*Short DreamT*
□【忍足】卒業式のその前に
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夕方五時で閉館の図書館から追い出され、忍足は空を見上げた。次の季節も近づいてきた二月中旬。日はもう暮れかけている。
忍足の通う氷帝学園の近くにあるこの図書館は、小さな公園の中にある。今はちょうど梅が満開になっており、かわいらしい小鳥が白い花をつついている。
そんな風景を横目で眺めながらも、ノートと問題集の入ったカバンを肩に掛け、忍足は石畳の道を一人で歩く。その時、生ぬるい風がごうと吹き抜けた。次の季節の訪れを告げる強風に、忍足は足を止める。
「…………」
次の季節。その単語に、忍足は不意に人恋しくなる。春になったら、自分は大学進学のために、関西に戻らなければならないのだ。
少しだけ迷って、忍足は駅とは違う方角に歩みを向けた。この近くには、ストリートテニス場があった。学校の比較的近所ということもあり、推薦や内部進学で既に進路を決めてしまった氷帝の三年生が、よくたむろしているところだ。もしかしたら誰かいるかもしれない。無意識のうちに、忍足は走り出していた
たどり着いたテニス場には、しかし人影は見当たらない。
「学年末考査は終わっとるはずなんやけどな……」
諦めきれず、忍足はあたりを見回す。けれど、観客席を見れば、中等部の頃にライバル校の生徒と出会ったことを思い出し、コートに視線を移せば、チームメイトと草試合をしたことが蘇ってくるからたまらない。
思い出がいっぱい、とはこういうことを言うのだろうか。いつから自分は、こんなに感傷的になってしまったのだろう。確かに東京にいれるのもあとほんの少しなんだけど、それにしたってどうかしている。自分を落ち着かせるように、忍足は大きく息を吐いた。そのとき。
「――じゃあ今日は、ラリー形式で練習しよっか!」
「はいっ!」
唐突に知った声が聞こえ、忍足は驚いて振り返った。振り向いたその向こうには、元チームメイトのジローと、そしてなぜか忍足の彼女の郁がいた。二人ともジャージ姿で、手にはラケットを持っている。ジローはともかく、郁がいたのがあまりにも意外で、忍足は思わず二人に駆け寄る。
「……お前ら、何しとんねん」
「侑ちゃん! どしたの」
「忍足先輩!」
二人もまさか自分に出くわすとは思っていなかったのか、目を丸くして驚いた。
「――体育の授業でテニス?」
「そうなんです。でも私全然出来なくて、だからジロー先輩に教わってたんです」
ジャージ姿でラケットを抱きしめるように持ちながら、郁はのんびりとそんなことを言う。しかし、自分の知らない間にそんなことになっていたのが微妙に気に入らず、忍足は郁に食ってかかる。
「……つか、テニスぐらい言うてくれれば俺が」
「ダメですよ! 忍足先輩はもうすぐ二次試験なのに!」
「そうそう〜 ケガとかされてもこまるC〜!」
しかし、こんなときばかり妙に心配性な二人に、逆に怒られてしまう。いつもなら嬉しいはずの高待遇が、嬉しくないのはどうしてだろうか。お気に入りのオモチャを取り上げられたような感覚に襲われる。これも受験生の宿命なんだろうか。
「つか、どうせ侑ちゃんそのカッコじゃテニスなんて出来ないでしょっ!」
そして無遠慮に靴とボトムを指さされ、なぜかまたジローに怒られる。
「……まあ、せやけど」
しかし、残念ながら正論だ。
「だからそこで見ててっ! 郁、練習しよ!」
そう言って、ジローは彼女を促しコートに入る。
「…………」
取り残された忍足は、しぶしぶとコート脇のベンチに腰掛けたのだった。
(……こんなことなら、もっと適当な格好で来るべきやったわ)
細身のデニムとショートブーツの今日の自分を悔やみながらも、忍足はジローと郁のプレーを眺める。郁の方は懸命に打っているようなのだが、どこに打ってもジロー得意のハーフボレーで難なく拾われ、逆に前後左右に打ち返されて、コート中を駆け回らされている。
「郁〜! 頑張って〜!」
明るい声援を送りながらも、ジローは容赦なく、彼女が追いつけるギリギリのところを狙ってボールを打ちこむ。楽しくも厳しい、ジローらしいコーチングだ。
「ジ、ジロー先輩キツいです〜」
弱音を吐きながらも、全力で走ってなんとか追いつき、郁はどうにか打ち返す。高いロブを上げて時間を稼ぎながら、息と体勢を整える。
「ああ…… ちゃんと考えとるんやなぁ」
走らされてつらいときは、ロブを上げて時間を稼ぎましょう。教科書通りとはいえ、ちゃんと戦略を練っているらしい彼女に忍足は感心する。
「うっしゃー! 絶好球っ!」
しかし、力なく高く上がった球に、ジローは瞳を輝かせる。左手がボールを指すように高く上がり、ラケットを持った右手が大きく引かれる。
(……そらそうなるわな。郁は)
そこまで考えて、忍足はハッとした。さっきスマッシュの構えをとった、ジローの目はマジだった。
「ジロー! 手加減せぇよ!」
