*みえない星(完結済)*

□第6話 涙の味のキス
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 ――先輩に抱きしめられるとき、私は未だに怖くて。未だに怖くて、震える。

 

 跡部先輩と付き合い始めて一ヶ月が経った。最初はどうなることかと思ったけど、先輩は優しくて、そして意外と気の長い人だったから、なんとか続いている。

 気が長い、というのは……。 そう。付き合って一ヶ月も経つのに。私たちは、キスのひとつもしていないんだ。



 ボールを打ち合う音が響く。ここは氷帝の高等部のテニスコートだ。現在は部活中。けれど、彼らは堂々とコートの外で立ち話をしていた。向日と宍戸。このテニス部の三年正レギュラーだ。

「ってかさー、最近侑士なんかヘンじゃね?」

 向日は忍足の下の名前を呼ぶと、不機嫌そうに口を曲げる。

「大学は関西戻ることになったから、アイツなりに落ちこんでんじゃねーの?」

 ラケットを指でくるくると回しながら、宍戸は向日を宥めるように言う。しかし、向日の機嫌は直らない。悔しさと苛立ちを隠そうともせずに、地面を思いきり蹴った。

「クソクソ侑士! なんで東京で受験しねーんだよバカ!」

 ザッという音とともに土埃が舞い、向日の白いシューズを汚す。忍足が関西に戻ることは、既に皆の知るところとなっていた。

「色々あんだろ忍足にも。でも、寂しくなるよな……」

 宍戸もまた辛そうに、そっと瞳を伏せた。



(今日もいいお天気だなー)

