*ねこのひかる*
□01 お気に入りの毛布
1ページ/1ページ
――子供が生まれたらペットを飼いなさい。
子供が赤ん坊のとき、子供の良き守り手となるでしょう。
子供が幼年期のとき、子供の良き遊び相手となるでしょう。
子供が少年期のとき、子供の良き理解者となるでしょう。
そして、子供が大きくなったとき……。
「――ただいまっ!」
自宅マンションの鍵を開けると同時に、静は明るく挨拶をした。大学進学を機に始めた一人暮らし。寂しがり屋で甘えん坊な静だったけど、ホームシックとは無縁だった。なぜなら。
「……ニャウ」
足元から、小さな鳴き声が聞こえる。静の飼い猫の光だ。玄関マットの上にちょこんと座って、静を見上げている。おかえりなさい。可愛い相棒の、恒例のお出迎え。
普段は部屋の奥の柔らかなクッションの上でのんびりしている光だけど、静の足音を聞きつけると、玄関先まで駆けて行って、固いマットの上でずっと待っている。一秒でも早く静に会いたいからだ。
静はそんな光に微笑みかけると、玄関ドアの鍵を閉めて、しゃがみこんで狭い額をなでた。
「ただいま、光」
光は満足そうに目を細める。とても幸せそうだ。
「……すぐ、ゴハン用意するから待っててね」
光にそう囁きかけると、静はパタパタとリビングへ向かった。肩に掛けていたカバンを置いて、部屋着に着替えて、光のドライフードと飲み水を準備する。
「はい、どうぞ」
静がそう言って、小皿を床に置くや否や。光はもうお皿に鼻先を突っ込んで、はぐはぐと食べている。静が光のご飯の準備をしていたときから。光は静の足元をせわしなくうろうろとしていて、静の手元を見上げていた。
美味しそうにゴハンを食べる光を見届けて、静は再びにっこりと笑う。キッチンに立って、自分の食事の支度を始めた。
そして夕食を取ってから。ローテーブルの上に置いたノートパソコンの画面を、静は楽しそうに眺めていた。現在ハマっている短文投稿サイトだ。愛猫のとっておきの写真を投稿したり、猫友達とうちの子の可愛さについて語り合ったり。
しかし、そうやってずっとパソコンに向かっていたら。何となくイライラした様子の光が、静のもとにやってきた。静の座っているソファーに軽やかに飛び乗って、彼女の太ももを右の前足で三回叩いた。
静の身体や床を前足で三回叩くのは、光の変身のおねだりだ。二人で決めた、二人だけの合図。
「……あ」
静は呆けたような顔でそうつぶやくと、すぐに光を抱き上げて。
「……ゴメンね」
可愛く謝って、光に口づけて、彼を人の姿に変身させた。……そう。猫の光は、静のキスでなんと人間の男の子になってしまうのだ。原因は不明。「ある日、目が覚めたらなぜかこうなっていた」というのは本人の弁だ。
しかし、種族は違っても二人は相思相愛のカップル。最初は戸惑ったけど、おおからな静はこの不思議な現象と、愛猫からの熱い告白を受け入れて、一人と一匹の秘密の関係を楽しんでいた。
「えへへ、人の光だ」
「……」
静のご機嫌なはにかみ笑顔に、光は無言で照れる。ふい、と視線を逸らした。自分からは積極的なくせに、なぜか時々照れ屋さん。
そんな光が、静は大好きでたまらなかった。猫の姿でも人の姿でも、可愛くてカッコいい男の子。静は光に身体を寄せると。
「あ、そうだ。ねえ光」
何かを思い出したようにそう言って、続けた。
「この間の光の写真、いっぱいイイねもらったよ」
「イイね?」
「みんな光のこと可愛いねって、お気に入りに入れてくれたの、ほら」
上機嫌の静はマウスを操作すると、光にパソコンの画面を見せた。そこには、以前撮った首にグリーンのリボンを結んだ猫の光の写真が映っていた。
画像の下部の矢印マークやハートマークの横の小さな数字は百を超え、光を褒めるコメントもたくさんついている。
ほわいとすとーんさんからは『光くんほんまにかわええですね。静さんの愛を感じます』、千歳さんからは『リボン赤やったらジジたい。かわええなあ』
他にもリボンに言及している人もいた。『そのリボン、マカロンのボックスのですよね? 似合ってます!』同じ一枚の写真でも、受ける感想は本当に人それぞれだ。
静は猫友達からの温かなコメントに一通り目を通すと。「あとで、お返事書かなきゃね」嬉しそうに目を細めた。
