*みえない星(完結済)*
□第3話 暴露
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跡部を置いて駆けだして、郁は無事に自分の家の最寄り駅まで帰っていた。その駅のトイレで、郁は忍足に電話をかけていた。
『……なんや郁、どうしたん?』
数コールで聞こえた優しい声にほっとして、郁は堰を切ったように涙をこぼす。喉を詰まらせながら、郁は忍足に学校帰りの出来事をかいつまんで話した。
立ち寄ったコンビニで目をつけられ、車で追われてナンパをされたこと。断ったら、後部座席のドアが開いて、見知らぬ男に引き込まれそうになったこと。そして、跡部に助けてもらったこと。
あの事件以来、郁は車と男に腕を掴まれるのが大の苦手だった。激しいフラッシュバックに襲われるのだ。出来事の記憶は、ふとしたきっかけで鮮やかさを増して蘇り、ずっと彼女を苦しめていた。
まるであのときに瞬間的にタイムスリップしたかのような、そんな感覚に襲われるのだ。最中に、見えた景色全てと空気の匂い。そよいでいた風の感触も、身体の痛みも、激しい恐怖も、全てがふとしたきっかけでまざまざと蘇って。
その瞬間、心臓が握りつぶされたように苦しくなって、そのとき以上の恐怖感に襲われて、郁は平静でいられなくなってしまうのだ。事件から一年経った今でも、彼女はこのフラッシュバックに苦しめられていた。
忍足との電話を切り、郁は震えながら自分を抱きしめる。
「……なんでなの?」
最中より、フラッシュバックの方が苦しいよ。こんなことが一生続くの? 車のエンジン音を聞くたびに、こんな発作みたいなのを起こして。そこまで考えて。唐突に彼女の視界が暗転した。
(……だったら死にたい。こんなに、苦しい思いをし続けるくらいなら)
生まれて初めて、彼女はそんなことを願ってしまう。一年前、車に追われている最中は、あれだけ『死にたくない』と思ったのに。
そのとき。携帯が震え、郁は現実に引き戻される。小さな画面に視線を落とすと、『忍足先輩』の文字があった。
『――大丈夫か? 駅まで迎えに来たで』
温かいメール文に涙がまたあふれ出す。郁は携帯をぎゅっと抱きしめた。
***
メールを見た郁は、駅のトイレから駆けだして忍足の姿を探した。遅めの時間で帰宅ラッシュも終わっている。あまり人のいない駅の構内を、郁はきょろきょろと見回す。
「……っ!」
ずっと求めていた姿を改札の向こうに見つけて、郁は思わず息を詰める。弾かれたように駆けだした。急いで改札を抜けて彼の前にたどり着く。
「先輩……」
「走ったら危ないで」
既に泣きそうになっている郁を優しく諭して、忍足は微笑んだ。
「……ほな、帰ろか」
二人並んで、ひとけのない住宅街の夜道を歩く。家々の明かりと街灯の光が、優しく二人を照らし出す。けれど、春の終わりだというのに夜風はまだ冷たく、忍足はかじかむ手を握りしめた。
「……もう平気なん?」
未だにどこか落ち着かない様子の郁に、忍足は尋ねる。
「…………」
何も言わずに、けれどしっかりと、郁は頷いた。
「跡部先輩が、声かけてくれたから……」
かすかな声にはまだ震えが残っていた。忍足の胸はちくりと痛む。
「……そか、なら――」
よかったわ。と続けかけて、忍足は思いとどまった。あの出来事の直後『未遂ならよかった』と言って、郁を激怒させたことを思い出したからだ。
「――……不幸中の幸いやったな」
