*Short DreamT*
□【跡部】2月13日23時45分の攻防
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ソファーに寝そべって洋書を読む彼に向かって、郁はおずおずと声を掛けた。今は二月で、十三日の金曜日の夜。外はとても寒いけれど、二人のいるここはエアコンが効いて暖かだ。
「あっあの、跡部先輩」
「あ〜ん? 何だよ」
視線は本に向けたまま、彼――跡部はぶっきらぼうにそう答える。彼女の郁の部屋にいるときは、こうやって好きな本をゆったりと読むのが、跡部のお決まりだった。無愛想な返事にめげそうになりながらも、郁は自分を鼓舞して話を続ける。
「英語で分からないところがあって」
「…………」
「教えてほしいんですけど……」
跡部が横になっているソファーのそばのテーブルで、郁は必死に英語の宿題と格闘していた。そしてどうにも勝機が見いだせず、彼に助けを求めたのだったが。
「……テメーでなんとかしろ。俺様は甘やかさねぇぞ」
けんもほろろに断られ、郁は少しだけ涙ぐむ。実はストイックで、ものすごく努力家なところも大好きなんだけど、彼女なのに甘やかしてもらえないのは、ちょっと切ない。
「そ、そんなこと言わないでくださいよ〜 もう二十分自分で考えて分からなかったんですよぅ……」
厳しいことを言われてヘコみながらも、郁は必死に跡部に頼み込む。
「……ちっ、仕方ねぇな」
「わーい! ありがとうございます」
しかし、なんとか承諾を取り付けて郁は安堵する。けれど、跡部の表情は微妙だ。何か言いたげな顔をしている。不安になった郁は、遠慮がちに跡部に尋ねた。
「……どうかしたんですか?」
「腹減った」
「……えっ?」
返ってきた答えは、あまりにもらしくないもので、郁は唖然とする。
「教える前になんか食わせろ。郁、何か持ってこいよ」
しかし、跡部はいたって真面目そうだ。郁は心の中で慌てる。
(いつもはそんなこと言わないのに、なんで急に……!)
夜食自体は簡単に用意できるのだが、今は困るのだ。
「そ、そんなこと急に言われましても……」
「あん? 何だよそのリアクションは」
彼女の妙な言い回しに、跡部の眉が跳ね上がる。
「つか、台所にポッキーが山ほどしまってあったじゃねぇか。あれでいいから持ってこいよ」
よほど口寂しいのか、ちょっとだけイライラとした様子で跡部は言う。読んでいた本をテーブルの上に置き、身体を起こす。
「っ! あれですか!? ダ、ダメですよ!」
焦った郁は、思わずそう叫んでしまう。
「あぁん!? 何でだよ!」
「だ、だってチョコ…… じゃない! えっと、あれはジロー先輩にあげ……」
「はァ!? なんでそこでジローが出てくるんだよ!」
空腹な上に、愛しの彼女に他の男の名前を出され、跡部の機嫌は一気に悪くなる。
「……ふざけるなよ! 全部持ってこい、俺様が一つ残らず食ってやる!」
「えー!!」
人一倍モテるけど、独占欲はさらに強いキングにヘソを曲げられ、郁の焦りは倍加する。他の日なら別にポッキーくらいいくらでも献上できる。でも今この瞬間だけは嫌なのだ。
「つか、お前が持ってこねぇなら俺が……」
その場を動こうとしない郁に業を煮やしたのか、跡部はソファーから腰を浮かせる。
「ちょっ、ちょっと待って下さい! 先輩ッ!」
いよいよ慌てた、郁は跡部にしがみつく。身動きがとれないように抱きついて、彼を制止しようとする。
「あぁ!? 離せよ!」
「ちょっ! もう…… だからっ!」
何を言っても諦めてもらえないせいだろうか。このときの郁は明らかに、冷静さを失っていた。そして彼女はうっかりと叫んでしまった。
「――日付変わるまで、ガマンしてください!!」
繰り返しとなるが、現在は二月十三日の夜である。
「「……………………」」
リビングになんともいえない沈黙が落ちる。しかしその一瞬あと、跡部は盛大に吹き出していた。目尻に涙を浮かべながら爆笑する跡部の横で、郁は頬を染めて悔しそうに俯く。
「……わかったよ。お前がそこまで言うなら我慢してやるよ」
笑いをこらえながら、この上もなく嬉しそうに言われてしまって、郁はますます顔を赤くする。
「あ〜 早く日付変わんねぇかな〜〜」
「っ! 跡部先輩のバカっ!」
わざとらしいセリフにムッとして、郁は跡部を睨みつけるが。
「バカはお前だろーが」
もっともなことを言い返されて目を逸らす。……そう。バカなのは自分の方なのだ。せっかく驚かそうと思っていたのに、もう全てが台無しだ。
気がつくと、ソファーに腰を下ろした跡部に抱きついたまま、郁は涙をこぼしていた。ぐずぐずと、小さな子供のようにしゃくりあげる。
「……つーかお前といると、本当に退屈しねぇよな」
めそめそとする彼女の頭を優しくなでながら、どこかしみじみとした口調で跡部は言う。郁は黙ったまま、跡部の肩口に顔をうずめる。
「サーブも空振りするし」
穏やかにそう言って、跡部は郁を抱きしめ返す。
「い、今はちゃんとできますしっ」
「……そうだな、頑張ったもんな」
心なしか最近泣きべそをかいてばかりいるような気のする、可愛い年下の彼女を、跡部は精一杯甘やかす。
身体の重みと温もりをしっかりと受け止めながら、さらさらの髪の毛を優しく梳く。たまにはアメを与えておかないと。逃げ出されたら困るのは、むしろ自分の方なのだから。
髪に触れられるのが気持ちいいのか、郁はさらに、跡部に身体を押しつけてくる。しばらくの間そうしてから、郁は跡部の表情をのぞき込むようにして尋ねてきた。
「……サプライズが失敗するのも、可愛いですか?」
拗ねたような顔で、こうやって上目遣いで甘えられるのも、たまらなく心地いい。
「……かわいいよ」
彼女の求める答えを、穏やかな笑顔とともに差し出してから、跡部は不意に、唇の端を上げた。
「つーか、こないだからいやに積極的じゃねぇか」
ことさらに扇情的な言い回しで、郁をからかう。
「……っ!」
彼女はハッとする。ソファーに座る跡部にずっと抱きついていた自分にやっと気がつき、慌てて離れようとするが、
「逃がさねーぜ?」
「ッ、きゃっ!」
とても器用に、跡部は郁をソファーの上に押し倒した。
「教えてくれよ。どういう心境の変化なんだ?」
にやにやと楽しそうに、跡部は彼女を見下ろす。顔をそむけられないように、郁の顎に強引に掴んで自分を向かせて固定した。
「……っ!」
視線だけを跡部から逸らして、彼女は恥ずかしそうに瞳を伏せる。
「……まぁ別に、俺はお前とイチャつけるならそれでいいんだけどな」
不意に跡部の言葉にどこか優しげな響きが混じり、顎を掴んでいる手の親指で、跡部は彼女の唇にそっと触れる。柔らかな感触を楽しむように、指をすべらせた。
とたんに甘くなる雰囲気に、郁は戸惑う。
指先でなぞられているだけなのに、頭の中がぼうっとする。ふわふわした心地よさに、思わず自分から彼を求めてしまいそうになる。無意識に甘い吐息を漏らして、郁は跡部の服の裾を掴んでいた。
「……目ェ閉じろよ」
青い瞳が切なげに細められる。それは二人だけの合図だ。ハイと答えるかわりに、彼女はそっと瞳を閉じる。