*みえない星(完結済)*

□第8話 ずっと君だけを
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『――郁、お父さんとお母さんな、仕事で外国に行かなきゃいけなくなったんだ』



 そうやって二人がいなくなって、私が一人になったのは、確か高等部に入った直後だったっけ……。誰かに呼ばれた気がして、私は顔を上げた。

「忍足先輩……?」

 先輩はひどく慌てた様子で、私に駆け寄ってくる。ここはいつもの屋上。茜色の空が、今の時間を教えてくれている。

「……あれ、私」

 さっきまで、ジロー先輩と電話をしていたはずなのに……。記憶が定まらない。

「ジローから連絡もろうて来たんや。心配したで。変な電話の切り方しおるから」

 先輩の言葉で思い出す。

「……すみません先輩。また迷惑かけちゃって」

 言いながら私は立ち上がった。まだ頭が少しボーっとするけど、意識自体ははっきりしている。身体に異常があるわけじゃない。

「――迷惑なんて思わへんよ。お前のこと迷惑なんて思ったこと、ただの一度だってあらへん」

 妙に強い口調に違和感を覚えて、私は忍足先輩を見上げた。夕日のせいか、いつもと違って見える。

「郁、身体の具合が大丈夫なら、聞いて欲しいことがあんねん」

 改まった様子で、先輩は切り出す。

「……大丈夫ですけど、どうしたんですか?」

 なんだか緊張する。こんな忍足先輩を見るのは、初めてかもしれない。先輩は軽く息を吸い込むと。

「あんな、ホントは言わんどこ思うとったんやけどな。俺、ずっとお前のことが好きやったんや」



 放課後の生徒会室。大きな窓からは、オレンジ色の夕日が差し込んでいる。そこにいたのは跡部とジローだった。跡部はデスクで書類に目を通しており、一方のジローは手持ちぶさたな様子でソファーで横になっている。

「ねぇ、跡部」

「……なんだよ」

 ジローに呼びかけられた跡部は、手元の書類から目を離さずに答える。

「――跡部は、何で郁と付き合ってるの?」

 突然の妙な質問に、跡部は顔を上げた。剣呑な視線をジローに投げかける。

「……何が言いてえんだよ」

「だってー、跡部は侑士が郁のこと好きだって知ってて、郁にちょっかい出したでしょ」

「……まあそれは否定しねえよ」

 面倒くさそうにジローに答えると、跡部は息を吐く。

「他人のもの盗って楽しい? 侑士のこと嫌いなの?」

 跡部のそんな反応にムッとしたのか、ジローの口調に力がこもる。

「……ふざけんなよ。郁はモノじゃねぇし。それに、そもそも悪いのは、ぶつかっていかねえ忍足だろうがよ」

 表情を険しくし、跡部はジローに言い返す。

「ふーん…… まあ確かに跡部は積極的だもんねぇ」

「つーか、さっきからいやに絡むじゃねえか、ジロー」

「別にー!」

 二人の雰囲気はどんどん悪くなる。

「でもさ、跡部は何で郁がいいの?」

 不意に真顔になって、ジローは跡部に問いかけた。

「……何でだろうな」

「えー! ナニソレ!」

 答えになってない返答に、ジローは怒る。しかし。

「……理由がいるのかよ。きっかけはどうあれ、人を好きになるのに理由なんていらないだろ」

 それが跡部の答えだった。



 『ずっと好きだった』忍足先輩の信じられない言葉に、心臓が止まりそうになる。

「跡部にとられたときも、俺が関西戻る言うたときに、お前が寂しい言うてくれへんかったときも、ホンマはむっちゃ悔しかったしショックやった」

 言葉が出ない。だって私は、あのとき忍足先輩にフラれたと思ったから……。視界がにじむ。先輩は言葉を続ける。

「もっと早く言おう思うとったんやけど、お前にあんなことがあって、それで苦しんどるお前見とったら、なんや言えんくなってしもてな」

「先輩……」

「……すまんな。お前にはもう跡部がおるのに」

 そんなふうに言われてしまうと、何も言えなくなってしまう。私には忍足先輩に何か言う権利なんて、ないような気がして。

「そんな顔すんなや。俺はただ、お前に自分の気持ち伝えときたかっただけなんや」

 先輩は苦笑すると、私の頭を撫でた。

「でもな郁、今までもこれからもずっと、俺はお前の幼なじみで、お前の味方やから、何かあったらいつでも、頼ってきてくれてええんやで」

 優しい言葉と一緒に微笑みかけられて、私は今までの、忍足先輩と過ごした数年間を思い出していた。……嬉しかったことも、苦しかったことも。思えば全部、いつだって忍足先輩と一緒だった。

「……ほなな、郁。跡部と仲良くやりや」

 忍足先輩はいつもみたいに微笑むと、ゆっくりと踵を返した。屋上の出入り口の扉が閉まる音が聞こえたのは、それからしばらく経ってからだった。

 本当は追いかけたかった。でも、追いかけてどうするんだろう。今の私に、忍足先輩を追いかける資格なんてあるの? ……急に携帯が震えた。まるで、先輩と入れ替わるみたいに。

