*ねこのひかる*

□02 秘密の夜と朝
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 大学の友人たちとの飲み会などで、静の帰宅が夜遅くになったとき。光は人の姿に変身したままで彼女と眠る。奥手な静は、最初はずいぶん恥ずかしがっていたけど、光が強引に押し切ったのだ。

 そして今日も、そんな夜。一人用の狭いベッドの中、抱き合って眠る二人は、まさに相思相愛の恋人同士だ。二人の愛を阻む障害など何ひとつなく、陽の当たる道と、幸福な未来だけが約束されているかのような、幸せな恋人同士。

 けれど。穏やかな寝息をたてている彼女を、光は物足りない気持ちで眺める。お互いにパジャマ代わりのTシャツを着ていて、そして静は、睡眠中ということもあり、胸を覆う下着をつけていなかった。

 柔らかな彼女の膨らみは光の身体にしっかりと触れていて、彼女がもぞもぞと動くたびに、マシュマロのような感触を光に伝えてくる。

(はぁ…… キッツイわ……)

 光の唇から漏れる、深いため息は既に熱を帯びていた。猫の姿のときは、そこまで興奮したりはしないのに。今の人間の男の子の姿では、今のこの状況は、まさに甘い拷問だった。

 下腹部も充血しきっていて苦しいほどで。薄く開かれた彼女の口元を見るにつけ、光はその唇にかじりつきたくなる衝動に襲われる。

(……アカン。チュウしたら、猫に戻ってしまうんや)

 そう、唇を重ねたら。光は元の猫の姿に戻ってしまう。またキスをすれば人の姿になれるけど、やはりこんな夜中、安らかに眠る彼女のとなりで変身を繰り返すわけにもいかず。光はさきほどから、まるでおあずけをされている犬のような状況に陥っていた。

 しかし、光は規律に従順な犬ではなく、自分自身の欲求を何よりも優先させる、猫だった。

 興奮にごくりと喉を鳴らして、光は静の腕の中から抜け出した。身体を起こすついでに掛布団をそっとよけて、安らかに眠る静の上に覆いかぶさる。

 唇にキスはできないから。光は、それ以外のことをしはじめる。愛の営みの前戯の真似事。自身の下腹部の熱を鎮めるために、彼女の身体に悪戯をする。

 どんなにお互いに愛し合っていたとしても。自分がどれほど彼女と結ばれたいと願っていても。光は静とこれ以上先に進むつもりはなかった。

 なぜなら。それは、自分が猫だからだ。静と同じ人間ではない。どれほど彼女のことを想っていても、静を本当の意味で幸せにすることなど、自分にはできはしないのだ。

 人の姿でいられるのは一日四時間だけで、あとは猫の姿。働いて彼女を養ってやれるはずもなく、それどころか、自分の方が彼女にお世話をしてもらっている。

 そして、寿命も違う。自分が十五年程度なのに対して、向こうは八十年。どんなに願っても、生涯を添い遂げることなど不可能なのだ。こんなにも違うのに、これ以上を望むなんて。静の幸せな未来を壊してしまう。

 同じ人間ではなく、飼い猫でしかない自分は。静のことを愛していて、その幸せを願っていればこそ、これ以上先に進んではいけないのだ。……しかし、光は自嘲する。

(……ゆうても告白して了承させて、今勝手にこんなことしとる時点で、本当はもうアカンのやろうけどな)

 彼女の首筋に温い舌を這わせながら、光は後ろ暗い感情に囚われる。今この時はよくても、いずれは静のもとから去らねばならない自分には、これくらいがお似合いだ。

 薄闇の中、カーテンの隙間から漏れる月の光だけを頼りに、光は、静の身体を味わった。静を起こしてしまわないように、気をつけながらの優しい愛撫。

 心から静を愛しているつもりだけど、現実の男女の恋愛でプラトニックなどありえない。光は静のTシャツの裾に手を掛けて、めくり上げた。

 愛する人の真っ白な裸身は、何度見ても息を呑むほどに美しい。何の穢れもない無垢なそれは、本来は自分が触れてはならないものだ。しかし、皮肉なことにその背徳感やうしろめたさが、光の性感をさらに高めていた。

 緊張と興奮に喉を鳴らして、光は彼女の身体に手を伸ばす。柔らかな胸の膨らみに触れ、先端に口づけをして、太ももをなでて、脚の間も確かめて。静の無防備な身体を使って、光はたった一人で、自身の体内で燻る欲望の火種を宥めていく。

 あまりにも虚しい営みだ。相手の反応はないに等しく、光はときおり温かな人形と身体を重ねているような錯覚すら覚えてしまう。そこに幸福感や充足感などない。あるのは気が遠くなるほどの胸の痛みと、息苦しさだ。

 しかしこうすることでしか、光は自分自身を抑え込むことができなかった。真っ白な欲求を普段通りの手順で処理したあと。光は彼女の唇にキスを落として猫に戻る。

 そのままの姿で、まるで何事もなかったかのように。光は静に寄り添って眠る。彼女の可愛い飼い猫として。誰よりも愛しているからこそ、自分は彼女の恋人にはなりきれない。

 見たくない現実から目を逸らすかのように、光はそっと瞳を閉じた。心の内に澱のように沈殿してゆく虚しさから逃げるように、眠りの世界に落ちてゆく。音のない夜が淡々と更けていった。



 そして、翌朝。日が昇ってだいぶ時間が経っているけど。ベッドサイドの目覚ましはまだ鳴っていない。しかし、光は起きていた。眠りが浅かったのか、何かの物音をきっかけに、目覚めてしまった。

