*Shoet DreamU(更新中)*
□【謙也】たまにはのんびり
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淡い雪の舞う、とある冬の日のこと。謙也はカーペットの上に腰を下ろして、熱心に何かを読んでいるらしい彼女に声を掛けた。
「……郁? 何見とるん?」
「あ、謙也くん」
声を掛けられた郁は顔を上げ、先ほどまでローテーブルの上に広げていたそれを手に取ると。彼に見せながら柔らかく微笑んだ。
「旅行雑誌だよ」
郁の可愛らしい笑顔に、謙也の口元はわずかに緩む。彼女が読んでいたのは、コンビニでも売られている情報誌だった。
お馴染みのカラフルな表紙には、温泉特集と大きく書かれている。寒いこの時期にぴったりだ。
「ねぇねぇ謙也くん、今度の休みに一緒に岩盤浴行こうよ!」
雑誌の記事を指さしながら、郁は謙也にせがんでくる。しかし、岩盤浴と言われても。女子の流行に疎い謙也にはそれが何だか分からない。
「……岩盤浴?」
ついオウム返しで聞き返してしまう。しかし、郁は行きたい理由を尋ねられたと思ったのか、熱心に違うことを喋り始めた。
「そうだよ。最近寒いし。岩盤浴なら、お風呂と違ってずっと一緒にいれるでしょ? だからね……」
よほど謙也と一緒に行きたいのか、妙に一生懸命な郁に謙也は戸惑うが、可愛い彼女の頼みなら何でも叶えてやりたくなるのが、恋人にベタ惚れの男の性だ。
「ん、郁が行きたいんならええで」
それが何かも分からないまま、謙也は郁に返事をする。そして、そのまま郁のすぐ隣に腰を下ろした。
今の謙也にとっては岩盤浴が何なのかよりも、郁にくっつくことが重要だった。ここは自分の下宿先のマンション。可愛い恋人といちゃいちゃするのに遠慮などいらない。
謙也はふわふわとしたパーカーを着た郁の腰に腕を回すと、彼女の首筋に顔を埋めた。普段と違う柔軟剤の香りが淡く漂う。
まるで石鹸のようなその香りをもっと感じたくなった謙也は、無意識に呼吸を深くする。
郁のふかふかの部屋着は毛布のような柔らかさで、何かあるたびについ触れて抱きしめたくなってしまう。
(……ああ、ほんまに財前が言うとった通りやわ)
優しい柔軟剤の香りとふわふわの触感を楽しみながら、謙也は後輩の台詞を思い出す。
『――あの部屋着ほんま男に抱かれるためのヤツっすよね』
本当にその通りだ。
(……まあ別にこれやないやつ着とってもくっつくんやけどな)
郁に抱きつきながら、謙也はそんな不埒なことを考える。彼女の話など聞いていない。完全に上の空。
けれど、郁は謙也がデートを了承してくれたのがよほど嬉しかったのか、彼が自分の話を聞き流していることに気がつかない。
「本当? 嬉しい、ありがとう!」
無邪気な笑顔で謙也にお礼を言った。……屈託のない素直さは郁の魅力のひとつだ。謙也は内心で嬉しく思う。自分とのデートにここまで喜んでもらえるなんて、彼氏冥利だ。
謙也が心の内でデレデレとしていると、郁が不安そうに尋ねてきた。
「……でも、謙也くんこういうの退屈じゃないかな、いいの?」
心細そうに眉を寄せて謙也を見上げる郁もまた、庇護欲をそそる愛くるしさで。ほだされてしまった謙也は、つい安請け合いをしてしまう。
「別に、お前と一緒ならどこでもええで」
大好きな彼氏からの優しい言葉に、郁は頬を染めて喜ぶ。
「うれしい! ありがとね」
子供のようにはしゃぐ彼女のソプラノを聞き流しながら、謙也は郁の首筋に再び顔を埋めた。彼女に気づかれないように呼吸を深くして、謙也は郁の部屋着の柔軟剤の香りを味わった。
セクハラじみた振る舞いなのに、石鹸にも似た香りにどうしても惹きつけられてしまって、やめることができない。
「……っていうか、謙也くん、岩盤浴って何するところか知ってる? 行ったことある?」
郁から改めて何かを確認するかのように尋ねられても。彼女の普段と違う香りに夢中な謙也は、先ほど浮かんだ疑問をつい口にしてしまう。
「ん…… あ、郁シャンプー変えたん?」
「も、全然聞いてない!」
質問とは全く違うことを返されて、郁は怒ったふりをするが。それがふりでしかないことは、もちろん謙也もわかっている。
離したくないとでも言わんばかりに、謙也は郁を抱きしめる腕にさらに力を込めた。その行為はどんな愛の言葉よりも雄弁だった。
まるで甘えん坊の子供のような謙也にほだされて、郁の口元は緩んでしまう。あまりにも可愛い彼氏だから、怒るに怒れないのだ。
「ほんとにもう……! しょうがないんだから……」
もし謙也が郁の飼い犬だったら、完全にしつけに失敗している。郁の甘やかしぶりはそれほどだった。
「……それを何でいちいち俺に報告するんですかね。謙也さんは」
「ええやろ別に。今もこうやって焼肉奢ってやっとるんやから」
美味しそうな香り漂う賑やかな店内。謙也は後輩と二人で焼肉に来ていた。恒例の恋愛相談。今回はコーチへの焼肉の奢りが条件だった。
センスのいい和風モダンな内装のここは、安くて美味しいと近所でも評判のお店だ。テーブル中央の金網から焼き上がった肉を取りながら、謙也は財前に尋ねる。
「つか、岩盤浴って何するとこなん?」