 そんなことを思いながら、私は校舎の屋上からテニスコートを眺めていた。人は豆粒サイズだけど、あそこに先輩たちがいるのかと思うと、すごく嬉しい。

「――あれっ、郁ちゃん?」

 突然名前を呼ばれて、私はびっくりして振り返る。

「ジロー先輩!」

 芥川慈郎先輩は、テニス部の正レギュラーの先輩だ。ふわふわの金色の髪と小柄な背丈が可愛いけど、テニスはすごく強くてみんなからも一目置かれている。

「先輩、部活はいいんですか?」

 今は放課後で、今日は水曜日じゃない。テニスコートにも大勢の人の姿が見えていたから、私はジロー先輩に尋ねた。

「いいの〜 なんか疲れたから、抜けてきちゃったC〜!」

先輩はそう言って、私の横のベンチにごろんと寝転んだ。

「跡部先輩に怒られちゃいますよ?」

「大丈夫だよ〜」

ジロー先輩はパタパタと手を振る。

「あっ、でも跡部といえば〜」

急に私に視線を向けて、先輩は言った。 

「郁ちゃんが跡部と付き合うなんてマジ意外〜」

「っ! 何言ってるんですか、ジロー先輩!」

 誰にも話してないはずなのに。私は焦る。

「別に否定しなくてもいいC〜 誰にも言わないC〜」

 だけど、先輩はすごくどうでもよさそうだ。怠そうに言われて、私は思わず唇を尖らせる。

「――でも俺、郁ちゃんは侑士と付き合うと思ってたな」

 ジロー先輩に急にその名前を出されて。一瞬、心臓が止まりそうになる。メガネの奥の優しい眼差しが蘇って、涙が溢れそうになった。

「郁ちゃんといるときの侑士、なんか違ったもん。郁ちゃんだって侑士の隣にいるときが、一番嬉しそうだった」

 言葉が出ない。ジロー先輩に、そんなふうに思われていたなんて知らなかった。

「まあでも、俺はそんなん興味ないからどうでもいいけど〜」

 先輩は言いながら瞳を閉じる。私はふと気になって、ジロー先輩に尋ねた。

「……先輩は、彼女さんっていないんですか?」

 誰かにこんな質問をするのなんて初めてだった。でも、聞かずにはいられなかった。

「いないよ。だって欲しいと思わないもん」

 けれど、淡々と返ってきた意外な返答に、私はびっくりしてしまう。

「頑張れば作れると思うけど、そんなとこで頑張ってもしょうがないC〜」

「…………」

 その言葉が胸に刺さる。私は頑張らないと、恋愛なんてできないよ……。でも、先輩はそんな私の気持ちなんてお構いなしで、

「ってか、それこそどうだっていいC〜! それよりっ!」

 勢いよく跳ね起きると、キラキラした子犬のような瞳で私を見上げた。

「ねえ郁ちゃん、もうすぐ俺ら全国大会の決勝なんだよ! 応援してよ! てか俺のこと応援しにきてっ!」

 急にそんなことをお願いされて、だけど私は困ってしまう。ジロー先輩の言う通り、もうすぐ先輩たちのテニス部は全国大会の決勝戦だった。私も応援しに行きたかったけど、なぜか跡部先輩には来るなって言われていた。

 だけど、こうやってジロー先輩にお願いされたのも、きっと何かの運命だよね。うちの応援すごく人数多いから、私が行ってもバレないはず。

「……はいっ、私ジロー先輩のこと応援しに行きます! 絶対!」

 元々応援しに行きたかったのもあって、私は思わずそう言っていた。

「ありがとっ! 約束っ!」

 ひまわりみたいな笑顔を浮かべて、ジロー先輩が小指をさしだす。微笑みあって、私たちは指切りをした。



 そして、決勝戦の当日。私は跡部先輩にバレないように、こっそりと会場にやって来ていた。でも、もちろん跡部先輩はこの場にいるし、ジロー先輩以外の正レギュラーの先輩たちにも、見つからない方がいいから気を遣う。

「コート、あれかあ……」

 私は少し離れたところから、氷帝の試合が行われているセンターコートを眺めた。決勝の対戦相手は神奈川の立海大付属だ。以前は全国大会連覇を達成したこともあるすごく強い学校で、跡部先輩たちも心なしかずっとピリピリしていた。