大学の友人たち相手に延々猫トークというわけにもいかないから。静はこうやってインターネットで、愛猫のことを話したい欲求を発散させていた。目に入れても痛くない、可愛いうちの子自慢。光は雑種だけどとても綺麗で可愛くて、漆黒の毛並みはよく褒められる。
しかし、光はなんだかどうでもよさそうだ。自分が褒められているのに、全く興味がなさそうで。
「ほわいとすとーんに千歳って誰や」
むくれた様子で静に尋ねる。
「相互フォローの人だよ。よくコメントとかくれるんだ」
「……会ったことあるん?」
「会ったことなんてないよ。だけど、お友達だよ」
「……ふぅん」
相変わらず、光は機嫌が悪そうだ。静は愛猫の光が褒められたと嬉しそうだけど。光本人にとっては、やはり興味の持てない話題だった。
静に褒められるのは嬉しいけど、他の人に褒められてもあまり喜べない。正直言って。
「どうでもええわ」
そうつぶやくと、光は静の太ももの上に頭を置いて横になった。ソファーの上での膝枕。人の姿だと少し狭いけど、静の太ももは相変わらず最高だ。柔らかくすべすべとした肌は、思わず頬ずりしたくなる。けれど。
(なんや、まぶしいわ……)
光は眉を顰めた。部屋の照明とパソコン画面の輝きが気になる。だけど、静の膝の上からは降りたくないし。それに自分が人間でいられる時間は、一日たったの四時間十分なのだ。この貴重な時間を無駄にしたくない。光は静を見上げると。
「……ブランケットとか、ないん?」
「え? あるけど……」
はいどうぞ。静はソファの背中にかけられていた花柄のそれを光に手渡す。いつも猫ベッドに入れてあるものだ。数日前に買ってきたばかりで、まだ新しい。
光はそれをくしゃっと丸めて顔を覆った。まぶしいのは嫌だけど、静のそばにいたいから。光はわざわざこんなことをする。けれど、愛しの飼い主さんは残酷だ。
「もう、眠いなら寝室行けばいいのに」
これが思いやりのつもりなら、完全に裏目に出ているそれに、今はせっかく静と同じ人間の姿でいれる、貴重な時間なのに。
(――離れたないねん、わかれや)
しかし、そんなことを口にできる はずもない光は黙り込んだ。
「……」
そして、思い出したように話題を変える。ここ数日、気になっていたこと。
「そういえば、俺の猫ベッドのドットのブランケットはどこいったんや」
「え?」
「……俺はあれがええんや、あれが。どこやったんや」
よほど気になっているのか。次第に光の語気が強くなる。
「そ、それは……」
静は口ごもる。なぜなら、それは捨ててしまっていたのだ。
もう古くなってすっかり毛羽立ってしまったから、数日前に行ったショッピングモールで、新しく花柄のものを買った。そして、不要になったドットのものを捨て、かわりに新しいものを猫ベッドに置いていたのだが。
「あ、新しい花柄の、ダメ?」
「……ッ、ダメや」
「えっ……」
光にダメと言われて、静は戸惑う。
「な、なんで? ちゃんとふかふかで、ドットのと似てるし、きっと気に入ると……」
静が捨ててしまったブランケットは、光がとても気に入っていたものだった。光が猫カフェから静の家にもらわれてきたときから、ずっと使っていた愛用品。もう五年以上大事に使って古びてきたから、よく似た触感のものを探して新しく買ったのだった。
しかし光は、ムスッとして黙り込んだ。静は焦って言い訳する。
「ご、ごめんね? 気に入らないならまた新しいの買うから……。そうだ、一緒に買いに行く?」
「……ッ!」
けれど。静のその言葉に、光は小さく息を呑んだ。そうやない、とでも言いたげだけど。光は何も言わなかった。かわりに。
「いや、別にええ。それよりは着古したセーターとかないん? アクリルのでええから」
「セーター?」
「……わざわざ買い直すんもったいないやろ。花柄のと、古いセーターがあればそれでええわ」
「う、うん、探しとくね」
「……今がええ。今探せや」
「わ、わがまま!」
ずっと光に膝枕をしてあげていたけど、それを中断して。静は光のためにセーターを探した。衣装ケースの奥から、一枚引っ張り出す。冬の終わりに捨てようと思って、そのままになっていたものだ。こんなことになると思ってなかったけど、取っておいて良かった。
何の飾りもついていない無地のニットワンピ。結構大きいから、使い勝手もよさそうだ。
「これでいい?」