「あっそだった! ヤバッ!」
ハッとしたジローは構えを解き、ゆったりとした動作でそのロブを返した。ゴムで出来ているとはいえ、テニスボールは固い。二人の実力差を思えば、ジローが手加減を忘れれば、郁が怪我をする可能性は大いにあった。
「ありがと侑ちゃん!」
コートの中で声を張るジローに手を上げて答えて、忍足は改めて二人のラリーを眺める。絶妙に加減をしながら、彼女の返せるギリギリばかりを狙うジローに、それでも郁は必死に食らいついていた。転びそうになりながらも、懸命にボールを追いかける。彼女のこんなに真剣な表情は、もしかしたら見たことがなかったかもしれない。
重度の運動音痴で、球技大会や水泳大会ではいつも大変な苦労をしていた彼女だが、ジローの指導のたまものなのか、テニスはなんとか人並み程度のレベルには達していた。
「アイツ、案外上手いんやなぁ……」
もっとヘタだと思ってたのに、という言葉は飲み込んで、忍足はそんなことをつぶやく。時々フォームがおかしかったりもするけど、難しいコースの打球も、ぎごちないバックハンドのショットでなんとか返しているところに、涙ぐましい努力の軌跡が見て取れた。
「……きっと、頑張ったんやろなぁ」
思わず笑みがこぼれる。どんくさいけど頑張り屋さんな、かわいい彼女だ。そして、そんな彼女がジローと笑いあう姿を見て、ちょっとだけ安心する。……これなら自分が来年一年いなくても、きっと大丈夫だろう。ジローが気を遣ってくれたのか、数十分だけ練習してから、今日は解散になった。
「最初はサーブも入らなくて、ホントに大変だったんですよっ」
「え、そうなん?」
そんなことを話しながら、駅までの大通りを忍足と郁は二人で歩く。二月に入って忍足が自由登校になってから、学校の近くのこの通りを一緒に歩くのは久しぶりだ。
「でも頑張って、できるようになったんですよっ!」
「そか、良かったな」
身振り手振りを交えてにこにこと話す彼女に、なぜか自分まで嬉しくなる。たしかに実力差はありすぎるんだけど、それでも共通の話題が増えたのは喜ばしいことだ。
「……先輩、受験が終わったら、一緒にテニスしてくれますか?」
じっと目を見ておねだりをされる。これくらいなら大歓迎だ。
「ああ、したるで。一緒にやろうな」
「やったぁ!」
よほどうれしかったのか、人目もはばからず、郁は忍足に抱きついた。二人の足が、不意に止まる。
夕方の駅前は、平日でも人が多い。会社帰りと思われるサラリーマンに、制服を着た中高生など、さまざまな年代や性別の人々が忙しなく行き交っている。しかも、ここは知り合いも多くいるだろう学校付近だ。彼女のらしくない行動に、忍足は違和感を覚える。いつもはこんなことは、しない子なのに……。
「……郁?」
「………………」
名前を呼ぶが、返事は返ってこない。しかも彼女が下を向いているせいで、その表情もこちらからではよく見えない。けれど、わかることがひとつだけ。
「……もしかして、泣いとるん?」
その質問には答えずに、彼女はポツリとつぶやいた。
「……さびしいです。先輩もうすぐ関西戻っちゃう」
嗚咽混じりの声に、忍足の胸もわずかに痛む。
「何言っとんねん。再来年はまた一緒やろ?」
努めて明るく振る舞い、彼女を励ます。
「ちゃんと勉強頑張って、俺のこと追いかけてきてくれるんやろ?」
「追いかけますけど、でも寂しいです」
ぎゅっと抱きつかれたまま、涙声でそんなことを言われて、忍足は嬉しく思う反面、困ってしまう。自分の部屋でならとっても嬉しいシチュエーションなのだが、あいにくここは人通りの多い路上だ。先ほどから多くの通行人にジロジロと見られている。
サラリーマンとおぼしき年配の男性には露骨に顔をしかめられ、若い男女には好奇の視線を送られていた。女子高生のグループがこちらを指さしキャアキャア騒いでいるのが、視界の端に映る。しかも先ほど、よく知った顔が向こうを通り過ぎたような気がするのは、自分の思い過ごしだろうか。
顔の広さを悔やみながらも、気を取り直して、忍足は大事な彼女の機嫌を伺う。イチャイチャはなんとか部屋まで、我慢してもらわなければならないのだ。
「郁、コラ……」
けれど自分の諭すような声にも、寂しがり屋で泣き虫の、お姫様は無言で首を横に振る。いつもなら教育的指導で、ムリヤリにでも引き離すところなんだけど……。彼女の苦しそうな嗚咽が、街の喧騒にもかき消されずに耳に届く。
「……今日だけやで」
ぽんぽんと頭を撫でて、忍足は郁のワガママを受け入れる。両腕を彼女の背中に回し、ぎゅっと抱きしめる。ここは人通りの多い繁華街の路上だ。周りの視線が痛い。
こんな街中で、女の子と抱き合ったのなんて初めてだ。けれど、まるでドラマのような、こんなシーンもたまになら悪くないだろう。ザワザワとした街の声や、車のクラクションの音を聞きながら、忍足はただ大切な彼女を抱きしめていた。
吹く風の暖かさに、彼の瞳までもが潤む。旅立ちの日は、もうそこまで来ていた。