「そこからなんすか」
これはあまりにもひどい。謙也の発言に箸から肉を落としそうになりながら、財前はぽつりと呟く。
「そんなん、それこそ俺やなくて郁さんにその場で聞いとけば……」
「あ〜〜 あのあとな、普通になだれ込んでもうて聞きそびれ」
「――謙也さん、特上カルビ追加してもらってええですか」
照れながら聞いてもいないことを口にする先輩に腹を立て、財前は反射的に食べたくもないメニューをオーダーする。もちろんお店で一番高いもの。
「……ええけど、ちゃんと残さず食ってな」
牛さん可哀想やからな。そうぼやきながらも、謙也は手元の液晶パネルでカルビをオーダーする。
「……」
いいように自分に使われている先輩を眺めながら、しかし財前は口元を緩めた。
相変わらずしつけのなっていない犬のような人だけど。やっぱり憎めない大事な先輩だ。何だかんだ言いつつも、財前はつい世話を焼いてしまう。
本人は気づいていないようだけど。放っておけない可愛げと人の良さは、謙也の一番の魅力だ。悔しいから言わないけど、こうやって恋愛相談される時間も、財前はいつも楽しみにしていた。
「……つか、謙也さんにはあんま向いてないんちゃいます?」
小さく息を吐いてから、財前は気を取り直して岩盤浴の説明を始める。衣服を着て入るサウナのようなもので、何をするかといえば、暖かな部屋で寝転がっているだけだ。
自分が行ったときは、何もせずのんびりしている人以外は、本を持ち込んで読んでいる人や、スマホをいじっている人が多かった。
暖かくて気持ちよかったから自分は楽しめたけど、せっかちな謙也はすぐ飽きて退屈しそうだ。
「……ほんまか、そんなんやったんか」
案の定。財前の話を聞いた謙也はあからさまに不安げな顔をする。苦手なものは待ち時間。浪速のスピードスターに、のんびりまったりなんて似合わない。
しかし。ふとあることを思い出した財前は、口元を緩めて楽しげに笑う。改めて口を開いた。
「あ、でも、あそこならええんちゃいますか。こないだオープンした個室の……」
もう何度目だろうか。財前は謙也に入れ知恵をする。別に大して経験豊富なわけじゃないのに、なんの因果か先生役。コーチングはすっかり板についてしまった。
美味しい焼肉に舌鼓を打ちながら、謙也と財前の会議は続く。
***
そしてデート当日。謙也と郁が来ていたのは、先日オープンしたばかりの個室の岩盤浴だった。
大規模なホテル併設のスパだから、内装も洗練されていてとても綺麗だ。濃茶色の板張りの壁に、磨き上げられた大理石の床、そして部屋の隅に飾られた南国風の観葉植物。
オレンジの間接照明に照らされた室内は、まるで海外リゾートのような非日常感だ。
二人はフロントで渡された専用のウェアに着替えて、さっそく個室で横になっていた。温かな石造りの床に大判のタオルを敷いて並んで寝そべる。
狭い室内はとても蒸し暑く、今が真冬だということも忘れそうだ。それでも岩盤浴は本当のサウナと比べてだいぶ過ごしやすく、謙也と郁は寒さで凍えた身体をのんびりと温めていた。
しかし、可愛い恋人の隣でただ寝転がっているだけというのは、堪え性のない謙也にはやはり難しく。入室してまだ三十分も経っていないのに、謙也は早くも岩盤浴に飽きてしまっていた。
暇つぶし用に後輩に借りた音楽雑誌はものの数分で読了し、イトコに借りた分厚い恋愛小説は数ページで挫折してしまった。
ちなみに同じ大学の他学部の友人に借りた毒草本は、ここまで持ってくる気すらおきずに自宅に置いてきてしまったのだが、それは別のお話だ。
手持ち無沙汰になってしまった謙也は意味もなく、隣で文庫本を読んでいる郁をじっと見つめていた。
ハーフパンツにTシャツという専用ウェアを着て、髪の毛を邪魔にならないように結んで本を読んでいる横顔は、見れば見るほど可愛らしい。
薄赤く火照った汗のにじんだ素肌は、なぜかとても艶めいて見えて、謙也の胸の内に妙な情動を呼び起こす。
頬にかかる横髪やうなじの後れ毛も、なんともいえない色っぽさで、可愛い彼女の予想以上の可愛さに、謙也はすっかり骨抜きにされていた。視線も心も釘付けになって離せない。
(……ああ、やっぱかわええな。かわええってホンマに正義や)
瞬きのたびに上下する長い睫毛、すっと通った鼻筋に、ぷっくりとした頬に唇。柔らかな間接照明のせいか、その全てが美しく見える。
本のページをめくる爪先もきちんと整えられていて、薄明かりの室内でもわかるほどにツヤツヤとしている。
自分は女の子のおしゃれになんて詳しくないから、よく分からないけど。それでもあのマニキュアは、郁によく似合っていた。
(……明るいとこで見たらめっちゃキラキラしとったわ。やっぱ女の子はああいうんが好きなんかな)
星くずのようなラメ入りのネイルカラー。けれど、それがラメだということすら謙也には分からないから。ただぼんやりとすごいなあと思うばかりだ。
しかし、彼女の横顔をこんなに凝視する機会もなかなかない。手元には先ほどまで読んでいた雑誌や本の他にスマホもあったけど、それを再び手にする気も起きなかった。
それほどまでに、心を彼女に持っていかれているというのに。