*Shoet DreamU(更新中)*

□【忍足】ナツヘノトビラ
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 しとしとと雨が降っている。せっかくの休日だというのに憂鬱だ。でも、今はそういう時期だから仕方ない。

「侑ちゃん!」

「……どしたん」

 久しぶりに立ち寄った実家で、忍足は甲高い声に呼び止められる。声の主は微妙に顔を合わせたくなかった人物で、忍足は眉間に皺を寄せる。

「そんな冷たい反応しないでよ。せっかく久しぶりに会えたのに」

 忍足をからかうような笑みを浮かべながら彼の前に現れたのは、彼を女性にしたらこんな感じなのだろうと思わせる、猫目の美人。

 ちゃんづけはやめろと言っているのに、一向に対応しようとはしない、小憎らしい家族だ。……美人の姉はよく羨ましがられるけど、得したことなんて一度もない。

「……お互い顔なんて見飽きとるやろ」

「ねぇいつまでこっちにいるのよ?」

「オトンの医学書借りに来ただけや。すぐ下宿戻るで」

 それに約束あるし。心の中で付け加える。今日も彼女と約束があるのだ。分厚い本をカバンにしまうと、足早に玄関に向かう。

「ふぅん」

 しかし、なぜかその家族――姉は自分のあとをついてくる。思い出したように、楽しげに口を開いた。

「そうだ、謙也くんに聞いたわよ。アンタ解剖実習で吐きそうになってたらしいじゃない」

「……ッ!」

 その瞬間。忍足のポーカーフェイスが崩れる。本人にしてみれば知られたくなかった恥ずかしい事実。情報の出所を逆恨みしながらも、忍足は歯を食いしばる。

「そんなんじゃ郁ちゃんにフられちゃうんじゃな〜い?」

 情けないわねとばかりに、クスクスと笑う姉。実に楽しそうで、しかも愛しの郁のことまで持ち出されて、忍足の苛立ちは頂点に達する。

 けれど弟とは悲しいもので、こんなに腹を立てていても、反論のひとつも許されない。

「……約束あるからもう行くわ」

「郁ちゃんと〜?」

「ちゃうわ!」

 違わないけど違うと言い張って。借りた医学書の入ったトートバッグを引っつかんで、忍足は実家を飛び出すように出て行く。

 外はもう夕暮れ時だった。さっきまで降っていた雨はやんでいて、どことなく空気も澄んでいるように感じる。

 けれど、本格的な夏が始まる前の生暖かい気候は健在で。駐車場に停めていた愛車に乗り込んだ忍足は、冷房をつけた。そのまま、微妙にアクセスの悪い下宿マンションに戻ってゆく。



 待ち合わせ場所はいつもの最寄り駅。今日は近くの小川に二人でホタルを見に行く予定だった。腕時計で時間を確かめながら、忍足はその場所へと急ぐ。

 ポケットに財布と携帯だけを入れて、手ぶらで駆けていく。待ち合わせの時間にはまだなっていないけど、そこにはすでに愛しの彼女が立っていた。

「侑士先輩!」

 自分を見つけたのがよほど嬉しかったのか、すぐに声を掛けてきて、満面の笑みで手を振ってくる。

「郁」

 デートに気合いを入れているのか、今日の彼女はなんと浴衣姿だった。去年自分が買ってあげた、白地に優しげな撫子の柄がしとやかなあの浴衣。

(……かわええ)

 あの憎たらしい女モンスターとは大違いだ。そんなことを思いながら、忍足は彼女の艶姿に胸をときめかせる。

 季節感のある装いはやっぱり素敵だ。アップに纏められた綺麗な髪も、その髪に飾られた淡い色の花かんざしも、清楚な彼女にはお似合いで、記念撮影をお願いしたくなる。

 しかし、そんな心の内はおくびにも出さず。忍足はいつも通りの彼女向けの笑顔を作る。郁の前でだけは見栄っ張り。いつだって格好いい先輩でいたい。

「すまんな。待った?」

「いえ、さっき来たところです」

 自分で口にした、カップルのお約束のやりとりに、また心をおどらせる。

「そか、なら良かったわ」

 ほな行くで。機嫌よく微笑んで、忍足は郁の手を取って歩き出す。



 浴衣の足元は当然下駄だ。彼女のペースに合わせてのんびりと歩いていたら、日が暮れてしまった。けれど、今日のデートの目的を考えればちょうどいいタイミング。

 にぎやかで店舗の明かりもまぶしい大通りから小路に入って、街灯もほとんどない細い道を抜けて、二人はようやく今日の目的地に辿り着く。

 明かりがないからあたりは真っ暗闇だけど、しばらく待てば目も慣れて、おぼろげながらもどこに何があるかくらいは分かる。

 さらさらと清流の流れる小川。昼間に来れば綺麗な川底も見えて、小さなお魚にも出会える、地元でも有名な鑑賞スポット。

「わ、スゴイです……」

 自分でも気がつかないうちに、郁はそうつぶやいていた。ゆるやかに漂っているのは、綾なす優しい光の群れだ。

 たくさんの小さな黄色い光が、ゆったりとした明滅を繰り返しながら、音もなくあたりを舞っている。思い思いに、互いに追いかけあいながら、時には絡みあいながら、恋のお相手を探していた。