「……ん、これでええ」
相変わらずの仏頂面で、光はそれを受け取った。しかし、実はこのときの彼はとてもご機嫌だったのだが、静は知るよしもない。
光をリビングに残して、キッチンに一人立って。
(光……。悪いことしちゃったな)
素直な静は、何の疑いもなくそう反省していた。あのドットのものを光があんなに気に入っていたなんて、気づかなかった。似ているものでもダメだなんて。
(これからは、捨てる前に聞いてみることにしよっと)
せっかく人間になれるようになったんだし……。そこまで思った静は不意にあることを思い出す。
(――あ、そうだ! この前、新しい猫缶買ったんだった)
少し前に何種類か買って、そのままになっていたもの。せっかく今は人の姿なんだし、本人にどれがいいか選んでもらおう。猫缶は光の好物だから、きっと機嫌を直してくれるはずだ。
静は猫缶をシンク下の収納から取り出すと、慌ててリビングに戻った。両手に持った猫缶を見せながら。
「ねえ光、新しい猫缶買ってみたんだけど、どれがい……」
しかし。その本人は、静のニットワンピに顔の下半分を埋めて、デレデレとしていた。表情自体は普段とそこまで変わらないけど、この上もなくご機嫌なのがありありとわかる。
そんな彼に驚いてしまった静は、呆然とつぶやいた。
「……え、光?」
「ッ!」
まさか、静に見られているとは思わなかったのか。光は静のつぶやきを耳にした瞬間、顔を上げて固まった。恥ずかしい現場を見られてしまった自覚があるのか、見る間に顔を赤くする。
「ッ、別に、俺は……」
しどろもどろに言い訳を始める。明らかに動揺し照れている様子の光に、しかし静は満面の笑みを浮かべた。
「あれだよね! にゃんこは飼い主さんの匂いのついたものが好きって!」
とても嬉しそうなその表情。静は顔を輝かせ、これ以上ないほどにデレデレとしている。
「光、私のこと好きなんだ!」
なぜか得意げな静の発言に、光は毒気を抜かれる。
(つか、初めて人間になったとき、そう言ったやろ……)
人がせっかく頑張って告白したのに。
(忘れたんかい、このアホの子は……)
そういうわけじゃないとは分かっていても。光はつい、心の中でツッコミを入れてしまう。
「……つか、そうゆうたやろ」
「え、あっ、そうだった!」
今度は、静が恥ずかしそうに頬を染めた。ようやく、自分が彼から告白されていたことを思い出したんだろう。
「ごめん、何言ってるんだろ、私……」
慌てた様子でそう言うと。なぜか彼女は改めて、にっこりと笑った。
「私も、光のこと大好きだよ」
「……知っとるわ」
光はふいと目を逸らす。部屋の明かりよりずっとまぶしい静の笑顔。照明のまぶしさは苦手だけど、彼女の笑顔のまぶしさは大好きだ。
けれど、目を見つめられるとついそらしてしまうのは、どうしようもない猫の特性。
「……匂いってやっぱり分かるの?」
「わかるで」
光にそう言われて。静は改めて、着古したニットと新しいブランケットを手にし、それぞれに顔を近づけてみた。しかし、当然ながら静では匂いなどはわからない。
片方は買ったばかりのもので、もう片方は古いけどクリーニング済みだから、当たり前なんだけど。
「光はすごいね、天才だね」
静は微笑む。しかし、光は呆れたように息を吐くと。
「……新しい花柄の、気持ちええけど、匂いが違うから落ち着かんのや。
やっぱり、匂いのついたやつがええわ」
触り心地や肌あたりより、光は匂い派だった。猫ならではの選び方だ。
「……ごめんね、ドットのもう捨てちゃったの」
静はしょんぼりとするが、次の瞬間、何かを思いついたのか表情を輝かせた。
「あっ、じゃあこれから毎日あたらしいブランケット抱きしめて眠るね! 一週間くらいで匂い移るかな」
「ッ、アカン!」
「え、ダメ?」
「俺がその間追い出されるやん。お前が抱きしめて眠るんは俺やろ」
普段はそんな甘いことなんて言ってくれないのに。よほど静の腕の中から追い出されるのが嫌だったのか、光は語気を荒らげた。
普段は猫そのものの、分かりにくい愛情表現しかしてくれない彼なのに。すごく珍しい。わがままなのは相変わらずだけど、愛猫のそんなところも、静はとても好きだった。
「うん、わかったよ。光」
もともと素直すぎる彼女は、何の疑問も持たずに。人の姿の彼を見つめて微笑んだ。