*ねこのひかる*

□00 ねこのひかる
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黒くて小柄で綺麗なお顔で、そしてピアスがお似合いの。猫の光は静の可愛い飼い猫だ。離れたところから名前を呼ぶと、面倒くさそうにしながらもちゃんと静のところに来てくれて、だけど構いすぎるとしっぽビンタで怒るツンデレさん。

 好きなものはマグロの猫缶と、静のお膝の上。クールなふりして意外と甘えん坊で、静が泣いていると涙をキスでぬぐってくれるおませさん。

 そんな猫の光が、ある日突然人間の男の子になってしまいました。今日はそんなお話です。



 開け放した窓からは初夏の風が吹き込んでいる。天気のいい休日の朝。静は目覚ましのアラームを止めて、気持ちよく二度寝をしていた。厳しい試験を突破して入学した大学にもようやく慣れて、今日はのんびりとしようと決めていた、その矢先。

「ん……」

 ベッドサイドに人の気配を感じて、静は重い瞼を開けた。一人暮らしの部屋なのにおかしいな。まだぼんやりとする意識の中、静は不思議に思うが。しかし、本当に人がいた。端正な顔立ちの見知らぬ男の子が、ベッド脇に立って静を見おろしている。

「ッ!」

 さすがにこれには肝を潰した。眠気は一瞬で吹き飛んで、静は反射的に叫び声を上げようとする。しかし、その少年は驚くべき俊敏さで、静の口を手で覆うと。

「ちょ、話聞けや。……落ち着いて聞いて欲しいんやけど、俺あんたが飼ってる猫。光や光。……俺もよおわからんけど朝起きたらこうなっててん」

 無表情でそう囁きかけてきた。

「……!」

 そんなの、あまりにもありえない。現実味のない話の内容に驚いた静は、華奢な身体を震わせてその少年を見上げた。驚きとおびえの混じった視線を彼に向ける。

 しかし少年は何も言わずに静の口元から手を離すと、加害の意思がないことを示すように彼女から距離をとった。

「……光、なの?」

 信じられないといった面持ちで、静はその飼い猫を名乗る少年を見つめる。少し小柄だけど、黒く短い髪に整った容姿。そして、左耳についた銀色のピアス。確かにそう言われれば、猫の光が人間になったらこんな感じかもしれない。

 猫の光も小さいけど凛々しくて、雑種だけど整ったお顔で、短い黒い毛並みの綺麗な、可愛くて格好いい男の子だった。そして、大きな三角のお耳には小さなシルバーのピアスが付いていた。目の前にいる少年と同じく、左耳にひとつだけ。

 猫の光は元は地域猫で、ピアスは去勢手術済みの目印だった。静がまだ中学生だった頃、地元の猫カフェから光を譲り受けて、それ以来ずっと静は光を可愛がっていた。

 地元から離れた関西の大学への進学が決まり、一人暮らしをすることになっても、片時も離れたくない一心で連れてきた。

 静にとって猫の光は、小さな相棒で、友達で兄弟で、家族以上の存在だった。そんな光が、まさか人間の姿になってしまうなんて。子供向けの絵本のような展開を受け入れがたく、静は再び彼に問いかけた。

「本当に、光なの……?」

「だから、そうや言うとるやろ」

「で、でも」

 いらだったように言われても、それでもやはり信じられない。しかも、小柄で美人さんとはいえ、今の光はどう見てもれっきとした男の子。一人暮らしの部屋にふたりきりというのはなんとなく怖くて、静はひるんでしまう。

 けれど、静は光の首元にほどけかけのリボンが巻き付いているのを見つけた。

「あ……」

 見覚えのあるそれは、数日前に買ってきたマカロンのアソートボックスについていたものだった。猫の光の目の色と同じ綺麗なグリーンで可愛いメタルチャームまで付いていたから、光の首に結んで沢山写真を撮った。

 猫の光は面倒くさそうにしながらも、一時間近い撮影会に付き合ってくれた。

「あ、あの…… リボン」

「……ああ」

 光はどうでもよさそうにそう言うと、ゆるく首に絡んでいたリボンを外した。そして自分の左手首に巻きつけて、きゅっと結んだ。チャームがついているから、まるでそういうデザインのブレスレットのようにも見える。

「え?」

 てっきり捨てられると思っていた、静は意外そうに光を見つめる。撮影会をしているときも、光はずっと首元のリボンを外したそうにしていたのに。静の視線に気が付いたのか、光は言い訳をするように口を開いた。