 両校とも応援団の人数が多いのと他校生のギャラリーで、コートのまわりは既に黒山の人だかりだった。

「どうしよう、あんなんじゃ近づいても……」

 ジロー先輩に気づいてもらえない。がっかりして、私は肩を落とす。すると。

「――ねぇっ! キミ氷帝の子?」

 突然肩を叩かれた。私はびっくりして顔を上げる。私の隣にはいつのまにか、にこにこと微笑む他校の男の子がいた。この白い学生服は……。知らない学校だ。

「はっ、はい…… そうですけど……」

「そうだよねっ! 今日は応援?」

 妙に親しげな口調に戸惑いを隠せない。

「い、一応……」

 私はどぎまぎとしながらもその男の子に対応する。急に話しかけてきた知らない人でも、やっぱり邪険にはできない。けれど、そのとき。

「コラ〜〜〜千石っ! 郁ナンパするんじゃねぇ〜〜!」

 どこからか叫び声と、走ってくる足音。

「ジ、ジロー先輩っ!」

 今は試合中のはずなのに。私は目を丸くする。私のそばまでやってきたジロー先輩はその男の子を睨みつけると、

「郁に近づくんじゃね〜! あっちいけっ!」

 あっかんべーをした。先輩らしい仕草に肩の力が抜ける。

「ちぇっ! もーしょうがないなあ」

 先輩に舌を出された男の子は、仕方がなさそうに息を吐くと、意外にもあっさりと引き下がった。じゃあまたね、と私にだけ微笑みかけてコートの方へと行ってしまう。

「先輩……」

 ささいなナンパでも助けてもらうのはやっぱり嬉しくて、私は先輩を感激の面持ちで見つめた。

「郁ちゃん、来てくれてうれC〜よ!」

 私を見つめ返して、先輩は機嫌よく笑う。金色の巻き毛が夏風に吹かれてふわりと揺れる。アイスブルーとホワイトのポロシャツ姿もすごく格好いい。

「先輩、試合はどうしたんですか?」

「俺のは終わったよ〜 勝ったよ!」

「えっ! 終わってたんですか?」

 どうやら私がコートに近づけなくて困っていた間に、試合はだいぶ進んでたみたい。ジロー先輩の試合を見れなかったのは残念だけど、いい結果に私は嬉しくなった。

「でも勝ったなら良かったです。おめでとうございます!」

「ありがとっ! 今からシングルス2だから残りも、人いっぱいだけど応援してって!」

じゃあねっ、と手を振って。ジロー先輩はまたすぐにコートの方へ戻ってしまった。私も氷帝のみんなを応援すべく、先輩を追いかけてコートに向かった。

 決勝戦の結果は、三勝二敗で…… 立海大付属の勝利だった。先輩たちの最後の夏が、終わった。



「……郁。お前決勝見に来てただろ」

 その日の夜。私は自分の部屋で跡部先輩に詰め寄られていた。

「……なんでわかったんですか」

「他校のヤツが言ってたんだよ! ああイライラするっ!」

 負けてしまったからなのか、今日の先輩は機嫌が悪い。

「すみません……」

 私は小さくなるしかない。でも、なんでこんなに怒られなきゃならないんだろう。応援しに来てる子なんて、すごくいっぱいいたのに。

「……お仕置きだ。お前後ろ向け」

 何をされるのかとびくびくしながらも、私は言われた通りに後ろを向く。すると、急に跡部先輩に抱きしめられた。私を怖がらせないように、ふんわりと優しく。逞しい腕には、ほとんど力が入っていない。

「……っ!」

 それでも、緊張に私の身体は固くなった。心臓の鼓動が早くなる。でもこれはトキメキじゃなくて動悸だ。怖くて、いてもたってもいられなくなる。

 でも、私はふと跡部先輩の様子がおかしいことに気がついた。先輩、もしかして泣いてるの……?

「……跡部先輩?」

「――黙ってろ」

 いつもと違う上擦った声。胸元にある跡部先輩の腕に触れる。今日はなぜか震えていた。私はおずおずと切り出した。

「先輩、そっち向いていいですか……?」

 ダメと言われずに、腕もゆるめてもらえたから、私は先輩の方を向いた。初めて見る、涙目の跡部先輩。きっと先輩のこんな顔を見れるのは、世界中で私だけだ。感じたことのない気持ちがこみ上げて、胸がぎゅっと苦しくなる。

 先輩の右手が私の頬にそっと触れる。最初に瞳を閉じたのは、きっと私のほう。……唇に柔らかな感触が落ちる。これが私の、合意の上でのはじめてのキスだった。

 がんばれば届くもの、がんばっても届かないもの。その全てを受け入れて進んでいこう。この夏の出来事を、私は一生忘れない。



 欠けた月がぽつんと群青の空に浮かんでいる。星の瞬きはほとんど見えなくて。夜風に少し肌寒さを感じる。

「……もう、夏も終わりなんだな」

 裏口の門を開けながら、跡部先輩はそんな言葉を口にした。

「そうですね……」

 また来年があるじゃないですか。という言葉を、今年は言えないのが苦しい。去年は忍足先輩にそう言った。青春学園に負けた決勝の夜に。

「……俺も、勉強始めないとな」

 先輩は軽く微笑んで私の頭をくしゃりと撫でた。どこか寂しげならしくない笑顔に、また胸がチクリと痛む。

 秋が来て、冬になって、受験が終わってまた春が来たら。卒業しちゃうんだ。先輩たちは。

「泣くなよ……」

 唇を噛んで俯く私を、先輩はそっと抱き寄せた。外でこういうことをするのは、やめようって言ってたのに。

(あ……)

 私は、自分の身体が震えていないことに気がついた。形容しがたい切なさにも似た想いがこみ上げて、また胸が苦しくなる。こんな気持ちになるんだ。大好きな人に抱きしめられると。

「……俺は、大学も東京だから」

 耳元で、先輩の声が聞こえる。……指切りなんてしないけど、これが私たちを繋ぎとめる、たったひとつの『約束』だった。



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