*みえない星(完結済)*

□第9話 おもいでばなし
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 屋上から降りて、私は廊下をとぼとぼと歩いていた。窓の外はもう真っ暗だ。

「――郁!」

 廊下の向こうから声がして、私はそちらの方を見た。跡部先輩だった。先輩はそのまま、近くの特別教室に私をひっぱりこんだ。

「……本当は、ちゃんと話せる段階になってから、直接言おうと思ってたんだ」

 涙目の私に、先輩は必死で弁解する。

「辛い思いさせて悪かった」

 私は首を横に振る。留学のことも、それを間接的に知らされたこともショックだったけど……。でも先輩は必死に、私のことを気遣ってくれてる。

「大丈夫です……」

 大丈夫じゃなくても、そう言わなきゃ場が収まらない。私は涙をこらえながら絞り出すように言った。そんな私の様子に、先輩は辛そうな顔をすると。

「でも、俺はイギリスに行こうと思ってるんだ。その方が自分のためにもなるし……。それで、できればお前にもついてきて欲しいと思ってる」

「えっ……」

 ついてきてくれ、だなんて。そんなことを跡部先輩に言ってもらえるなんて思わなかった。あまりの驚きに言葉を失う。先輩は少しだけ唇の端を上げると、私を励ますように笑顔を作る。

「……お前のオヤジさんとオフクロさん、イギリスにいるんだろ? 家族で暮らせるじゃねえか。それに、俺とも一緒にいられるし」

 そう、私の両親はイギリスにいる。だから、その気になれば先輩について行くことだって、本当はできるんだ。

「日本を離れるのは嫌かも知れないけど、考えてみてくれないか……」

 それは、偶然にも高等部に入ったときに、両親に言われた言葉でもあった。



 自分の将来に思いを馳せる。高等部を卒業したら、私はどうしようか。東京に残ってこのまま進学するか、それとも気持ちのままについて行くか。ついて行く先がどこになるのかは、もう少し悩まないと結論が出せそうにないけど……。

 特別教室で留学の話を聞かされてから、私は一人で家に帰った。なんだか今日は色々ありすぎて疲れたな……。ソファーに横になると、なぜかジロー先輩に言われた言葉が蘇った。

「…………」

 そうだ、ぼんやりしてる場合じゃない。跡部先輩に早く電話しなきゃ。そして、伝えなきゃいけない。『しばらく距離を置かせてほしい』って。



***



 最近気になることがある。それは、あの二人の様子がおかしいことだ。忍足はチラリと跡部に視線を送る。

 いつも通りの仏頂面。でも、纏う空気がやっぱりおかしい。郁もそうだ。跡部のことも自分のことも、なんだか避けているようだった。

(留学の件はハナシついたって、跡部はゆうとったはずなのに……)

 跡部の留学先のイギリスは郁の両親が暮らしているところでもあるから、別について行こうと思えば行ける。ハードルは確かに高いけど、あの二人にとっては、そんなに深刻になる必要はないはずだった。



 教壇に立つ教師がなにごとかを話し終わった後、ちょうどチャイムが鳴った。ここは自分たちの教室。帰りのホームルームが終わり、クラスの皆はそれぞれ帰りの支度を始める。跡部も帰り支度を終え、席を立った。

(……でも本人には聞けんわな。しかも俺じゃあ、本当のことなんてとても)

