*Shoet DreamU(更新中)*
□【跡部先生パロ】恋人ごっこ
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勢い余ってマンションを飛び出してしまった彩夏は、普段使っているエレベーターではなく、裏手にある非常階段に向かった。
跡部に追ってこられないように、というわけではなく、泣き顔をご近所さんに見られたくなかったからだ。
けれど、結果として彩夏は跡部を撒くことに成功した。非常階段を使って一階に降りた彩夏はそのまま、マンションの裏口から駆け出した。
彼女を追いかけてきた跡部はエレベーターを使って下に降りて、マンションの正面玄関から外に出たが、当然そこに彩夏の姿はない。
このマンションの住人ではなく、しかも焦っていた跡部は、非常階段と裏口の可能性を完全に見落としていた。彩夏がこのあたりにいるはずだと推定し、慌てた様子で、マンションの正面玄関付近をばかりを探す。
いつのまにか空は茜色になっていた。人の顔の見分けにくい黄昏時。けれど、高層マンションが林立する都心の住宅街に、人の姿は殆どなかった。
青々とした若葉を茂らせている桜並木の下を跡部は駆ける。まだ、桜が咲いていた頃。この並木道を彩夏と二人で歩いた。
『――綺麗だね、先生!』
『――綺麗ですね、だろうが』
年上の自分にタメ口で笑いかけてくる彼女を小突いて、並んで駅に向かったのだ。心の一番柔らかな部分を侵食する数週間前の思い出を、桜よりも綺麗だった満開の笑顔を、跡部はかぶりを振って追い払う。
感傷に浸っている暇はない。今はまだ夕方だけど、この分ではすぐにあたりは暗くなる。夜の帳が降りてしまう前に、大切な教え子を見つけなければ。
けれど。彩夏の姿どころか通行人の一人も見つけられず、跡部は舌打ちをした。
「……チッ、ついてねぇ」
誰かいれば彩夏を――氷帝の基準服姿の女の子を見なかったかと訊けるのに。
しかし、ちょうどそこに一人の男子学生がやってきた。テニスバッグを肩にかけたその少年は、偶然にも氷帝の高等部の基準服を着ていた。
なんという幸運だろう。心の中で感謝しながら、跡部は彼に声を掛ける。
「――おい、そこのテニスバッグの氷帝生!」
「……ッ」
急に呼びかけられて、少年は一瞬だけ目を見開いた。跡部の方に訝しげな視線を投げかける。跡部は彼に駆け寄ると。
「お前、彩夏…… じゃねえ、氷帝の高等部の制服着た女見なかったか」
「……ッ!」
跡部に尋ねられたその瞬間、少年は僅かに息をのんだ。しかし、彼はきゅっと唇を引き結ぶと、挑みかかるような目で跡部を見上げた。
「……いえ、見てませんけど」
「そうか、悪ィな。 ……くそっ、アイツどこ行きやがった」
跡部はそのまま、その少年が今来た道――つまり最寄り駅へと続く道を駆けていく。少年は跡部を振り返ると、つぶやいた。
「アイツが辻本の家庭教師……」
テニスバッグにぶら下がった『日吉若』と書かれた名札が、振り返ったはずみにゆらゆらと揺れる。跡部の背中を見つめながら、彼は拳を固めた。
本当は彩夏に謝るために、今日はここまでやってきていた。けれど、悔しさにも似た不愉快な感情が込み上げて、日吉は唇を噛んだ。
そのまま彼は踵を返す。彩夏の自宅マンションを背に歩きだす。
駅の裏手にある小さな公園。既に日は落ちて、漆黒の夜空に小さな星々が瞬いている。あたりも暗く、ぽつぽつと立っている街灯の柔らかな明かりだけが、唯一の光源だった。
その公園のベンチに、彩夏はひとり腰かけていた。家を飛び出して数時間。スマホの電源を切って、ずっとここで泣いていた。
「――ねぇキミさぁ、さっきからずっとここいるよね? どうしたの?」
急に声を掛けられて、彩夏は顔を上げる。眼前に立っていたのは、大学生くらいの派手な男の子だった。もちろん彩夏の知らない人だ。馴れ馴れしい口調からいって、おそらくはナンパ。
ただでさえ憂鬱な気分なのに、こんな人の相手なんてしたくなかった。彩夏はごしごしと目をこすり、無言でベンチから立ち上がる。場所を変えようと歩き出した。
「……ちょっと待ってよ」
しかし、その男の子は彩夏の腕を掴んできた。
「どうせ暇なんでしょ? 俺と二人で遊ぼうよ。カラオケでも何でも、奢るからさ」
「……離してください」
「固いこと言わないでよ。ねぇ、いいでしょ?」
ひと気のない、夜の暗い公園。今なら多少の狼藉も許されると思ったのか、男の子は彩夏の腕を掴む手にさらに力を入れてきた。
「ッ! 離してって言って……!」
一瞬だけ痛そうに顔をしかめるが、彩夏は強い口調で言い返し、男の子を睨みつけた。しかしそのとき。
「――お生憎だな。ソイツは俺様のツレなんだよ」
覚えのある低い声に彩夏はハッとする。声のした方を見つめた。街灯の優しいオレンジの明かりの中、立っていたのは大好きな跡部だった。
「とっとと失せな。カス野郎が」
彩夏の腕を掴んでいた男の子に向かって、そんな言葉をぶつけて。跡部はこちらに向かって歩いてくる。見たこともない不機嫌オーラ。厄介ごとは避けたかったのか、小さく舌打ちをして、男の子は退散した。
彩夏は呆然とした様子で跡部を見上げる。
(……なんでいるの。もうバイトの時間は終わってるはずでしょ?)