必死に頭を回して、忍足は適当な言葉をひねり出す。郁には気づかれていないだろうか。
「……先輩」
俯いたままそう言って、郁は唐突に忍足の服の袖をきゅっと掴んだ。すがるように甘えられて、忍足は口を開く。
「……ええよ。手、つなぐ?」
郁は何も言わずに、忍足の手をぎゅっと握った。けれど、心の中で彼女は自分自身を責める。
(……ダメだよ。いつまでもこんなふうに)
甘えてばかりじゃいけない。強くならなきゃ。ひとりでも、ちゃんとやっていけるように。
お互い目もあわせずに、何も言わずに家路を辿る。言葉なんて邪魔なだけだ。今はまだ。……けれど。
(どんなふうに、伝えたらええんやろ……)
忍足は郁の隣を歩きながら、先ほどの跡部とのやりとりを思い返していた。
「帰ったで〜」
怠そうにそう口にしながら、忍足は自宅の玄関ドアのカギを開けて中に入る。だけど、もちろん返事は返ってこない。
「……って、ひとり暮らしやろ俺」
靴を脱ぎながら、忍足は自分にツッコミを入れる。部屋に入って、カバンをソファーに投げ置く。制服の上着を脱ぎ捨てて、メガネもネクタイも投げ捨てるように外して、ベッドに倒れ込んだ。
「……今日は、何や疲れたわ」
ここは、忍足が一人で暮らすマンションだった。ちょうど中学になった頃に、関西から東京に越してきて以来、忍足はこのマンションに住んでいた。当初は家族と暮らしていたが、忍足が氷帝の中等部を卒業したあと、両親と姉は関西に戻っていったのだった。
一人用のベッドで、忍足は寝返りを打つ。天井をぼんやりと見つめながら、ぽつりとつぶやいた。
「でもどないしよっかな、大学は……」
自分はもう高三。将来の進路もそろそろ本気で考えないといけない。例えば、家族のいる関西に戻るのか、それとも東京に残るのか。そんなことを考えるたびに、忍足がいつも思い出すのは、氷帝テニス部の面々とあとひとり……。
「アイツは…… どないするんやろ」
これからも自分のそばにいてくれるのだろうか。それとも、克服して男を作ってどこかに行ってしまうのだろうか。それとも、進学で東京を離れてしまうんだろうか。
ここに来てようやく、忍足は、自分に残されている時間があまりないことに気がついた。……以前からずっと、両親には関西の大学の医学部を受けるように言われていた。
もし本当に関西に戻るのなら、少なくとも卒業までには、郁に自分の気持ちを伝えておきたい。それがたとえ、彼女を苦しめることになったとしても。
「……もう、幼馴染みじゃ嫌やねん」
本当は、どうしようもないくらい苦しい。こんなに近くにいるのに、こんなに好きなのに。その身体に触れることも、好きだと告げることすらも出来ない。
今、告白なんてしたって、未だに事件の後遺症で苦しむ郁は、自分の気持ちを受け入れることなんてできないだろう。それどころか、そういう対象として見られていたことに傷つくかもしれない。
(……告白なんてアカン。今はとにかくアイツを支えてやらな)
だって、あの事件のことを知っているのも、その上で彼女を守ってあげられるのも。
「……俺だけなんやから」
自分を戒めるようにそう言って、忍足は瞳を閉じた。
それからしばらく経ったあと。携帯の着信音で忍足は起こされた。
「……何やねん。一体」
見るとそれは跡部からの電話で、忍足は仕方なく通話ボタンを押した。
『――……忍足? 俺なんだけど、今いいか?』
耳慣れた低い声。けれど背後から、ザワザワという街の声がする。
(アイツ外からかけてきよるんか……?)
