*みえない星(完結済)*
□【忍足/番外編】僕たちのささやかな革命
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学校の廊下をフラフラしていて、ふと窓の外を見たら、見知った笑顔が見えた。
(あ、郁だ)
窓の外の中庭では、郁がクラスメイトの女子と一緒に楽しそうに騒いでいた。ジローは窓際に寄り、外の景色を見下ろす。
「……あんな顔みたの、久しぶりだな」
彼女の笑顔につられて、ジローも微笑む。去年の夏ぐらいからずっと、郁は口数も減って、あんまり笑わなくなっていたのに。今は少しずつだけど、昔のような笑顔を見せるようになってきていた。
(やっぱ、侑ちゃんのおかげだね)
そんなことを思いながら、ジローは満足そうに微笑んだ。つい先日、行方不明だった郁を空港で見つけて、めでたく付き合うことになったと、ジローは忍足から聞いていたのだ。郁からも同じ話をされていた。
彼女のあの笑顔を見て、郁は跡部より忍足と付き合った方が絶対いいと信じて、色々と頑張ってきた自分の苦労が報われた気がした。
二人が付き合い始めてから、まだそんなに経ってはいないけど、郁は確かにいい方向に変わってきていた。
「あれ、何見てるんですか? 芥川先輩」
偶然にも通りかかったテニス部の後輩がジローに話しかけてきた。鳳長太郎。長身から繰り出されるサーブが武器の二年生正レギュラーだ。
「郁だよ」
「……ああ、結城さんですか。最近、明るくなりましたよね」
鳳も微笑む。
「なんかあの笑顔見てると、忍足先輩や跡部部長の気持ちが、ちょっと分かるような気がしますよ」
彼の穏やかなセリフに、ジローも優しく返した。
「……チョタ、それ侑ちゃんに言っとくね」
「ちょっ、やめて下さいよ!」
鳳はがらにもなく焦った。
郁と付き合うことになってから、しばらく経った。でも来年の春には、忍足は関西に戻らないといけないから、東京で一緒にいられるのはあと少しだけど、忍足はこの残り少ない穏やかな時間を精一杯楽しんでいた。
確かに付き合いだした当初は、時にはケンカをすることもあったけれど、今はなんだか、恋人というよりもむしろ家族みたいな感じで落ち着いている。
(……先週も楽しかったな。二人で食べたコンビニのスイーツ、結構美味かったな)
忍足はそんなことを思い出しながらも、板書を適当にノートに写す。教室の窓からの秋風が、少し冷たいけど心地いい。
教壇の上では、教師が数学の問題の解法をくどくどと説明している。得意科目だから別に聞かなくてもわかるけど、居眠りも内職もするわけにはいかないから、忍足はぼんやりと彼女のことを考えていた。
ふとしたときに、忍足はよく郁のことを思い出す。辛いことがあってギスギスしてしまいそうなときも、彼女の笑顔を思い出せば穏やかな気持ちが取り戻せる。
できれば国立の医学部に行きたいから、毎日一緒ってわけにはいかないけれど、お互い一人暮らしでご近所だから、休みの日に朝から晩まで一緒にいたって、誰にも何も言われないのも、忍足は嬉しくて仕方がなかった。
今日は金曜日。最近は毎週末どちらかの家で映画のDVDを見るのが、二人のお決まりになっている。
『DVDはもう借りてきとるから、今週は学校終わったらウチ来てな』
昼休みに、忍足は郁にメールを送っていた。今日見る映画は数年前に流行った邦画だけど、忍足も劇場で見たお気に入りだった。愛すべきブサメンが、イケメンになれるスーツを手に入れて……、というコミカルな設定の恋愛モノだ。
(アイツも気に入ってくれればええんやけどな)
忍足は心の中で願う。
(……郁やったら、俺があの芸人みたいな見た目でも、変わらず笑いかけてくれそうやな)
ふとそんなことに思い至って、忍足はまた笑みをこぼした。
その日の夕方、中間考査の結果の掲示が行われた。その結果は二位が跡部で、一位が忍足だった。廊下の掲示の前で、生徒達がざわつく。跡部が次席に転落するなんて、前代未聞の出来事だったからだ。
「……忍足スゲー」
「数学満点ってありえねぇよ……」
「……あの跡部さんに勝つなんて」
自分を褒めそやすひそひそ声を捕らえつつも、忍足は自分の順位だけを確認すると、無表情のまま席に戻った。ホームルームは既に終わっていたから、あとはもう帰るだけだ。
鞄を持ち、足早に廊下を通り抜け校門に向かう。チラチラと向けられる視線が、妙に心地いい。思わず笑みがこぼれそうになるのをこらえながら、忍足は早足で歩いた。しかし、校舎の外に出たところで、偶然にも彼に捕まった。
「――よぉ、結果見たぜ。やるじゃねーのよ」
「……たまたまや。てか何でこんなとこにおんのや、跡部」