「……捨てたら怒るやろ。限定パッケージのリボン、かわええゆうとったやん」

「う、うん」

 光の言う通り、それは限定パッケージのリボン。メタルチャームはスターリングシルバーにゴールドのコーティングが施されたもので、普通にアクセサリーとしても使えるほどの、作りのよさと可愛さだった。

 リボンの方も爽やかなミントグリーンで、店名のロゴが白抜きでプリントされている素敵なもの。

「つか、毎度毎度の記念撮影ええかげんうっとおしいわ。三枚撮れば充分やろ。あんときも長いこと付きあわせおって、あとでマグロの猫缶もらえんかったら、寝しなにしっぽビンタしとったわ」

「えっ、え……!」

 まだ、誰にも話していない。光と静の一人と一匹だけの思い出を言い当てられて、静は驚きに固まる。

 マグロの猫缶も光の好物だった。猫カフェ『ぜんざい』にいた頃からの大好物で、それをあげると光は一日機嫌がいいのだ。

「本当に、光なんだ……」

 信じられないという気持ちはまだあるけど。この男の子は本当に猫の光なのかもしれない、静はようやくそう思えるようになってきた。しかし、光の方はつれない。まだ怒っているようだ。

「……だから、そうやって最初から何べんも言うとるやろ」

「うん、まあ、そうなんだけど……」

 静は困ったように視線を落とす。だって自分の飼い猫が人間の男の子になっちゃうなんて、いくら証拠を突きつけられても、やっぱり信じられないわけで。

「まあええわ。それより……」

 しかし、おもむろに光は口ごもった。

「……なあに?」

 急に訪れた沈黙に耐えきれず、静は尋ねた。しかし光はしれっとした表情で、静に向かって言い放った。

「……顔洗って、着替えとかしてきたらええんちゃう。よお見たら、ひどい格好やで」

「ッ!」

 光のあまりの放言に静は顔を真っ赤にする。ひどい、ひどい、あんまりだ。人が眠っているところに、いきなりやってきたのはそちらなのに。

「ッ、も、光のバカ!」

「バカって、別に、起き抜けやなんやから恥ずかしがることないやろ」

 フォローもなんだか微妙だ。恥ずかしいやら悔しいやらで、静の瞳が涙で潤む。

「〜っ! バカ! も、洗面所行ってくるっ!」

 叫ぶようにそう言って、静はベッドから抜け出しバタバタと洗面台へと向かった。



(も、最低の朝だよ……)

 静は恥ずかしさに涙ぐみながら、身だしなみを整えていた。パジャマ姿のまま髪をとかして顔を洗って、歯を磨く。一通りの支度を終えた彼女は着替えをしようとするが、服の替えは光がいる部屋の引き出しの中だった。静は憂鬱そうに息を吐く。

 普通の大学生の一人暮らしは、そのくらいの間取りが多数派だ。とはいえなんだか気まずく、静は光のいる部屋に戻りたくなかった。もう五年近く一緒に暮らしている猫の光とはいえ、今は人間の男の子だから気恥ずかしい。

 けれど気持ちを奮い立たせて、静は光のいる部屋に引き返した。おずおずと声を掛ける。

「あ、あのね、光。お洋服そっちの部屋に…… って何してるの!」

 しかし、後半はほとんど絶叫だった。光が勝手に静のスマホをいじっていたのだ。自分から電話機を取り上げようとする静を素早くかわしながら、光は相変わらずの無表情で言う。

「――別にええやろ。アンタが早よやらなアカンやつ、代わりに俺がやっといたるわ」

「え、えっ!?」

 戸惑う静を差し置いて。光は手早く目的の画面を電話機に表示させると、ぽつりとつぶやく。

「えっと…… 川隅くん、てコレやな」

「ッ! ちょっと光!」

 その名前を聞いて、静は青ざめる。猫なのになぜかデジタル機器扱いが上手い光は、当然のように静のスマホで電話をかけ始めた。

『――静ちゃん!? 久しぶりやな! 静ちゃんから電話なんめっちゃウレシ……』

 電話機越しに聞こえてくる声に、静はついに固まった。弾むようなその声は、間違いなく例の川隅くんだ。

「あ、すんません。俺、アイツちゃいますわ」

 しかし。電話機から光の――男の子の声が聞こえるや否や。

『――はぁ?』

 先ほどまでの明るさとは裏腹に、川隅くんの声色は一気に冷え切ったものに変わった。そのあまりの変わり身の早さと豹変ぶりに、静は身震いする。

 川隅くんは、やりとりを静が聞いているとは思っていないようだ。誰とも分からない男に舐められたくないとでも思っているのか、低い声で光に食って掛かる。

『――つか、お前誰だよ。こんな朝から、静ちゃんの携帯で何の用だよ』

 しかし、光は平然としている。この程度は想定内とばかりに、川隅くんに応戦する。

「それはこっちの台詞っすわ。気安く名前で呼ぶんやめてもらえます?