『……郁ちゃん。侑士と会えた? 話きけた?』

 電話をかけてきてくれたのは、ジロー先輩だった。

『侑士はね、ずっと前から郁ちゃんのことが好きだったんだよ。あんなこと言ってたけど、本当は今でも郁ちゃんのことが好きなんだよ』

 さっきの告白で、忍足先輩のその気持ちは苦しいほどに伝わってきている。

『ねぇ、なんで跡部なの? どうして侑士じゃだめなの? 跡部だって、卒業したらいなくなっちゃうんだよ?』

 いなくなる、その言葉を聞いた瞬間、涙があふれた。

「わかっ…… てっ……」

 苦しくて声が出ない。なんで私の大事な人は、みんないなくなっちゃうんだろう。

『郁ちゃん、もっぺんよく考えてみてよ。無理して頑張って跡部と付き合うより、侑士と付き合った方が、俺は絶対、郁ちゃんにとってはイイって思うよ……』

 ジロー先輩の声も、なんだかひどく苦しそうだった。

『遠い外国なんかより、侑士と関西に行けばいいって、俺は思ってる……』



 春の終わりからずっと、跡部先輩と一緒にいたけど、忍足先輩のことを忘れたことなんて一度だってなかった。思えばいつも、誰かに『好きだ』って言われるたびに、思い出していたのは忍足先輩だった。

 だけどこの数ヶ月、まっすぐな気持ちをぶつけてくれて、踏み出す勇気を私にくれた跡部先輩も、大切なのは本当。

「私、どうしたらいいんだろ……」

 その問いの答えは、だけど自分で見つけるしかない。



 急に携帯が震えて、跡部はポケットに手を入れた。発信者名を確認し、電話に出る。

「……なんだよ。ジロー」

 先ほどのいざこざのせいか、跡部の機嫌は悪かった。低い声で対応する。

『跡部、俺ね』

 しかし機嫌が悪いのは、向こうも同じようだった。

『さっき郁に跡部の留学のことバラしちゃった』

 悪びれもせずしれっと、ジローは跡部にそう告げた。

「……テメェはどこまでも俺様を怒らせたいらしいな」

 跡部の声は怒りに震えていたが、ジローもまた強い口調で言い返す。

『だって、あんな嘘くさい理由じゃ納得できないんだもん。俺がムカつくんなら、本当の理由教えてよ』

 ジローの詰問に、しかし跡部は押し黙る。……彼女のことが好きな理由。でもそれを話すことは、とりもなおさず、自分と彼女の秘密を暴露してしまうことだった。

 自分はともかく、彼女の秘密だけは守りたかった。だから言えなかった。ジローに何となじられようとも。

『……言えないならいいよ。別に。理屈じゃないっていうのも、わかんないわけじゃないし』

 ジローの冷たい声が響く。

『――跡部は、知らないと思うけど』

 唐突にジローの声のトーンが変わり、跡部は微かに動揺する。

(まだ何かあるのかよ……)

 そう思うが、話を遮るのもはばかられて、大人しく耳を傾ける。

『去年の夏ぐらいからかな…… 郁、なんか変わったんだ』

 去年の夏、それはあの事件が彼女の身に起きた時期で。一瞬、跡部は焦るが。

『多分、春にお父さんたちが、海外行っちゃったからだろうけど』

 ジローの次のセリフに安堵する。しかし……。

『あんまり笑わなくなったんだ。前はもっと普通だったのに。それで、なんか時々苦しそうにしてた』

 ジローの言葉を聞きながら、跡部は彼女と、初めて言葉を交わした時のことを思い出していた。そう。車のナンパから、彼女を助けたあのとき。

 一方ジローは、全国大会の決勝に郁を誘ったときのことを思い出していた。あのときも何だか苦しそうだった。だから、少しでも気晴らしになればと思ったんだ。そんなことを回想しながらも、ジローは続ける。

『でも侑士といるときだけは、郁は昔みたいに笑うんだ。だけどそんなこと、跡部の知ったことじゃないよね』

 確かに自分の知らなかったことだ。けれど。

「……昔のことなんて、確かに俺は知らねえよ。だがな、アイツと今付き合ってるのはこの俺なんだよ!」

 だからといって、簡単に譲れる程度の想いではもうなかった。どうしても放っておけない。惹かれて構って求めてしまう。

 理由は未だにハッキリしない。同じ痛みを背負っているから? 好みの容姿と性格だから? ただ、どちらにしろ明らかなのは、もう後戻りできないということだけ。

 ジローは『跡部らしいね』と笑ってから

『そうだ、いいこと教えてあげる。今、郁は屋上にいるよ。それで、侑士に告白されたとこ』

「……ッ!」

 出し抜けにそんなことを告げられて、跡部は絶句した。さっきの生徒会室でのやりとりが思い出される。これは、意趣返しなんだろうか。

『早く迎えにいってあげた方がいいんじゃない?』

 冷たい忠告を伝えてすぐ、電話はブツリと切れた。

「クソっ……!」

 誰にともなく毒づいてから、跡部は駆けだした。目的地はもちろん、彼女のいるはずの屋上だった。

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