 儚く美しい初夏の風物詩。

「キレイやろ?」

 どことなく得意気に、忍足は微笑む。

「はい、キレイです」

 郁もまた、そう言って忍足を見上げて微笑み返す。暗い中でも忍足には分かる可愛い笑顔。忍足は幸せを噛みしめる。気がつくと、昔の思い出を口にしていた。ずっと昔、まだ自分が小さな子供だったころ。

「……ここな、昔ケンヤや姉貴と来たことがあんねん」

 ホタル見にな。自分やイトコの少年時代を思い出しながら、忍足は愛おしげに目を細める。

「そうなんですか?」

「せやで。よう遊んだわ」

 開発が進んで、いつのまにか自分の生まれ故郷はずいぶんと近代的に、それこそ数年の間暮らした、東京の街のように生まれ変わってしまったけれど。

 この場所だけは昔のまま、思い出の中の姿そのままだ。十数年前と同じ、昔ながらの地方都市の風景。

 川べりもアスファルトで固められることなく、草木の生い茂る柔らかな地面には、たくさんの小さな黄色い光がともっている。

「だから、郁とも来れて嬉しい」

 宵闇の中、忍足は郷愁に瞳を潤ませる。幼い頃は何度も引っ越しを繰り返し、ひとつのところに留まることは少なかったけど、それでも故郷は懐かしく、愛おしいのだ。

「先輩……」

 つぶやくようにそう言って。郁も瞳を潤ませる。

「私も、先輩に連れてきてもらえて嬉しいです」

 大好きな忍足の、大切な思い出の場所。連れてきてくれてありがとうございます。そう言って、郁ははにかんだような笑みを浮かべる。

 暗がりの中でよく見えないのが惜しいくらいの、愛くるしい表情だ。蒸し暑く、けれどどこかひんやりとした夏の夜の気配。淡い光が尾を引いて、音もなく舞い踊る。



「あ、そうだ。先輩、帰りコンビニ寄っていいですか?」

「ええけど、何買うん?」

 夜だというのに街明かりのまぶしい大通り。人通りも多く賑やかな、もう既にここはいつもの日常だ。

 ホタル観賞からの帰り道。相変わらず仲のよい二人は、ここでもしっかりと手をつないで、のんびりと歩く。忍足のマンションから一番近い、コンビニまでやってきた。そして、店内に入ったその瞬間。