自分が家を飛び出してから、もう数時間は経っていた。毎週の跡部の授業時間は九〇分。もちろん大幅に超過している。
(今までずっと、探してくれてたの……?)
心の中に浮かんだ疑問。しかし尋ねる勇気は彩夏にはない。もし尋ねて、いつもみたいにあしらわれたり正論で怒られたりしたら。自分は本当に立ち直れない。
子供のわがまま、幼すぎる恋心。けれど彩夏はそれくらい、跡部のことが好きだった。どんなに冷たくされても、ただの教え子だと突き放されても。ずっと諦めきれなかったのだ。
「……なんでここが」
「しらみつぶしで聞き込み捜査したんだよ。手間かけさせやがって」
ぶっきらぼうにそう言うと、跡部は彩夏の手首を掴んだ。
「帰るぞ。今何時だと思ってるんだ。ご両親に心配かけさすんじゃねぇ!」
親に心配かけるな、それだけを取り出せば、跡部は何もおかしなことは言っていない。けれど、今の彩夏にはその台詞は、俺は心配なんてしてないと聞こえてしまう。
家庭教師の仕事の一環で仕方なく探しにきただけ、というような。
(……心配なんてしてないくせに、何で来たの?)
彩夏の瞳から大粒の涙がこぼれる。
(私のことなんて、面倒な教え子くらいにしか思ってないくせに……!)
跡部の手を乱暴に振り払い、彩夏は叫んだ。いつも自分を子供扱いする、世界で一番大好きで大嫌いな彼に向かって。
「一人で帰れるよ!! 子供扱いしないで!!」
「ッ!」
跡部の顔色が変わる。繋いでいた手を振り解かれて、八つ当たりじみた怒りをぶつけられたのが癇に障ったのか。けれど。
「人がどれだけ心配したと思ってやがる! 子供扱いしてねぇから送るって言ってるんだよ!」
尖った声で怒鳴り返されて、彩夏は目をみはった。
「いいか彩夏。俺はお前の家庭教師で、お前は俺の大事な教え子だ」
改めて彩夏に向き直り、跡部は彼女に淡々と告げる。
「だから俺は、お前とは恋人にはなれねぇ。お前が学年トップになろうと、全教科満点取ろうとだ」
「……ッ」
それは今までの彼女の血のにじむような努力を全て否定し、そして将来の可能性をも打ち砕く言葉。彩夏の瞳から再び涙が溢れる。彼女は俯いた。指先で涙をぬぐいながらしゃくりあげる。
「だが、恋人ごっこくらいなら、付き合ってやらなくもない」
「……え?」
「今、彼女いないしな。それにお前の本気も伝わってきたからな」
努力のご褒美だ。そう続けて、跡部は彩夏の頭を優しくなでる。
「……手ェ繋ぐくらいならいいが、キス以上はダメだぞ。お前はまだ高校生だからな」
恐る恐る顔を上げて、彩夏は跡部に尋ねる。
「……デートは?」
「ネズミの国は疲れるからごめんだが、買い物くらいなら付き合ってやるよ。ただし、お前の親には内緒にしとけよ?」
まるで同世代の男の子のような、いたずらっぽい笑みを向けられて。彩夏は信じられないといった面持ちで、跡部を見返す。跡部はおもむろにズボンのポケットに手をやると。
「ほら、俺様の連絡先だ。とっとと登録しやがれ」
街灯の下、スマホの画面が差し出される。柔らかな白い光。オーナー情報が表示された画面。名前に電話番号、メールアドレスに誕生日、そしてマンションの住所。
彩夏は慌てて自分のスマホに登録する。名前と電話番号とメアドだけ。彩夏が登録し終えたのを確認すると、跡部は携帯をポケットにしまった。
「今週の土曜日の13時。駅前で待ってる。これるか?」
神妙な表情でこくりと頷く彩夏に、跡部は微笑んだ。彼女の手を取って腕の中に引き寄せた。そのままおでこにキスをする。可愛らしい音をたてての、触れるだけのキス。
「……キスはダメじゃなかったの」
「……こんなんキスに入らねぇんだよ。バーカ」
青い瞳を細めて微笑んで、跡部は彩夏にデコピンをする。あまりにも清らかな恋人ごっこ。これが二人の始まりでした。
I love you much more than you think
君が想うより、ずっと。