*ねこのひかる*
□00 ねこのひかる
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結構な勢いで怒られたのにも関わらず、静はひるむどころか、光を上回る声量で叫んだ。さすがにこれには驚いて、光は黙り込む。静はそのまま、ボロボロと涙をこぼし始めた。
「だって、光は…… 光は私のにゃんこなのに……」
最初は粒だった静の涙は、あっという間に滝のようになる。ぐずぐずと鼻をすすりながら、静は本当に悲しそうに泣いていた。
「……昔からずっと一緒で、ずっと仲良しだった、大事なにゃんこなのに」
次から次へと涙をあふれさせ、喉を詰まらせてしゃくりあげながら。それでも静は懸命に、光になにかを訴えようとしてきた。
たしかに、静が混乱するのも仕方ない。ずっと可愛がっていたペットが急に人間の男の子になって、ヤキモチを妬いて淡い恋をぶち壊して、あまつさえ自分に告白しようとしてきたら。そんなの困るに決まっている。
これまでの関係が壊れるとか、これから先どう接していけばいいのとか、そんな心配や不安があって当たり前だ。
気持ちを伝えられても困る、応えられない。静は光にそう言いたくても言えずに、妙な行動を取ったり、急に泣き出したりしたのだった。
「……ッ!」
光は唇を噛んだ。黙ったまま、睨むように静を見つめる。もう号泣に近い。彼女はそこまでひどく泣いていた。
猫カフェでもらってこられてもう五年近く。その間ずっと一緒にいたのに。それでも初めて見るくらいの、静の大泣きだった。
(そこまで、イヤなんやな……)
それほどまでに、自分の気持ちは迷惑なのか。ちょっとどころでなく傷つきながら、光は拳を握りしめる。
しかし同時に、申し訳なさも覚えた。今しかないチャンスを逃したくなくて、必死だった。頭の中にあったのは自分の気持ちや都合だけで、静のことなんて何も考えていなかった。
忌々しいライバルをとっとと蹴落として、憎たらしいほど呑気な彼女に、誰が本当に彼女のことを想っているのか、しっかりと分からせて……。
けれどそれは全て光自身のわがままだ。彼女からのひどい拒絶はその報いなのだろうか。
「……ごめん」
胸の痛みに耐えながら、光は静に謝った。やり場のない悔しさの矛先は、自分に向ける。
「……もう言わんから、そんな泣かんといて」
冷静さを取り戻した今、思うことはひとつだけ。自分のことはもういいから。本当に辛そうに泣いている彼女から、その辛さと苦しみを取り除いてあげたい。
未だに、静はグズグズと泣いていた。大きな瞳から涙を次から次へとあふれさせ、ときおりしゃっくりにも似た嗚咽を漏らして、肩を震わせている。
この様子では普通にしゃべるのも無理だろう。そう判断した光は自分の方から口を開いた。
「……つか、ここまで泣かれるとか、俺も傷つくんやけど」
切ない男心。これでも純愛のつもりだったのに。表情自体は安定の真顔だけど、かなりショックを受けていた。猫の姿でいた今までに、あれだけ可愛がってもらっていたから、なおさら。
猫だった頃は、いつも静の方からくっついてきて、何かにつけてだっこして、眠るときだって、静が離れるのを嫌がるからずっと一緒で、こんなにも愛されていたのに。
しかし、人間の姿の今は、これほどまでに拒絶されている。変わったのは姿だけで、心の中は何ひとつ変わっていないのに。
猫カフェからもらわれてきて五年。ずっと、静と一緒に暮らしてきた。毎日欠かさずお世話をしてくれて、何もできない自分を、あれほどまでに愛して必要としてくれる彼女のことが、光は本当に大好きで、ずっと愛し続けていた。それなのに。
けれど、仕方がないのだ。猫と人間の男の子とでは、全く違う。同じように愛せるはずもない。光の好意をはねつけて、戸惑いに涙する、静のことは責められない。
「……俺の方見て、静」
囁くようにそう言って、光は静の目尻に指を伸ばした。そういえば、彼女の名前を呼んだのは、人の姿になってからは初めてだ。
胸の痛みをこらえながら、光は細い指先で静の涙をそっとぬぐった。本当はもっと早く、こうしてあげたかったのに。
まだ声が出ないのか、静は何も言わずに、おそるおそる光を見上げてきた。潤んだ大きな瞳には、まだおびえの色が浮かんでいた。まるで、恐ろしい何か、化け物でも見つめるような。
