*みえない星(完結済)*

□第5話 すれちがい
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「ああそうだ、先に言っておくが……。俺はお前の去年の事件のこと、知ってるから」

「えっ……!?」

 跡部先輩に急にそう言われて、心臓が跳ねた。だってその出来事は……。

「忍足にカマかけて聞き出した」

 先輩は淡々と話を続ける。

「お前を助けた日にな。お前の反応がおかしかったから、気になったんだよ。痴漢くらいかと思ってりゃ、まさかそんな目に遭ってたとは思わなかった」

「…………」

 知られていたのがショックで言葉が出ない。私はまた俯いた。

「安心しろ。誰にも言わねぇから」

 先輩の優しい声が聞こえて、不意に視界が歪む。思わず、涙をこぼしてしまいそうになる。

 あの事件のことは、やっぱり誰にも知られたくない。普通の子として頑張って生きようとしてるのに、知られてしまって気を遣われたり、違うものを見るような目で見られるのなんて、絶対に嫌だ。

「……俺の話に戻るぞ。実は昔な」

 跡部先輩は口を開くと、いつもと変わらない様子で続けた。

「俺も学校帰りに、誘拐されたことがあるんだよ」

「誘拐!?」

 衝撃的な単語に、私の心拍数はまた上がる。

「ああ。すげーガキの頃だけどな」

「…………」

「……なんてことない、よくある身代金目的の誘拐だよ。たまたま、そのとき俺は一人で歩いて家に帰ろうとしてたんだけど、知らない男にいきなり車に押し込まれて、そのまま連れていかれたんだ」

 ひとけのない道をひとりで歩いていたのがいけなかったんだろうなと、跡部先輩は淡々と付け足す。そのあっさりとした様子に違和感を覚えたけど、自分と似たシチュエーションに血の気が引いた。

「だが、幸いにも目撃者がいてな。その人が車のナンバー覚えてて、すぐ通報してくれたから」

 自分を落ち着かせるように、先輩は一旦深呼吸をした。

「犯人はすぐに捕まったし、俺もすぐ解放された」

「目撃者の人がいたんですか……?」

 私はおずおずと尋ねる。自分の時はいなかったのに、そんな関係のないことを考えながら。

「ああ。樺地のオヤジさんだよ」

「樺地くんの!?」

「なんでそんな驚くんだよ。偶然通りかかっただけだよ」

 跡部先輩は苦笑した。

「ぐ、偶然なんですか?」

「そうだよ。それで、これまた偶然近くにいた警察官が、運よく信号に引っかかってた誘拐犯の車を見つけて、それで御用」

「…………」

 私は何も言えなかった。

「本当おかしいよな。連中の車に乗せられてたのなんて、正味一時間くらいなんだぜ」

 先輩はくすくすと笑う。まるで、そんなの大したことじゃなかったみたいに。

「……先輩は平気だったんですか、そんなことされて」

 その一時間は凄く長くて怖かったはず。子供のときならなおさら。自分の身に降りかかった事件を思い出しながら、私は跡部先輩に尋ねる。あの時は、数十分が永遠にも感じられた。

「バカか。平気なわけねーだろ」

 先輩の語気が急に強くなった。綺麗な青い瞳が鋭く細められる。

「子供だったからな。すげー怖くて、そのあとちょっとノイローゼみたいになったよ」

「っ……」

 その辛さを想像して、私は涙をこぼす。どんなに苦しかっただろう。

「一人で家の外に出るのも怖かったけど、でも俺は克服したぜ」

 だけど、その後に続けられた先輩の力強い言葉に、私はハッとする。

「悔しいじゃねえか。あんなクソみてぇな出来事に負けるなんて」

 負けるのが悔しい、跡部先輩らしい言葉に胸が締めつけられる。私はどうなんだろう。この一年、私はそうやって一度でも戦おうとしたことがあったかな。

「…………」

 思い出さなくてもわかる。自分はいつも逃げてばかりだった。何かあるたびに、そこにある傷を見ないふりして、彼氏でもない忍足先輩に甘えていた。

 先輩は優しいから何も言わずに受け入れてくれてたけど、本当はどう思ってたんだろう。今になって、自分の弱さと身勝手さに情けなくなる。

「……お前はどうしたいんだ? 結城」

 跡部先輩に見つめられる。

「ずっと今のまま、人に壁つくって、一生恋人もつくらずに生きていきたいのかよ?」

 答えなんて考えなくてもわかる。私だって、あんな出来事なんかに本当は負けたくない。

「……そんなの、嫌です」

「そうだよな」

 跡部先輩は満足そうに微笑んだ。苦しいほど綺麗な青い瞳が、今度は優しげに細められる。

「だから、今日俺が生徒会室で言った話、考えとけよ」

 お前にも乗り越えて欲しい。跡部先輩のその気持ちは、痛いほどに伝わっていた。



 自分の家のベッドの上で、忍足は携帯の画面を眺めていた。画面には跡部の電話番号が表示されている。ボタンひとつ押せばつながる。でも電話したとして、彼に何を言うんだろう。自分は。……いつかの口喧嘩が思い出される。

