*みえない星(完結済)*

□第2話 ほころび
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 話は数十分前にさかのぼる。

「おーしーたーりー……」

 恨めしそうに忍足に絡むのは。

「……何やねん。滝。えらくヘコんどるみたいやけど」

「ああ! 落ち込んでいるさ! なんせ……」

 なぜか髪をかきあげながら、滝は格好をつける。

「――あの二年の女に玉砕したんだとよ」

 ため息混じりの低い声が響く。その声の主は、氷帝学園テニス部部長、跡部景吾。部員二百名をまとめあげる唯一絶対のカリスマだ。

「……ッ! 跡部!」

 滝は彼を睨みつける。男子テニス部の部室。そこに忍足と滝と跡部はいた。

既に部活は終わって、皆は制服に着替えているところだった。

「……ったく、お前はだらしねーな。そんなだから日吉にも負けそうになるんだぜ」

 だから練習に集中しろ。跡部はそう言いたげに滝を睨み返す。

「……まあまあ。でもええやん。結局勝てたんやし」

 忍足は滝をフォローする。二人の喧嘩に巻きこまれるのはゴメンだ。

「ギリギリだったけどな」

 跡部の台詞を、滝は聞こえなかったフリをしてごまかす。そして、唐突に天井を見上げた。

「あーでもくやし――! 結構好きだったのにな。上手く行かないもんだね!」

 叫ぶように、滝はそんな言葉を口にする。けれどその台詞は、忍足にとっては聞き捨てならないもので。

「……なんやねん。『結構』て」

 無意識のうちに、忍足はぽつりとつぶやく。その中に潜む微かな怒り。それを跡部は見逃さなかった。

(へえ……)

 心の中で思って、口角を上げる。そういえば、こいつあの女と仲良かったけど、まさかそういうことだったとはね。

「……そういやあ忍足、お前結城と仲良かったよなぁ」

 にやりと笑い、跡部は忍足に意味ありげな視線を送る。

「家も近所らしいし?」

「ッ! 忍足! お前まさか実は郁ちゃんと」

 それを聞いた滝は、急に忍足に掴みかかった。

「ちょっ! 何すんねん! 離しや」

 まさかいきなりそんなことをされるとは思っていなかった忍足は、滝の両肩を押し返し、困ったような様子で跡部に視線を送る。

「跡部! おかしなこと言うなや。結城とはただの幼なじみや」

 けれど跡部は忍足には取り合わず、なぜか無意味に勝ち誇った。

「まあ俺様としては、部活にさえマジメに取り組んでくれれば、部員のプライベートは関知しねえぜ? なあ樺地」

 しかし。

「「樺地ならおらへんで」」

 跡部の言葉に、忍足と滝の冷静な突っ込みが入る。そういえばそうだった。我ながら珍しいうっかりに、跡部はつい舌打ちをする。

「……んなことは分かってるんだよ! つかお前ら早く出て行け! もう施錠するぞ」

 跡部は八つ当たりをするように話題を変えると、強引に二人を部室から追い出した。





 日は、すっかり落ちきっていた。あたりはもう真っ暗で、所々にある街灯だけが、彼の足下を照らしている。

「……ったく、長引いちまったぜ」

そんなことをつぶやきながら、跡部はひとりで学校の正門を出る。部室を出た後、跡部は部活の顧問の榊に捕まり、今まで臨時のミーティングに参加させられていたのだ。おかげですっかり遅くなって、下校する彼を迎えに来た車もすでに帰ってしまっていた。

(でもたまにはいいか。こうやって歩いて帰るのも)

 自宅までは歩いて帰れる距離だった。春の夜風の心地よさに、跡部はふと笑みをこぼす。

 不意に、誰かに呼ばれたような気がして。跡部は漆黒の空を見上げた。都心だからだろうか、星は見えない。街の明かりが星の光を隠しているのだ。ただ黒々としているばかりの夜空をしばらく眺めて、跡部は前方に視線を戻した。すると、そこには。

「……結城?」

 コンビニのレジ袋と鞄を手に持ち、制服姿でひとり歩く郁がいた。跡部は、夕方の部室でのやりとりを回想する。つい先日滝が玉砕したばかりの、おそらくは忍足の想い人。ずば抜けて美人というわけではないけど、男心をくすぐる清楚な容姿で、男子の噂になることも多かった。

 自分は彼女とは一度も話したことはなかったけれど、同じクラスの男が彼女に声をかけているところは見たことがある。

「……なんでこんな時間に」

 思わず跡部は腕時計を見る。もうかなり遅い時刻だ。そのとき、一台の黒いワンボックスカーが跡部の後方からやってきた。その車は妙に乱暴な運転で跡部を追い越して行き、減速せずに郁の方に向かう。

「……っ!」

 接触する!? 一瞬跡部はヒヤリとするが、車は郁のすぐ横で止まった。ここからではよく見えないが、郁は運転手と何か話しているようだった。

(なんだ、知り合いかよ……)

 跡部は安堵のため息をつく。しかし、急に後部座席のドアが開き、男の腕が伸びてきて郁の腕を掴んだ。

「……!?」

 予期しない出来事に跡部は息を呑む。それは一瞬のことだった。けれど。

「――おい、結城っ!!」

 ただならぬ気配を感じ取った跡部は、無意識のうちに声を張って、郁の元に駆け出していた。

「……えっ!?」

 大声で名前を呼ばれて、彼女は振り向く。跡部の声が聞こえたのか、男の腕はすぐに引っ込められて、妙に慌てた様子でその車は走り去った。

「あ…… 跡部先輩……」

 掠れた声で、郁はつぶやくように言う。

「……今の、知り合いなのか?」

「………………」

 跡部の問いかけに、彼女は無言で俯いた。けれど、どこか様子がおかしい。まるで何かにひどく怯えているかのようで、身体を小刻みに震わせている。

「おい、聞いてんのかよ」

 跡部はそう言って彼女に手を伸ばそうとしたが。

「やっ…… やだッ!!」

 唐突に悲鳴のような叫びを上げられ、伸ばした手を払いのけられて、跡部は動揺する。この反応はおかしい。男に免疫がないのか。でもそれにしたって……。

「……お前、さっきの車のヤツに何か――」

 そんなはずはない。思いながらも跡部は手を引っ込め、彼女に尋ねる。

「……ッ!」

 弾かれたように顔を上げ、郁は跡部を見つめた。その瞳には大粒の涙。

「……ごめんなさい!」

 叫ぶようにそう言うと、彼女は踵を返し走り出した。跡部はひとり取り残される。ここは都心の街路。あたりの人々に訝しげな視線を送られる。

「……チッ!」

 いたたまれなくなった跡部は舌打ち一つして、郁と同じ方向に駆けだした。



 適当に走ったところで、跡部は立ち止まった。改めて歩き始める。郁を見つけたわけではなかったけれど、野次馬の視線からは逃れられた。歩きながら考える。先ほどの車と、伸びてきた腕のこと。

 知り合いじゃなければ、あれはナンパ? それにしてはタチが悪い。そして彼女のあの、怯えたような悲鳴と涙。男慣れしていないのだろうか。

 けれど、学校では普通だったし、それどころか、自分に言い寄る上級生の男を彼女はそつなくいなしていた。ずいぶんとモテ慣れしている様子で。

 しばらく考えこんだあと、跡部は携帯を取り出した。メモリーを探し電話をかける。

「――……忍足? 俺なんだけど、今いいか?」

 本人に聞くより、こっちを問い詰めた方が早そうだった。



***

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