 一応は、立場上は恋敵。悩みながらも、忍足も教室を出る。高三の自分はもう部活はないから、このまままっすぐ帰って家で勉強するだけだ。

 この生活も当初は辟易したが、最近はだいぶ慣れてきた。廊下を歩きながら、忍足が今夜の予定を立てていた、そのとき。

「――侑ちゃん!」

「っ! 何やジロー」

「ちょいこっち来て!」

 ジローが突然現れて、忍足を廊下の隅にひきずっていった。なぜかどこか生き生きとしているジローに、忍足は疲れた顔で問いかけた。

「なんやねんジロー、急に……」

 ジローはあたりを見回し、誰もいないことを確かめると。にやっと笑った。声をひそめて楽しげに続ける。

「ビッグニュースだよ。跡部と郁、なんか別れるらしーんだって」

「ちょっ……! どうゆうことやねんソレ」

 忍足は声を上げる。

「静かにっ! 郁に聞いたのー。なんか距離置くんだって」

 ジローは嬉しそうに続ける。

「……まさかお前、アイツらに何か吹きこんだんか?」

 忍足は苦い顔をする。自分の気持ちはともかくとしても、このまま誰かと上手くいってくれるなら、それでもいいと思っていたのに……。

 しかし、忍足のその想いはジローには全く伝わっていないようだ。悪びれた様子もなくジローはしらじらしい言葉を口にする。

「別に! なーんにもしてないよ!」

「ホンマかぁ? お前はもう……」

 ため息をつきながら、忍足は眉間に手をやる。

「それよりチャンスじゃんマジで!」

「あんなジロー、俺は……」

「――あら、あなたたち何をしているの?」

 突然声をかけられて、忍足とジローは肩を竦める。ひそひそ話を見とがめられてしまったらしい。

「……すんません。何でもないですわ、先生」

 忍足はとっさに作り笑顔を浮かべて、その場を取り繕う。相手は二年生を受け持つ女性教諭だった。

「……ちょっと忍足クンに勉強の相談を」

 調子よく、ジローもそれに合わせてくる。

「ふふ、熱心ね」

 教諭はくすくすと笑うと、ああそういえばと続けた。

「忍足くん、あなた結城さんとご近所だったわよね?」

「え?」

 唐突に郁の名前を出されて、忍足の笑顔がわずかにひきつる。

「結城さん、今日無断欠席してるのよ。何か知らない?」

 これにはさすがのジローも心配そうに眉根を寄せる。

「郁ちゃん来てないんですか……?」

「そうなのよ。連絡してもつながらなくて……。こんなこと初めてなのよね。しかも、結城さんのところって女の子ひとりでしょう?」

 教諭はため息をつく。

「……俺は何も知りませんわ、先生」

「ならいいわ、ありがとう。もし本人を見かけたら、休むときはちゃんと連絡するように伝えておいてね」

 小さく苦笑して、女性教諭は立ち去った。胸がざわざわする。こんな感覚は久しぶりだ。忍足は言いしれぬ不安に襲われる。

「……ジロー、お前は跡部に聞いてみてくれへんか? 俺は今からアイツん家行ってくるわ」

「わ、わかった……!」



(家にもおらへんし、携帯もつながらへん。ホンマにアイツどこにおるんや……!)

 忍足はそう思いながら、郁と自分の家の近所を走っていた。テニスで鍛えていたとはいえ、長時間の全力疾走はさすがの忍足でも息が上がってしまう。

 コンビニ、駅前のショッピングモール、本屋にカフェ……。彼女の行きそうなところは全部行ったが、やはり郁は見つからなかった。

「……くそッ!」

 足先の痛みに耐えかねて、忍足は立ち止まる。滴り落ちてくる汗を乱暴にぬぐう。ずっと利き手に握りしめていた携帯を改めて確認してみても、ジローや跡部からの着信はなかった。

(つーか、なんで連絡ないんや……。ジローは何やっとるんや)

 しかし、他人に構っている余裕はない。肩で息をしながらも、忍足は必死に考える。

(どこや…… 俺は絶対ヒントを知っとるはずなんや……)

 嫌な予感を振り払いながら、この数年間の彼女との出来事を思い出す。

 誰よりも近くで見ていた自信がある。自分が探し出せないなら、きっと誰も彼女を見つけ出すことなんて出来ないだろう。だから、自分が諦めるわけにはいかないのだ。

「……っ! そうや、そういえば」

 ふとした瞬間、ようやく心当たりに思い至って、忍足は慌てて、駅に向かって駆けていった。



 轟音とともに、航空機が離陸する。その向こうでは、また別の機体がゆっくりと地上を滑走する。近くには、メンテナンスを受けている機体が見える。そんな柵の向こうの景色を、彼女はじっと眺めていた。

「――空港グルメはもう堪能したん?」

 背後から急に声をかけられ、小さな身体を震わせる。恐る恐るといった様子で振り返った。

「忍足先輩……」

「帰るで、郁。趣味の悪い家出ごっこなん、もう仕舞いや。先生も心配しとったで」

「……え、でも今日祝日で休みのはずじゃ」

「アホか! それは来週や」

 そこまで言って、忍足と郁は互いに顔を見合わせて笑った。

「……前にもこんなことがあったな、お前の親がイギリスに出発した時や。夜になっても家に戻ってこんから心配しとったら、お前ずっと空港の展望デッキで、ひとりで体育座りしとったやろ」

「えっ、ありましたっけそんなこと……」

 とぼける郁に、忍足は苦笑する。

「忘れんなや、人にあんだけ探させといてからに」

忍足は郁に駆け寄って、小さなその手を取った。そのまま強引に展望デッキの出口に向かおうとする。

「……先輩、私ね」

 なぜか、郁が泣いているような気がして、忍足は振り向いた。……そこから先は、よく覚えていない。

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