『お前のは、依存させてるだけだろ』

『いい加減、向き合わせて乗り越えさせるべきなんじゃねえの!?』

 遊びじゃなくて本気だと口にしたときの、彼の目は真剣そのものだった。そして後日、本人から聞かされた子供の頃の誘拐事件……。

「…………」

 きちんと乗り越えさせるべき。自分も、本当はその方がいいことぐらい分かっている。

「でも俺には出来へんよ……」

 暴行された直後の郁の姿を思いだす。胸元には刃物で切りつけられた傷があり、引きちぎられたブラウスには血の染みがあった。

 無垢な白い肌は外気に晒され、土埃で汚れた身体には、抵抗したときにできたと思しき傷がいたるところにあった。

 乱暴されたあとの彼女を、一番始めに見つけたのは自分だった。そのときに意識を取り戻した郁にひどく泣かれて以来、自分はどうしても『トラウマと戦え』とは言えなくなったのだ。

「未遂だったとはいえ、あんなん見せられたら……」

 ピリリリリリリ!

「……っ!」

 突然携帯が鳴り出し、忍足は跳ね起きる。表示を見ると、郁の電話番号があった。少しの逡巡のあと、忍足はその電話に出た。

「……どうしたん、こんな時間に」

『忍足先輩、あの、私ね……』

 なんだか久しぶりに聞いたような気がする郁の声は、なぜかどこか震えていた。



『跡部先輩に告白された』

 彼女の言葉を聞いたとき、一体自分はどんな顔をしていたんだろう。

「……ええんやないの。跡部ならきっとお前のトラウマもなんとかしてくれるやろ」

 動揺に上擦りそうになる声を、忍足は必死にごまかす。自分とずるずる過ごすより、跡部と一緒に過去と戦った方が彼女のためになるんじゃないか。

 忍足はどうしても、そんな考えを捨てきれずにいた。甘やかすばかりで、背中を押してやれない自分といるよりも。

 それに、自分はもう彼女のそばにいてやれないのだ。

「郁、あんな、俺も言おう思うてたんやけど」

 忍足は意を決して切り出した。



『高校卒業したら、大学は関西戻らなあかんくなったんや』

 先輩の言葉を聞いたとき、私は一体どんな顔をしていたんだろう。今は春の終わりで先輩は高三。だから、一緒に過ごせるのはあと半年と数ヶ月。

「え…… ウソ……」

 あまりにもショックで、そんな言葉しか出てこない。

『嘘ついてどないすんねん』

 先輩は、いつも通りの優しい声で言う。

『関西の大学の医学部受けよう思ってんのや。親の希望もあるんやけどな。だから』

 寂しい、って本当は、泣いてしまいたかった。

「……そうなんですね。勉強、がんばってください」

 でも、そんなことはできなかった。心にもやもやとした気持ちが渦巻く。

『ありがとな』

 先輩はそう言った。いつもと全く変わらない様子で。

「……先輩。ずっと、友達でいてくれますか? 関西に戻っても」

 私は一体何を言っているんだろう。彼氏でもない先輩に、何を求めているんだろう。

 口をついて出たすがるような言葉に、心の中の暗雲はより一層深くなる。寄る辺のない気持ちに襲われて、どうしていいのかわからなくなる。

『あたりまえやろ。何言っとんねん』

 だけど先輩の声は、普段と何一つ変わらなかった。



 電話を切り、忍足は携帯を床に投げ捨てた。自分は、いつも通りふるまえていただろうか。郁を跡部に取られたのも堪えたが、一番キツかったのが。

「……さびしい言うてくれへんかったな」

 自分が関西に戻ると聞いても。ずっとそばにいたのに。

「アイツは、俺が側におらんようなっても、平気なんやな……」

 やり切れない悔しさを噛みしめながら、忍足は声を震わせる。



「……っ ……ひっく」

 さっきから涙が止まらない。跡部先輩とのことを応援されたのも寂しかったけど。嫌だよ。関西戻るなんて……。

 初耳だった。大学も東京なんだと勝手に思い込んで疑いもしなかった。ずっと近くにいてくれて、これからもそうなんだって信じ込んでいた。もうお別れっていうことを、平然と伝えられたのが耐えられなかった。

 でも、寂しいなんて言えない。私は忍足先輩の彼女でもなんでもないんだから。



 決めたことと願っていること。――強くなりたい。過去を乗り越えたい。ひとりでも立っていられるように。……私は携帯で跡部先輩の名前を探した。

『……結城?』

「――先輩、私ね…… 跡部先輩の彼女になりたい」

 これでいいんだ。逃げずに立ち向かって、いつか乗り越えて。誰にも甘えずに生きていけるような強い女の子に、私はなるんだ。

 あの日、私を見つけてくれた忍足先輩に、すがって泣いたあのときのことが、なんだかひどく遠くに感じた……。



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