*みえない星(完結済)*
□【跡部/最終話】君がくれた勇気
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氷帝学園高等部、卒業式当日。真っ赤な夕焼け空を眺めながら、ジローはぽつりとつぶやいた。
「つーか、ヘコみすぎだC〜」
「……別にヘコんどるわけやあらへん」
反論は即座に返ってきた。
「こっちは無理だったけど、大学は第一受かったんだから元気出せば〜?」
気遣うようなジローの言葉に、彼――忍足は、努めて明るく答えた。
「せやな」
「破局願っちゃえ!」
ジローはニカっと笑い、軽口を叩くが。
「……あいつの不幸なん、俺は願わへんよ」
諭すように優しく言われて、押し黙った。
それと同じ頃。ここは空港の国際線出発ロビーだ。跡部はソファーに腰掛けながらも、しきりに時間を気にしていた。
「遅ぇ…… 何やってんだアイツ」
見送りを約束した愛しい彼女が来ないのだ。しかも、やはりというべきか携帯もつながらない。
「早く来るって言ってたのに……」
苛立ちが募る。やはり、無理をしてでも迎えに行けばよかった。
(まさかこの期に及んで心変わりとか、また何かあったとか、そんなことはないよな……?)
今の自分にとって、怖いことといえばひとつだけ。それは、彼女を失うこと。
「…………」
来ないならもう、いっそ出発を明日にしてしまおうか……。そんなことすら考えながらも、跡部は再度携帯を開いた。
(何やってんだよ、郁……!)
夢を見た。忍足先輩に空港まで迎えに来てもらったときの夢だ。
「……先輩、私ね」
声が震える。でもこれも、自分できちんと伝えなきゃいけないこと。他の子は当たり前にしてることなんだから。だから勇気を出さなきゃ。
やっと私は自分の気持ちに気がついた。せっかく忍足先輩に迎えにきてもらったのに、私は思ってしまったんだ。来てくれたのが跡部先輩だったらよかったのに、って。
「やっぱり、跡部先輩が好きなの……」
「……郁」
「ずっと…… ずっとそばにいてくれたのに、ごめんなさい。忍足先輩のことも好きだけど、これからを一緒に過ごしていきたいって思うのは、やっぱり跡部先輩なんです……」
先輩はちょっとびっくりしたような顔をしたけど、すぐまた微笑んで。
「……何でお前が泣くねん」
「だって……っ」
忍足先輩は、私の頭を撫でると。
「っとに、泣きたいのはこっちの方やわ。空港くんだりまで迎えに来させといて、ホンマにひどいお姫様や」
そう言って、いつものように優しく笑った。それから……。
「ちゃんと、跡部と仲直りするんやで」
最後に少しだけ、私の背中を押してくれた。
誰かに呼ばれたような気がして、私は目を開けた。見慣れた自分の部屋の景色が見える。
「あれ……」
自分の行動を思い出す。先輩たちの卒業式が終わって家に帰ってきて、それから、疲れて寝ちゃったみたいだった。さっき見た夢の光景が脳裏にぼんやりと浮かぶ。そう。空港で忍足先輩と……。
空港。その単語で私はハッとした。時計を見る。まずい、このままじゃ間に合わない……! 今日は跡部先輩をお見送りしに行かなきゃいけないのに。急いで上着をはおり、私は最低限の荷物を持って家を飛び出した。
この時間なら、近道をすればギリギリ間に合う。でもその道は『あの事件』のときに、クルマに追われながら逃げた道でもあったから、私はそれ以来ずっと通れずにいた。
通ろうとすると、どうしてもあの時のことを思い出してしまって、怖くて動けなくなってしまうんだ。だけどそこを通らないと、確実に間に合わない。もう一度、時計を見る。悩んでいる時間もない。……私はもう一度、『あの出来事』と対峙する覚悟を決めた。
家を出て、いつも通る大通りとは違う方向に足を向ける。『その場所』にはすぐに着いた。車二台がなんとかすれ違える程度の道幅の、何の変哲もない、きちんと舗装された細い道だ。
けれど、心臓の鼓動はイヤな感じで早くなる。踏み込んだ瞬間、あのときの記憶が蘇った。
一瞬、同じ空気の匂いと、同じエンジン音がした気がして、現実と記憶が交錯する。焦って後ろを振り向く。でも車なんていなかった。
違う、今は『あのとき』じゃない! 必死に幻を振り払う。自分にはもう、立ち止まっている時間なんてない。……もう負けたくない、絶対に乗り越えてやるんだ!