 しかし、夜半の人の姿での行為を思い出してしまった光は、自分のすぐ隣で幸せそうに眠っている静を、もの言いたげに見上げた。今は、もちろん猫の姿。人の姿のときはいつも小さく感じる静が、とても大きく見える。

 そんな静の顔に、光は自分の鼻先を近づけると。濡れた鼻を彼女の唇に押し当ててから、ペロペロと静の顔を舐めはじめた。愛しの飼い主で、そして恋人。早く起きて自分を構って欲しかった。

 しかし、やすりのようにざらざらとした猫の舌で、柔らかな素肌を舐めても。静はちっとも起きてくれない。多少の身じろぎはしても、眠ったまま。

(…………)

 じれったくなった光は、再度静の顔を舐める。

(……早よ起きんかい)

 いつのまにか八つ当たりじみた怒りを覚えていた。こうなったらもう意地だ。静が起きるまでちょっかいを出してやる。しかし次の瞬間、静の唇を舐めたとき。ついうっかり口を触れさせてしまった。

(あ、しもた)

 そう思ったときには、もう変身してしまっていた。人間の男の子の姿へと早変わり。光は慌てて腕をつき、静に自分の体重がかからないようにする。

(やってもうたわ……)

 すやすやと眠る彼女を見おろしながら、しかし光は自分の行動を反省した。昨夜から一体何をやっているのか。

 しかし光は気を取り直すと、静の隣に横たわり、彼女の身体を抱きしめた。華奢で小柄な身体は光の腕の中に収まる。いつもと逆だ。

(まあええわ。このままぎゅっとして……)

 静の温かな身体は、低体温の自分には本当に気持ちいい。ぬくぬくとしていて、まるで記憶の中の母猫のようで。

(……いや、別にこいつオカンやないしな)

 我に返った光は、再び自分の腕の中の彼女を見おろした。幸せな寝顔に、なぜかムッとした。光は、やはり静を起こすことにした。

「……ほら、静。起き?」

 囁くような声で彼女の名前を呼びながら、光は静の身体を揺すった。しかし、静はむにゃむにゃと口を動かすが、起きてはくれない。

 けれど、こんなことでめげる光ではない。再度、光は静の身体を揺らす。先ほどよりもずっと強く。静はあからさまに嫌がる仕草をした。まだ眠っていたいのか、光に抵抗してくる。

 静がお寝坊さんなのは昔からだ。いつものことと分かっているから。光はもう腹も立たない。もう一度強く彼女の身体を揺らしながら、名前を呼んだ。

「静。ほら、ええ加減に起き」

「……え?」

 ようやく静は目を覚ました。ぼんやりとした様子で光を見上げる。

「あれ、光、なんで……?」

 人の姿をしている光に、静は不思議そうな顔をする。

「我慢できんくて、チュウしてもうた」

「え、え〜」

 しれっとした光の返答に、静は困惑する。朝からなんでそんなという様子だ。対する光は普段通りだ。平然とした様子で、あからさまに話題を変える。

「別にええやろ。それより今から散歩せえへん?」

「え、散歩?」

「せや、たまには外で日光浴したいわ。あと体動かしたいし」

 光は完全室内飼いだった。日光浴も運動も健康のためには必要なことだ。そういえば、ここ数日はとても天気がよかった。光が外に出たいと思うのもわかる。

「わかったよう」

 仕方がなさそうにそう言うと、静は起き上がった。まだ眠いけどがんばろう。朝のお散歩。だけど、光となら、なんだかとても楽しそうだ。静はそんなことを思いながら、いそいそと洗面台に向かった。



 Tシャツにパーカーにお気に入りのショートパンツ。動きやすさ優先のカジュアルな格好。近場だからこれで十分だ。家の鍵とスマホをポケットに入れて、支度を終えた静は、光を呼ぼうとリビングに戻る。

 静に待たされていた光は、窓辺で日向ぼっこをしていた。朝日が差し込む窓のそばで、風に揺れる白いレースのカーテンを背に、片膝だけを立てて座っている。窓外の景色を気怠げに眺める横顔は端正で美しく、静は息を呑む。

「……ッ」

 猫のときも美人さんだねってよく褒められていたけど、光は人間の男の子のときも、とても綺麗で格好よかった。あまりの美少年ぶりに、静はしばらくの間、光に見惚れてしまう。

 そういえば、猫の姿のときも。天気のいい日、光はこうやって窓辺で日向ぼっこをしていた。両の前足を折りたたんで座って、のんびりと外の景色を眺める。飛んでいる小鳥なのか、どこか遠くの風景なのか、何を見ていたのかは分からないけど。

 不意に、人の姿の光が消えて。入れ替わるように、猫の光の小さな姿が、静の眼前に現れる。いつもと何ひとつ変わらない、ちょこんとした可愛らしい黒い姿。

 元に戻ってしまったのだろうか。不安に囚われた静は、慌ててごしごしと両目を擦る。けれど、彼女が目を開けた、次の瞬間。そこには先ほどまでと同じ人の姿の光がいた。

 まだ夢の中にいるようだ。けれど今はまぎれもない現実。静は安堵の息を吐くと、人の姿の彼に呼びかけた。

「――光、準備出来たよ。行こっ!」

 光はようやく静に気がついた様子で、彼女を振り返ると。

「……ったく、時間掛かりすぎやろ」

 淡々とそう言って、立ち上がった。けれど、静には分かる。今の光は結構上機嫌だ。その口元にも、彼女にだけわかるくらいの淡い笑みが浮かんでいた。
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