「おっ郁ちゃんに忍足クン!」

「白石先輩!」

「……」

 毎度毎度のお約束。忍足はもう驚きもしない。けれどやっぱりなんとなく不機嫌になってしまうのは、独占欲の強い男の悲しい性なんだろう。

「郁ちゃん、浴衣かわええな。めっちゃ似合うとるで」

 満面の笑みを浮かべて、白石は郁を褒める。最初はナンパのように感じてイライラしてしまった白石のこの言動にも、もう慣れてしまった。

 自分もそうだから少しだけわかる。女きょうだいに挟まれて育った白石にとっては、この程度は挨拶なのだ。

 郁もまたそれは理解しているようで、そつなく対応している。リップサービスに愛想良くお礼を述べていた。

「今日はどっか行っとったん?」

「ホタル見に行ってたんです」

「そっかあ、ええなぁ」

 世間話をする二人の横で、忍足は雑誌のコーナーに視線をやった。並べられていたのは旅行情報誌。表紙には『この夏にしたい10のこと!』

 今年の夏はどう過ごそうか。情報誌の表紙を眺めながら、忍足はぼんやりと考える。自分の地元・関西の街で、大切な彼女と一体どんな思い出を重ねていこう。



***



 糸のような雨の降る日曜日。昼間だというのに薄曇りの空のせいであたりは薄暗い。向日は小さな公園にいた。

 住宅街の中にぽつんとある、ちょっとした遊具が置かれているだけのその公園は、自分の家の近所ではなく、忍足が東京時代に住んでいたマンションの近くにあった。

 ささいなことで父とケンカして、向日は朝から家を飛び出してきていた。大学生になってもう二年。けれどこういうところは、ちっとも変わっていない。

 頭に血が上ったまま勢いでここまで来てしまったけど、忍足はもう遠い関西でここにはおらず、行くあてのなかった向日はこの場所にきていた。

 コンビニで買ったビニール傘を差して、ベンチの上にしゃがみこんでいる。

 まだ、自分が中学や高校だった頃。向日は忍足と何度もこの公園に来た。忍足の家族が在宅で気ままに振る舞えないときや、室内にこもっているのがうっとおしかったとき。

 二人連れだってここまで出てきて、コンビニで買ってきた好物の唐揚げを食べながら、くだらないおしゃべりをしていた。

 そして、今日のように父とケンカをしたときも。この静かな公園で、忍足に愚痴を聞いてもらっていたのだ。

 しかし、そんな面倒見のよい友人は、いまはもうここにはいない。遠い関西の空の下、彼は今何をしているのだろうか。向日は形容しがたい寂しさに襲われる。

 自分が家出をするたびに、文句を言いながらも泊めてくれた優しい姿を思い出しながら、向日は何をするでもなく時間を潰す。

 朝からずっと降っている糸のような雨はやみそうになく、どこか別の場所に行く気もおきなかった。けれど。

「……何してんですか、向日さん」

「日吉!」

 こんなところで見知った顔に遭遇するとは思っていなかった。向日は驚きのあまりに声を上げた。一時期は部活でダブルスを組んでいたこともあった、小生意気なひとつ下の後輩。

「なんでお前がここにいんだよ!」

「アンタ迎えに来たんですよ」

「え?」

 後輩に意外な言葉を口にされ、向日は目を見開いた。けれど後輩は面白くもなさそうに言葉を続ける。

「アンタの親から電話もらったんですよ。恥ずかしい人ですね」

「……え」

「どうせここかなって思ったんですよ。忍足さんはもういませんし、芥川さんは今日は丸井さんと遊ぶって言ってましたからね」

「……ッ、侑士を死んだみてーに言うんじゃねーよ! クソクソ日吉!」

「早く帰りますよ。俺だって暇じゃないんです」

「お、俺だってヒマなわけじゃねーし!」

 口の悪い後輩と言い合いをしているうちに。

「……あ、雨やみましたね」

「……ホントだ」

 いつの間にか雨はやんでいた。雲の向こうに隠れていた太陽がようやく顔を出しはじめて、日吉と向日はそれぞれ差していた傘を閉じる。

 ずっとベンチの上にしゃがみ込んでいた向日は、その場に立ち上がると、大きく伸びをして地面に飛び降りた。

 久しぶりに見た、初夏らしい輝く太陽。灰色のどんよりとした雲も薄れはじめて、美しく澄んだ青空が見えはじめる。

 先ほどまでの感傷はもう忘れてしまっていた。今はただ身体がうずうずとして、跳んだりはねたりしたくて仕方がない。

 ここ最近はずっと天気が悪くて閉じこもりがちだった反動が、今になってやってきたようだ。

「よしっ、日吉! ――に行こうぜ!」

 気がつくと、数十分程度で行ける都心の遊園地の名前を口にしていた。近くにドームと温泉があるところ。ご近所で、気分で行けて意外と絶叫モノも多いから、地味にお気に入りだった。

「……仕方ないですね。今日だけですよ」

 断ってくるかと思ったのに、意外にノリのいい後輩は口の端を上げた。絶叫マシンに怯える来園者でも見たかったのだろうか。

 二人揃って駅に向かって歩き出す。その途中、今はもう東京にはいない、彼女の家の前を通りかかった。表札には結城の文字。

 向日は視線を奪われる。小綺麗な一軒家には、当然ながら人の気配はない。

「……あ」

 向日の小さなつぶやきに、日吉も気がついた。そういえば彼女もご近所だった。懐かしさがこみ上げる。あの二人は、今も元気にしているだろうか。

 校内ではお互い素っ気なく振る舞っていたけど、一度だけ見たことがある。忍足たちが卒業する直前、学園の近くの繁華街で抱き合っていた二人の姿。

 いつも沈着冷静で表情を崩すことのない忍足の、あんな辛そうな顔は見たことがなかった。絶対に入り込めない空気を感じ、そして、それほどまでに想い合う二人を羨ましく思ってしまった。

 けれど、ひと息ついてから。改めて日吉は口を開いた。

「今度一緒に行きましょうか」

「……どこにだよ」

「関西ですよ」

 テニスではとうとう一度も勝たせてくれなかった、あのポーカーフェイスのロマンチストの鼻をあかしてやりたくて。日吉は自信満々の笑みを浮かべる。

「デートの邪魔でもしてやりましょう」

「……そうだな!」

 会えないなら、会いに行けばいい。新幹線でたった二時間半の距離じゃないか。日吉の言葉でそのことに思い至った向日は、表情を輝かせた。

「でもその前に、今日は絶叫マシン乗るぜっ!」

 ずっと手に持っていた傘をリレーのバトンのように持ち直して、駆けだした。

「ッ、待って下さいよ。向日さん」

 日吉は慌てて追いかける。水たまりを踏みつけて、二人は駅を目指して走ってゆく。キラキラとしたしぶきが飛び散る。

 梅雨の終わりの澄んだ青空から、柔らかな陽光が降り注ぐ。もう夏はすぐそこだ。
 

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