*みえない星(完結済)*
□第7話 先輩の嘘
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全国大会が終わってしばらく経ったある日の夜。
『跡部、すまない』
ある夜、携帯の画面に表示されたそのメール文を見て、跡部は真顔で不思議がった。
「……なんだこれ」
メールの差出人は手塚国光。跡部たち氷帝のライバル校である青春学園のテニス部部長で、名だたる全国区プレイヤーだった。その不思議なメールの謎は、翌日早速解けることになる。
「……何でこの時期なんですか」
威圧するかのような低い声で、跡部は部活の顧問の榊に尋ねた。ここは氷帝の進路指導室。
「すまない。急に辞退者が出てしまったんだ」
「それは青学の手塚くんですか」
「そうだ。先日の全国大会でね、肩を痛めてしまったそうなんだよ」
榊は言いながら、跡部に大きな封筒を渡す。イギリス留学資料。表書きには、そう書かれていた。
「だが跡部、これはお前にとっても悪い話ではないはずだ。数年間日本を離れることになるが、考えてみてくれないか?」
「…………」
跡部は無言でそれを受け取り、踵を返した。部屋を出たとたん、知った顔に話しかけられる。
「……跡部、どないする気なん?」
忍足だった。
「わかんねえ。しばらく考える。……アイツには」
「わかっとるわ。お前に頼まれんでも誰にも言わへん」
その日の正午過ぎ。時計を見ながら、跡部は生徒会室で電話をかけていた。この時間は青学も昼休みのはずだ。
『……どうした? 跡部』
「おめーに文句が言いたかったんだよ、手塚」
お目当ての人物とはすぐ繋がった。
『すまないな。俺としたことが、また痛めてしまってな』
「どーだか。前にフラれた腹いせなんじゃねーの?」
眉間にシワをよせながら、跡部は手塚に絡む。
『俺はそんなことはしない』
「……チッ、からかいがいのねえヤツだな」
『しかしだな跡部。これはお前にとっても』
「わかってるよ!」
口調を強くし、跡部は手塚の言葉を遮った。
「――用はそれだけだ。じゃあな」
言い捨てて電話を切り、跡部は不機嫌な表情のまま、生徒会室のソファーに横になった。
「――ねえ結城さん、ちょっといい?」
放課後、私は隣のクラスの女の子に声をかけられた。普段接点のない、しかも派手な子に話しかけられると緊張する。
しかも私に話しかけてきた子の周りには、同じような雰囲気の子たちが何人もいて、みんな怖い顔で私に視線を送っている。
「ちょっと話があるんだけど」
口角は上がっていても目が笑ってない。嫌な予感を覚えつつも、私はその子たちと校舎裏に行った。
「私ね、こないだ、跡部様とアンタが抱き合ってるの見ちゃったんだ」
校舎裏で私はお約束の囲みをくらっていた。まさかアレが見られていたなんて。
「ふざけんなよ! 超ナマイキ!」
「地味子のくせに!」
「つりあい考えなさいよ!」
派手な子たちは、口々に私に罵詈雑言を浴びせてくる。まるで漫画みたいな、こんなことが本当にあるなんて思わなかった。返答に窮して、私は俯く。けれど、これで許してくれるような子たちではもちろんない。
「何黙ってんだよ。つりあってないから別れろって言ってんだよ! このブス!」
バチ――ン! ひときわ大きな怒声と張り手が同時に飛んできた。そこまでされるとは思ってなかった。かわすこともできずに、私は左頬を思い切りぶたれてしまう。
「……っ!」
口の中が切れたのか、血の味がする。叩かれた頬も熱を持って、ジンジンと痛む。手加減なしで引っぱたかれたみたいだった。
すごく痛かったけど、なぜか涙は出なくて。かわりにこみあげてきたのは怒りだった。
(……何でこんなことされなきゃならないの? 何の関係もない子たちに)
確かに大して可愛くもないし取り柄もないけど、でも跡部先輩は私がいいって言ってくれたんだ。何だか先輩までバカにされたようで腹が立って、私は女の子たちを睨み返した。
「そんなに私が気に入らないなら、跡部先輩に言ったらどうですか! つりあってなくても先輩にフラれない限り、私は別れるつもりなんてありません!」
そうだよ、もうバレても構わない。こんな子たちになんて負けたくない。気がつくと私は、そんなことを叫んでいた。
「……っ!」
まさか言い返されるなんて思っていなかったのか、女の子たちは怯んだ様子を見せると、互いに目配せし合ってから。
「……っムカツク! ふざけんなよ、行こっ!」
捨て台詞を残して立ち去ってしまった。もっと長引くかと思っていたけど、たったひとこと言い返しただけで引き下がってもらえて、私はほっとする。売り言葉に買い言葉だった気もするけど、大丈夫かな。
これからのことを思うとうんざりとしたけど、私は頑張ろうと気合を入れ直した。跡部先輩のそばにいるためには、こんなことでへこたれてはいられない。すると、そのとき。
「――よく言えたじゃねーか」
背後から耳慣れた声が聞こえた。聞き間違えるわけない、この声は。
「跡部先輩!」
案の定。いつの間にか、そこには当のご本人がいた。
「なんで先輩がここに……」
「いや、サボろうかと思って」
生徒会長らしからぬ不良な理由に言葉が返せない。だけど、先輩は屈託なく笑うと。
「でもお前、よく言ったな」
なぜか今日の先輩は機嫌がいい。
「成長したんじゃねーの?」
なぜか得意気に先輩は笑った。綺麗な青い瞳を細めて、不敵に微笑む。
「っ!」
先輩の指摘に、私はハッとした。そうだ。今までの私だったら適当な嘘をついて誤魔化して、きっと言い返したりなんてしなかった。変われたのかな、私……。