跡部先輩とした約束を思い出しながら、怖い気持ちを押さえ込んで、私はその道を一人で駆けた。立ち止まらず一気に走り抜けて、改札を通って階段を駆け下りて、発車サイン音の響く中、閉まりそうなドアに飛び込む。
(間に合った……!)
ゼイゼイと息をしながら、私はこれまでの出来事を思い出して目を閉じた。
「――跡部先輩!」
叫ぶように名前を呼んで、私は先輩に駆け寄る。『あの道』を通って、普段使わない特急を使って、私はなんとか時間までに到着した。
あの道を通るときはやっぱり怖かったけど、通りきってみたらなんてことはなくて、私はやっと『あの事件』のことを本当に、過去の出来事として終わらせられたような気がした。
「遅いんだよバカ!」
思い切り怒鳴られて、力いっぱい抱きしめられる。
「もう、こんな心配させんじゃねえよ……」
先輩の声は震えていた。『距離を置きたい』と告げたときのことを思い出す。あのときも、怒鳴られたりはしなかったけど、なんかこんな感じだったな。『俺は絶対に別れない』って言われて……。いつもみたいな余裕はなくて、なんだかすごく苦しそうだった。
「……先輩、私ね」
跡部先輩の腕の中で、先輩を見上げながら、私は本題を切り出した。今日はこれを伝えに来たんだ。
「やっぱり私、卒業したらイギリスに行きます。日本を離れるのは怖いけど……」
また涙がこぼれてきて、私はそれを指先でぬぐった。
「一年遠距離になるけど…… 電話してください、メールも。たまには東京に帰って来てくださいね」
先輩はちょっと泣きそうに微笑むと、
「……毎日だってしてやる。お前もこっちに来いよ。オヤジさんとオフクロさん、会いたがってたぜ」
そんな優しい言葉をくれた。
これからの遠距離恋愛と海外での生活。大丈夫なのかなという不安はもちろんある。でも、勇気を出して、私は先輩を追いかけることにした。新しい場所に踏み出した方が、このままここに残るよりも、成長できるような気がしたから。
ただ単に、先輩と離れたくなかっただけなのかもしれないけど……。でも、住み慣れた日本を離れることは、もう怖くなかった。
急に何かを思い出したように、先輩は私を離して腕の時計を見た。
「……っと、そろそろヤバイな」
もう行かなきゃいけないみたい。
「先輩、最後にキスしてもいいですか……?」
なんだか急に寂しくなって、つい私はわがままを言ってしまった。なぜかちょっとびっくりしたような顔をして、先輩は、
「お前がそんなこと言うの、はじめてだな」
そう言って、少しだけ強引なキスをくれた。
たくさん悩んだけど、やっぱり跡部先輩とこれからも一緒にいたくて、私は『ついて行く』という決断をした。春の終わりに告白されてから、半年以上付き合ってきた。たった半年かも知れないけど、本当に色んなことがあって……。
辛いこともあったけど、それでもこれから先、誰と一緒にいたいかって考えたら、やっぱり跡部先輩なんだ。これが『好き』っていうことなのかな……。こうして、私たちの遠距離恋愛が始まった。
数年後。東京の空は、今日も星が見えない。入国手続きと検査を済ませ、二人は空港の到着ロビーに降り立った。そこで自分たちを待っているはずの、大切な仲間たちの姿を探す。
「――みんな!」
彼らの姿を見つけた彼女はためらうことなくそう叫ぶと、大勢の人々で賑わう空港のロビーを全力で駆けた。彼ら……氷帝の元テニス部の面々は、笑顔で彼女と傍らの――彼を出迎えた。
時が経てば変わってしまうものと、時が経っても変わらないもの。変わらないものがここにはある。人と人とを繋ぐ絆と、誰かを想う強い気持ち……。
「……おかえり郁、跡部」
皆に温かく迎えられ…… 前よりもずっと大人びた彼女は、嬉し涙を浮かべて笑った。