既に帰宅したと思われた彼に声をかけられて、忍足は無愛想に返事をした。
「部の引き継ぎがあったんだよ」
どうでも良さそうにそう答えてから、唐突に跡部は口の端を上げる。
「期末は負けねーぜ」
跡部の言葉に、忍足も笑みを浮かべて言い返した。
「……校内の順位なん、俺は気にしてへんよ」
だが跡部は、そんなことを言われたのにも関わらず、
「ハッ! 言うじゃねーのよ」
なぜかとても嬉しそうに笑った。
「……あ、侑ちゃんと跡部だ」
視線の先に二人を見つけ、ジローはポツリとつぶやく。
「本当だ。何話してんだろうな」
ジローの横にいた宍戸も、彼らに視線を送った。忍足が跡部に『校内順位なんて気にしてない』と言い返し、跡部が笑ったのはこのときだった。
「……っ!」
ジローは二人の表情が、これまでと違うことに気がついて驚く。
「……あれ、今の」
その違和感に、宍戸も気づいたようだった。どこか戸惑った様子で、宍戸は言う。
「あんなふうに笑う跡部、初めて見たぜ……」
「そうだね……」
ジローは同意する。だけど心の中でこっそり付け足した。
(あんなふうに笑う侑ちゃんも、はじめて見たかも……)
「……でも、あいつらスゲーよな」
「成績が?」
「ちげーよ! 好きな女カブったりして色々あったのに、むしろ今まで以上に仲がいいからだよ!」
「……そだね」
自分が二人に、というよりは主に跡部にしたことを思い出し、ジローは少しバツの悪い顔をする。けれど、宍戸はそれには気づかずに、
「でも、女ごときで俺らの絆が壊れるわけねーか!」
能天気に、二カッと笑った。
「宍戸キモイー」
軽い口調でジローはふざけるが、
(ここしばらくで変わったのは、郁だけじゃなかったってことだね)
そんなことを思って微笑む。そういえば、昔と同じと思っていた郁の笑顔もよく見てみれば、前よりもずっと優しくて綺麗だ。
「あー、俺も恋したいかも〜!」
そんなことを大きな声で言って、ジローは宍戸をうろたえさせた。
その夜。忍足は自分の部屋に彼女を呼んで、映画のDVDを見ていた。そして、それが終わってからのこと。
「……郁、お前いつまで泣いとんねん」
「だ、だって…… 琢郎さんが」
「でもまあ、お前も気に入ってくれたんなら、よかったわ」
忍足は笑って、スナック菓子をつまむ。今日は一番も取れたし、郁とも一緒にいれるしで、本当にいい日だ。彼女と過ごす週末があるからこそ、平日の勉強漬けに耐えられる。
というよりも、やるべきことをやらずに浪人なんてことになったら、郁と一年会えなくなるのだ。そうなったら、それこそ後悔してもしきれない。忍足はふと思う。
(そういえば、こんなに何かに必死になったん初めてかもしれんな)
そんなことに気づいたら、つい彼女に打ち明けたくなって。忍足はその話を郁に振った。
「……なあ郁、俺中間で学年トップ取ったんやで」
「わぁ! スゴイですね!」
郁は自分のこと以上に喜ぶ。ここ最近の忍足の努力を知っているからだ。
「ありがとな。帰りがけに跡部に宣戦布告されてもーたわ」
「宣戦布告ですか?」
「そうや。『期末は負けん』ゆうてな」
忍足は苦笑する。
「そういえば、跡部先輩ずっと首席でしたもんねぇ」
跡部のことを思い出して、郁は目を細めた。
「そやで。だから俺のことより、跡部が二位になったことに皆騒いどった」
「……それはちょっと切ないですね」
ふと、忍足はあることを思いついて、口角を上げた。
(ちょっとズルいかもしれへんけど、今までずっと我慢しとったんやし、そろそろいいよな……?)
不意にマジメな表情を作って
「……でも、俺がこんなふうに頑張れるのも、郁のおかげなんやで」
彼女はきょとんとする。
「もし落っこちて浪人なんてことになったら、一年お前と会えへんくなるやろ。それが嫌だから頑張れるんや。だからお前のおかげなんや」
「忍足先輩……」
頬を染めて、郁は忍足を見つめる。今までずっと自分を支えてくれていた忍足の力になれたことが嬉しかったようだ。
「だから、俺がもっと頑張れるように協力してくれへん?」
「わ、私に出来ることがあるんですか?」
郁は嬉しそうな、でも不思議そうな顔をする。自分に出来ることが思いつかないらしかった。
「ああ、お前にしか出来んことや」
そんな彼女を見つめながら、忍足は深呼吸をして、
「俺が、第一志望に受かったら―――」
郁にそっと耳打ちをした。彼女は驚いた様子で、しばらく顔を赤くして俯いていたが、小さな声でぽつりと答えた。
「……わかりました。忍足先輩だったらいい……です」
DVDを流しているテレビからは、往年のヒット曲が流れている。愛しい彼女の承諾を勝ち取って、忍足は心の中でガッツポーズをした。