飼い主の静に、こんな目を向けられるのなんて初めてだった。猫の姿だったときは、あれほどまでに相思相愛だったのに。しかし、悲しみを抑え込みながら、光は無理に笑顔を作ると。
「……つか、泣きすぎやろ。目ェ腫れとんで」
優しくそう言って、そして、静に改めて尋ねた。
「……前、猫だったときにしとったこと、してもええ?」
何のことか分からず、静は不思議そうな顔をする。光は切なげに眉根を寄せると、彼女にすっと近づいて、濡れた目尻に唇を寄せた。そのまま、そっと涙をぬぐう。
塩辛い涙の味の、優しいキス。けれど、まるで恋人同士のようなその行為に、静は嫌がる素振りを見せた。猫の光なら嬉しいけど、今の光は猫ではないのだ。
「……何もせえへん。涙拭くだけやから」
しかし、光はやめなかった。柔らかな唇は、ずっと静の目尻に這わせたまま。瞳におびえの色を湛えたまま、しかし、静は小さく頷いた。なんだか哀願されているような気がして、彼がかわいそうになったからだ。
先ほどまではもう夢中で、自分のことしか考えていなかったけれど。落ち着いて考えてみれば、光に対してずいぶんひどいことをしていた気がする。静はそっと瞳を閉じた。もう嫌がったりはせず、彼に身体を預ける。
そういえば、光が猫だった頃。何かあって静が泣くたびに、光はこうやって慰めてくれた。濡れた鼻先をくっつけるようにキスをして、やすりのような舌で、静の顔を舐めてくれるのだ。
人の姿の光は静の目元にキスを落としながら、唇と舌先で涙をぬぐっていく。それは猫の光と全く同じキス。けれど、猫のザラザラとした舌ではなく、温く柔らかな人間の舌の感触に、静は身体を強張らせる。
今はもう、男の子の光が怖いわけじゃない。けれど、こんなことを誰かにされたのは初めてで、どうしても緊張してしまうのだ。
猫だった頃も、同じことをされていたのに。光が人の姿をしているというだけで、同じキスでもなんだか全く違うもののように感じる。
(何でこんなに違うんだろ……)
ぼんやりと静はそんなことを考える。
猫だから。優しい言葉もかけられないし、逞しい腕で静を抱きしめてやることもできない。だからだろうか。猫の光は静に何かあるたびに、こうやって優しく励ましてくれた。
同じ人間ではない、小さくて無力な存在だから、できることは限られている。優しくキスをしたり、ずっと隣にいてくれたり。
けれど、静にとってはそれで充分すぎるほどだった。いつも可愛がっている光が、そうやって自分を気遣ってくれるだけで、こんなにも幸せな気持ちになれる。
愛してくれてというよりは、愛させてくれてありがとう。愛情を返してくれてありがとう、という気持ちだった。
何かを大事に可愛がり、そして、その大事にしている対象から愛を返してもらうというのは、これほどまでに人の気持ちを優しく穏やかにしてくれて、幸せをくれる。何かを愛して慈しむことは、本当に素晴らしいことだ。
泣き虫の静でも、可愛がっている光の優しいキスで、すぐに機嫌が直ってしまう。そう、今このときも。
「も、へいき…… 光、ありがとね」
泣き腫らした瞳で、それでも精一杯のはにかみ笑顔を浮かべて、静は光を見上げた。
「……ッ!」
その笑顔のあまりの愛くるしさに、光は息を呑んだ。自分が人間の姿になって、初めて見せてくれた、大好きな静の可愛い笑顔。
猫だったときはいつも見せてくれていたのに、人になってからは一度も見せてくれなかった静のその笑顔に、光は心臓を掴まれる。
それは決して甘くなどない、ほろ苦いときめき。けれどこの苦しみも、いまだに続く胸の痛みも、全て恋の醍醐味なのだ。大好きな静がくれるものなら、光にとっては痛みや苦しみすらも愛おしく大切だった。
それほどまでに、光は静が好きだったのだ。だからこそ、この衝動を抑えられなかった。
「……やっぱ無理や。ゴメン」
「え?」
光は静の頬に手をやった。そして。
「――ッ!」
当然のように唇を重ねられて、静は驚きに息を呑む。静にとっては、生まれて初めてのキス。しかも、その相手は自分のペット。ねこのひかる。
どれくらいそうしていただろう。光はゆっくりと静の唇から自分の唇を離した。しかし、そのとき。あたりにまぶしい光が満ちた。そして、その光が消えたあと。光は黒い猫の姿になっていた。
「――え、光!?」
あまりにも突然の事態。驚きと戸惑いに、静は慌てる。光も焦っているのか、静の足元で何かを訴えるようにニャアニャア鳴いている。まだ何か言いたいことがある様子だ。
