は、
最高に幸せな時間のはずなのに。光はどうしようもない感情に囚われる。
相手のことが好きで仕方がないからこその、寂しさや苦しさだ。
どんなに静のことが好きでも、しょせんは飼い主とペットで人間と猫。
先のない不毛な関係だ。猫の自分が歯がゆくて、人間の男が妬ましく、
明るく能天気な彼女本人にも腹が立つ。
やりきれない想いをこらえきれなくなった光は、やおら静の手首を掴んだ。

「……え、光?」
視界には寝室の天井と、思いつめたような表情の恋人。静は戸惑いを隠せない。
リビングで一緒にのんびりとしていたら、なぜか急に抱き上げられて連れてこられた。
「……どうしたの? 何かあった?」
室内を照らすのは、常夜灯の心もとない光だけ。
いつも通りの無表情な光が何を考えているのかは、静には読み取れない。
しかも、彼は何も答えずに静の首筋に顔を埋めてきた。
そのままそこに口づけて、温かく濡れた舌を這わせ始める。
まるで、何があったのか当ててみせろとでも言いたげだ。
「……ッ!」
肌に跡が残りそうなほど強く歯を立てられて、静は苦痛に息を呑む。
唇にキスができないからか、光はよく静の首筋に舌を這わせて、そして噛みつく。
雄猫らしいといえばそうだけど。
光は言葉を発さずに、自分が歯形をつけたその場所に舌を這わせ始めた。
「ん……」
まるでくすぐられているようなその感触に、静はわずかに眉を寄せる。
人間の舌には猫のそれとは違い、やすりのようなざらつきはない。
だから痛みはないけれど、代わりに妙なむず痒さと興奮を静の身体の奥にもたらす。
人間の男性に肌を舐められるというのは、やはり立派な愛の営みだ。
舐められている場所が悪いせいか。
静の意思とは関係なく、彼女の身体は倦んだ熱を持ち始める。
光以外の男の子に、そんなことをされたことなんてないから。
静はどうしていいかわからない。
けれど、大好きな光とゼロセンチの距離でくっつけるのは、静もまた純粋に幸せで。
「もう、甘えん坊さん」
静は優しくそう言って、彼の背中に腕を回す。
クールで不器用であまのじゃくな光。
ときどき何を想っているのか分からなくなることもあるけど、
大事な飼い猫で恋人だから、なるべく受け入れてあげたい。
今はなぜかピリピリとした様子の光を宥めるために、静は囁くような声で彼に告げた。
「……光、好きだよ」
彼の背中に腕を回したまま、甘い声で言葉を重ねる。
「これからもずっと、私と一緒にいてね」
「……ずっと?」
光の返答にはわずかに怯えがにじんでいた。
しかし、静はそれには気づかないふりをして、こくりと頷いた。
「そうだよ。ずっとだよ」
猫であろうと人であろうと、静にとって光は何よりも愛しく大切な存在だった。
これから先、何があってもずっと一緒。
離れることがあるとすれば、それはどちらかの命の灯が消えるとき。
五年前にいきつけの猫カフェから光を連れ帰ってきたときから、
静はそんな想いで彼と一緒に過ごしてきた。
そしてそれは、たとえ光が人間の男の子になれるようになっても変わらない。
これが静なりの光との関係の答えだった。
「…………」
光はじっと黙り込む。静といるとやはり母猫を思い出す。けれど、彼女は母じゃない。
飼い主で一人の女の子で、そして自分の恋人だ。
自分の一途な想いの全てを受け入れてくれる、優しい恋人。
静は愛を与えてくれる人だ。
猫カフェ時代からずっと、静は自分に温かな愛を注いでくれた。
ペットと飼い主という関係だから、何の見返りも求めずひたすら与えてくれた。
そんな人に劣情を抱いてさらなるものを乞おうとする、自分はやはり最低だと思う。
だけど止められない。今の自分は猫の雄じゃなく、人間の男なのだから。
しょせん男女の関係に、親子のそれのような無償の慈愛など望めない。
しかし、それでも。
今まであれほどまでに自分を優しく可愛がってくれた静に、
この要求を口にしてしまうのは苦しくて、光はわずかに顔を歪める。
人間の男性でない自分は、彼女を幸せになんてできないくせに。
しかし、心の堤防なら既に決壊していた。
人間の少年の姿になって初めて、愛する彼女を一目見てしまったそのときから。
「静、好きや。やっぱ我慢でけへん」
あまりにも正直な言葉が、彼の口から滑り落ちる。
「……え?」
「静としたい。俺やダメ?」
気の利いた甘いお誘いなんてできない。第一、自分はそんなキャラじゃない。
「ッ!」
静はわずかに息を止め、大きな瞳をさらに見開く。
さすがにこれには、すぐに返事を返せない。
驚きと戸惑いに瞳を揺らして、静は光を見上げた。
大事な可愛い飼い猫だ。でも今は、人間の男の子で自分の恋人。
その表情は本当に苦しそうで切実そうだ。瞳の奥には燻る炎のような何かが見える。
あまりにも切迫した様子の彼に、静はごくりと喉を鳴らす。
こんなふうに迫られるのは初めてで、かわし方なんて分かるはずもない。
光が好きなのは本当だ。でも、迷ってしまう。
嫌なわけじゃない。
しかし、静の中では、今はまだ光とそうなりたいという気持ちよりは、
不安や戸惑いの方が大きかった。
飼い猫であり、お世辞にも成熟していると言えない彼と、
このまま進んでしまってもいいのか。
飼い猫としても男の子としても、光が好きなのは本当だ。
けれど、いざ関係を深めようとなると、やはり怖気づいてしまう。
静は長い睫毛を切なげに伏せると。
しかし、次の瞬間、決心したように光を見上げた。
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