珍しい。寝ぼけ眼でぼんやりと、忍足はそんなことを思うが。
『結城のことで、聞きてぇことがあるんだけど』
大切な彼女の名前を出されて、ハッと目がさめた。
「……え? どないしたん」
努めて平静を装い、慎重に言葉を選びながら跡部に返す。心臓の鼓動が早くなる。まさか跡部が、郁に興味を持つなんて。
『さっきさぁ……』
そんな忍足の心の内を知ってか知らずか、跡部はことの次第を話し始めた。大した感慨もなさそうに。
「……そうなんや」
跡部の話を聞き終わり、忍足はそう相槌を打った。
『そうなんだよ。お前、なんか知らねえの?』
跡部は無遠慮に尋ねてくる。
「何も知らへんで。考えすぎなんちゃう? アイツも、タチの悪いナンパに驚いただけやろ」
ベッドサイドに腰掛けて、忍足は跡部にシラを切る。勘づかれては困るのだ。
(……アイツの秘密は、絶対に俺が守ったらなあかんねん)
事件直後の彼女の姿を、忍足は思い出す。いつも、苦しそうにしていた。あれから一年経った今でも、郁はまだ泣いてばかりで……。
『……ちょっと驚いただけ、ねぇ』
忍足の言葉を聞いて、跡部は意味ありげに言葉を切った。そして急に、声のトーンをひどく真剣なものに変えると、続けた。
『……でもアイツ、あのあと泣きながら言ってたぜ。昔、男に』
「ッ! 郁はお前に話したんか!?」
思わず、忍足は電話口で声を荒らげていた。彼女が自分以外に、あの出来事を話すなんて。信じがたい展開に、忍足の視界がぐらりと揺れる。
『……ああ』
静かな声で、跡部はそうとだけ続けた。彼のその言葉を聞いて、忍足は観念して口を開いた。
「……そうや。あいつ去年、通り魔に乱暴されかかったことがあんねん。だから」
『へ――え。やっぱりそういうことがあったワケね』
「ッ!」
忍足は硬直する。
「……カマかけやったんか? 跡部」
『あーん? 引っかかるヤツが悪いんだろうがよ』
怒りに震える忍足の問いかけに、平然と跡部は答える。
「……お前何が狙いなん。こないなこと俺から聞き出しよったって、お前には何のメリットもあらへんやろ」
空いている片手を、忍足は固く握りしめる。
『メリットにはなるぜ。ちょっと興味がわいたんだよ』
「……興味やて?」
『ああ。お前や滝や青学のアイツを惚れさせるあの女は、一体どんなヤツなんだろうってな』
電話の向こうで、跡部は喉を鳴らして笑った。
『全部教えろよ忍足。お前が言わねぇなら、本人に吐かせるまでだ』
(……結局、話してしもた)
郁の隣を歩きながら、忍足は後悔と自己嫌悪にかられる。
(でも、他にどないしたら良かったんねん……)
本人に確かめる、そう言ったときの跡部の語調は真剣そのものでで、冗談とも思えなかった。未だに不安定な郁に、あの跡部の相手をさせるのはあまりにも気の毒で。いくら何でも、それだけはやめさせたかった。
(最悪や……)
忍足はため息をつく。
「……先輩?」
それを耳にしたのか、郁は心配そうに忍足を見上げてくる。
「……ゴメンな、郁。何でもないねん」
彼女を不安にさせないように、忍足は無理に笑顔を作る。そして、いつの間にか移りかわっていた辺りの景色を確かめて、彼女を促した。
「ほら、家ついたで」
考え事をしているうちに、二人は郁の家の前までたどり着いていた。
「――あっ、ホントだ」
郁は忍足の手をぱっと離して、家の敷地に駆け込む。振り返って目元を拭い、はにかんだような笑みを浮かべた。
「迎えに来てくれて、ありがとうございました。先輩」
その笑顔に、忍足の胸はしめつけられる。本当はまだお別れなんてしたくないし、自分は、本当は彼女に告げなければならないのだ。跡部にあの事件について話してしまったということを。
「……郁、あんな」
「なんですか?」
「……っ」
澄んだ瞳で見上げられ、忍足は言葉を詰まらせる。
(やっぱり言えへんよ…… 俺には……)
その夜、跡部はテニス部の下級生にメールを打った。
『結城の携帯の連絡先を教えろ』
返事はすぐに返ってきた。その内容を確認して、跡部は満足げな笑みを浮かべた。
***