しかし、猫の光のそばには例のリボンが落ちていた。メタルチャームのついた、人間の光が自分の手首に結び直したもの。人間の手首にはぴったりだったリボンの環も、猫の前足には大きすぎる。
光の小さな黒い前足のそばに落ちている大きなリボンの環に、残酷な現実を思い知らされて、静はまた涙ぐむ。今度の涙は驚きと戸惑いではない。悲しみと絶望だ。
「う、うそ、そんな……」
あまりにも突然のお別れ。こんなに早く訪れるなんて思ってなかった。
さっき、ほんの数十分前に出会ったばかりだったのに、もう会えないなんて。そんなの受け入れられない。
「や、やだよ、光! 元に戻って!」
元は猫なのだから今が元の姿なのだが、悲しみに混乱している静は矛盾に気づかない。そう、今の彼女にとっては。人間の男の子の姿が光の元の姿で、同時にそうであって欲しい姿だった。
静はきゅっと口を引き結ぶと、猫の光を抱え上げためらうことなくキスをした。猫だから、人間のような柔らかな唇はない。それはあまりにも固く、そしてどことなく獣の香りのするキスだった。
固く瞳を閉じて、祈りにも似た想いを込めて。静は猫の光に口づける。ずいぶん長い間そうしてから、静はそっと唇を離した。その瞬間。
「……今度は、あのエフェクトはないんやな」
あたりに光は満ちなかったけど、再び光が人間の姿になった。
「よかった、光っ!」
反射的に、静は光に抱きついた。涙をこぼしながら、ギュウギュウと彼を抱きしめる。今度の涙はうれし涙だ。間違えようがない。
あまりにも大げさな静の喜びぶりに、光の涙腺もわずかに緩む。瞳をわずかに緩ませて、光は心の中でつぶやいた。
(……俺も、そう思っとるで)
人間の姿に戻れて本当によかった。やっぱり今日は人生最良の日だ。もう二度と離さないといわんばかりの静の熱い抱擁に、光は口の端を緩めて笑った。
人間の姿になって初めて、彼女からの愛情を確信できた瞬間だった。
「――キスで変身するんだ」
「そうみたいやな」
その後。ふたりは抱き合ったまま、顔をくっつけて、そんなことを囁き合っていた。先ほどとは違って、ふたりとも随分ご機嫌な様子だ。
特に静は本当に嬉しそうに、ニコニコとしている。まだ目元は泣き腫らして赤いけど、とても幸せそうだ。
「なんか、童話みたいだね」
たしか『かえるの王子様』だ。お姫様のキスで、王子様は人間に戻る。しかし、光は疲れた顔で息を吐くと。
「……何や、ええのか悪いのか分からんわ」
呆れたようにそう言った。光としてはやはり、ずっと人間の姿でいたかった。そんな彼に、静は不安げに尋ねる。
「ね、ねえ光」
「?」
「猫の姿と人間の姿、どっちがいい?」
あまりにも心配そうに自分を見上げてくる静に、光はつい笑ってしまう。そんなこと、尋ねるまでもなく分かっていると思っていたのに。
けれど静は自分の口から、はっきりとした言葉を聞きたいのだろう。臆病な彼女を安心させてあげたくて、光は口を開いた。
「そんなん…… こっちのがええに決まっとるやろ」
口元を緩めて笑う。きっと今の自分は、かつてないほどにデレデレとしているに違いない。念願かなって人の姿になれて、飼い猫としてではなく同じ人間の男として、ずっと恋をしていた飼い主の女の子と想いを通わせることができた。
笑顔の光に、静もまた嬉しそうに微笑んで。そして、静はそのまま光の唇にキスをしようとしたけれど。何かを思い出したように踏みとどまると、彼女はそっと光の頬に唇を触れさせた。
その場所だったら、光は猫に戻らない。人間の男の子のまま。
「――光、好きだよ」
「……知っとる」
ずっと一緒にいた。五年以上も、ずっとお世話をしてもらって、可愛がってもらっていた。分からないはずはない。どれだけ、静が自分を愛して可愛がってくれていたか。
「……違うよ。男の子の光のことだよ」
人間でも好き。それは静からの告白だった。先ほど光が告白しようとしたときは、あれほど邪魔して泣いて嫌がったのに。
彼女の気持ちは先ほどの一件で確信できていたけど、まさかこんなにもはっきりとした言葉をもらえるとは思わなかった。光は驚きに目を見開いて、頬を淡く染めた。つい視線を泳がせて、ピアスのついた左耳に手をやった。
「……それは、今知ったわ」
そのつぶやきは精一杯の照れ隠し。そんな彼を見て、静は嬉しそうに笑った。……小さな不思議な恋のお話。続きはまた別の機会に。