「アイツらには俺からもきつく言っとくから、お前はもう心配すんな」
先輩は私の頬をそっと撫でる。そちらの頬はぶたれた側で、私は先輩の優しさに涙をこぼしそうになった。
「……さて、強くなったお前にいいニュースだ。お前を襲った犯人らしい奴が、別件で捕まったからカオ確認してくんね?」
場所を移して、私たちはテニス部の部室にいた。先輩は鞄を探りながら言う。
「悪いかとも思ったんだけどよ、警察の知り合いにお前のこと話したんだ。犯人らしい奴の手がかり掴んだら教えてくれって」
「……そうだったんですか」
封筒を渡される。おそるおそる私は中のものを取り出した。入れられていたのは見覚えのある顔の写った写真で、私は急に吐き気を催す。
軽い目眩まで覚えてしまって、もう無理だと思った私はその写真をそっと封筒に戻した。
「……たぶん、この人です」
口元を片手で押さえながら、私は先輩に封筒を返した。
「多分、ってのは何なんだよ」
はっきりしない言い方に、先輩が訝しむのも仕方がないんだけど……。
「……すみません。あのときのことは怖くてちゃんと覚えてないんです」
そのときの周りの景色や空気の匂いとか、他のどうでもいいことは全部覚えているのに、犯人の顔だけはモヤがかかったようになって、どうしてもよく思い出せない。……強くなれたと思ったのに、今も心が拒否してるのかな。
だけど私は唇をきゅっと引き結んで、先輩に告げた。
「でも、きっと合ってると思います」
「そうか。まあでもいいさ、証拠もあるしな」
「証拠があるんですか!?」
私は驚いて声をあげてしまう。先輩は急に真面目な顔になって続けた。
「……ああ。写真が見つかったんだよ。お前を乱暴した直後に撮ったらしい写真を、そいつは持ってた。あと、下校中のお前を隠し撮りした写真もな」
血の気がざっと引く。意識を失ったあとに、そんなことをされていたなんて。
「でも他の女の似たような写真も持ってたらしいから、余罪もあるみたいでな。
幸か不幸か、お前だけじゃなかったみたいだな」
自分だけじゃなかった、という言葉を聞いて、私は複雑な気持ちになる。あの人は、目をつけた女の子に拒まれるたびに、そんなことをしていたんだろうか。
「……そんな顔すんなよ。別件で捕まったって言っただろ。もうお前は何にも心配することなんてないんだ」
先輩は私を勇気づけるように優しく言った。
「事情聴取で警察に呼ばれることはあるかも知れないがな。でもこれで、ザッツオールフィニッシュだ」
にやりと先輩は笑った。私を勇気づけるような自信満々の笑み。
「これで、おしまい……?」
先輩の言う通りこれで終わったって喜んでいいはずなのに。なぜか私の心はちっとも晴れなかった。
あまりにもあっさりとしすぎていて、何だか信じられない。あれほどまでに苦しんだこの一年が嘘みたい。悪い意味で拍子抜けしてしまって、妙に不安になってしまう。
「物足りないか? 犯人ブン殴りにでも行く?」
私のそんな心の内に気がついたのか、先輩は私の顔をのぞき込んだ。
「……っ嫌です!」
反射的に私は叫ぶ。むしろ関わりたくない。もう二度と。私が被害届を出したり告訴したりしなくていいんなら、不謹慎だけどそれは何よりだ。
「ならもっと喜べよ」
「……せ、先輩は」
ふと気になったことがあって、私は意を決して尋ねた。
「見たんですか? 私の写真……」
乱暴されたあとの、とは口に出せなかった。
「……見てないよ」
先輩は、なんでもない様子でそう答えた。
その夜。忍足に今日の一件を電話で伝えたあと。
「……今度、ちゃんと謝んねーとな」
屋敷の私室で、跡部はそんなことをひとりごちる。できれば直接がいいだろう。自分は正論とは言えキツいことを言ったから。
「こんな酷い姿で泣かれたら、そりゃあ戦えなんて言えないよな……」
ぽつりとそうつぶやいて、跡部はそのあまりに痛々しい写真を破り捨てた。
それから数日が経った。相変わらず私は、放課後は屋上でテニス部の練習を眺めている。だけど全国大会は終わってしまったから、三年の先輩たちはあの中にはいない。今は二年の日吉くんが、部長として頑張っている。
「……でも、来年こそは全国大会優勝できるといいな」
そう。跡部先輩たちはいなくなるけど、氷帝テニス部がなくなるわけじゃない。今度は私も堂々と応援しに行こう。それでみんなと一緒に思い切り喜んだり、悔しがったりしよう。女の子らしく、なにか差し入れを持って行くのもいいかもしれない。
色んな出来事を重ねて私はやっと、そんなふうに前向きに考えられるようになっていた。澄んだ青空の下、私は機嫌よくテニスコートを見つめる。
すると、急に携帯が震えた。表示されているのは珍しい名前で、私は慌てて電話に出た。
「……もしもし?」
『郁ちゃん!? 俺なんだけどっ!』
「どうしたんですか? ジロー先輩」
先輩の声は妙に焦っている。何かあったのかな。私は不安になってしまう。
『あのね、俺、さっき先生たちが話してるの聞いちゃったんだけど、なんか跡部が、卒業したらイギリスに留学するらしいんだ……!』
「えっ……!?」
急に目の前が暗転する。
『郁ちゃん、何か聞いてる!?』
聞いてない。そんなの何も。忍足先輩の関西行きを知らされた時と同じ感情がぶりかえす。思い出すのは、あの日耳元で聞かされた言葉。
『――俺は大学も東京だから』
どうして? 跡部先輩とは、ずっと一緒にいられると思っていたのに……。
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