ついでにオカシなちょっかい出すのもやめて欲しいんですわ」

『――へえ……。お前、彼氏かなんか? 本人いないって言ってたけど?』

 あからさまに不機嫌な川隅くんは、光を挑発してきた。後半は露骨な揶揄だ。まるで光を小馬鹿にするような。それは静でもわかるほどで、腹が立たないわけはないのに。

 けれど、光は眉ひとつ動かさない。口の端をわずかに上げて、平然と言い放った。

「なんかやなくて、正真正銘カレシっすわ。本人恥ずかしがって隠したがるんで、俺もホンマに迷惑しとるんです。ま、そんなわけで『お試し』は他あたってくれます?」

 男の子に、こんなふうに庇ってもらえるのなんて初めてだった。ライバルからの揺さぶりにも動じない余裕たっぷりの笑顔に、静はハートを掴まれる。整ったルックスに、つい見惚れてしまう。

 猫だった頃から、光はとても美形だった。元々地域猫で血統書なんてないのに、家に来るお客さんみんなに褒めてもらえるくらいに。

『――ッチ、マジかよ』

 不機嫌そうに舌打ちをして、川隅くんは電話を切った。小さく息を吐くと、光は静にスマホを返してきた。ぶっきらぼうに、ポイッと投げ渡す。

「……これでわかったやろ。『お試しでエエから付き合って』なんて言うてくる男なん、どうせロクでもない遊び人なんや」

「で、でも……」

 キャッチしたスマホを胸に抱いたまま、静は悲しそうな顔をする。しかし、そんな彼女に対して光は鋭い瞳をさらにつりあげると。

「何がでもやねん。そうやっていつもフワフワしとっから、おかしなヤツに目ェつけられるんやろ!」

「ッ、してないよ!」

「しとるわ! だいたい毎日毎日『川隅くんが』って、似たような話ばっかり聞かされるこっちの身になれや! この一か月ストレスで軽く八〇〇グラムは痩せたわ」

 〇.八キロ。とはいえ、猫の光は元々体重四キロ程度だったから結構な数字だ。確かに最近お腹のあたりがほっそりした気がしていたけど、まさかそんな理由だとは思わなかった。驚いた静はつい声を荒らげてしまう。

「な、なにそれ!」

「アンタには俺がおるんやから、他の男の相手なんせんでええわ! 今まで通り俺のことだけ可愛がって、俺のお世話だけしとればええんや!」

 しかし、光は一歩も退かない。容赦なく怒鳴り返してくる。けれどその頬は淡く赤みを帯びていて、静は息を呑む。ちょっとどころでなく怒っていて、拗ねた口調なのも決定的だった。

「光……」

 ここまで揃えば鈍い静でも分かる。光は自分のことが……。

「ずっと猫の姿で、だから言えへんかったけど、ホンマは……――」

 そのままの流れで、光は静に想いを告げようとしてきた。が。

「ッ! だ、だ、だめッ!」

 甲高い声でそう叫ぶと、静は慌てて光の口を押えようとした。最初とは逆だ。けれど、小柄とはいえ男の子。光はあっさりと静を押し返して、逆に彼女に食って掛かる。

「ッ、何すんねん! 人の一世一代の……!」

「だ、ダメだよっ! ダメダメ!」

 もうほとんど取っ組み合いだ。まるで子供のケンカ。強引に光の口を押えようとする静と抵抗する光とで、つかみ合いのようになっている。

 ストレスでやせ細ってしまうレベルでこじらせていた積年の想いを、せっかく告げようとしていたのに。なぜかよりによって本人に妨害された光は、怒りに任せて静を怒鳴りつける。

「何がダメやねんふざけんなや! コッチはいつまたあの元の姿に戻るか分からんのや! 今言うとかんと……!」

「ッ! だ、ダメ! やだ! そんなのやだよ!」
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