*みえない星(完結済)*
□第8話 ずっと君だけを
1ページ/1ページ
『――郁、お父さんとお母さんな、仕事で外国に行かなきゃいけなくなったんだ』
そうやって二人がいなくなって、私が一人になったのは、確か高等部に入った直後だったっけ……。誰かに呼ばれた気がして、私は顔を上げた。
「忍足先輩……?」
先輩はひどく慌てた様子で、私に駆け寄ってくる。ここはいつもの屋上。茜色の空が、今の時間を教えてくれている。
「……あれ、私」
さっきまで、ジロー先輩と電話をしていたはずなのに……。記憶が定まらない。
「ジローから連絡もろうて来たんや。心配したで。変な電話の切り方しおるから」
先輩の言葉で思い出す。
「……すみません先輩。また迷惑かけちゃって」
言いながら私は立ち上がった。まだ頭が少しボーっとするけど、意識自体ははっきりしている。身体に異常があるわけじゃない。
「――迷惑なんて思わへんよ。お前のこと迷惑なんて思ったこと、ただの一度だってあらへん」
妙に強い口調に違和感を覚えて、私は忍足先輩を見上げた。夕日のせいか、いつもと違って見える。
「郁、身体の具合が大丈夫なら、聞いて欲しいことがあんねん」
改まった様子で、先輩は切り出す。
「……大丈夫ですけど、どうしたんですか?」
なんだか緊張する。こんな忍足先輩を見るのは、初めてかもしれない。先輩は軽く息を吸い込むと。
「あんな、ホントは言わんどこ思うとったんやけどな。俺、ずっとお前のことが好きやったんや」
放課後の生徒会室。大きな窓からは、オレンジ色の夕日が差し込んでいる。そこにいたのは跡部とジローだった。跡部はデスクで書類に目を通しており、一方のジローは手持ちぶさたな様子でソファーで横になっている。
「ねぇ、跡部」
「……なんだよ」
ジローに呼びかけられた跡部は、手元の書類から目を離さずに答える。
「――跡部は、何で郁と付き合ってるの?」
突然の妙な質問に、跡部は顔を上げた。剣呑な視線をジローに投げかける。
「……何が言いてえんだよ」
「だってー、跡部は侑士が郁のこと好きだって知ってて、郁にちょっかい出したでしょ」
「……まあそれは否定しねえよ」
面倒くさそうにジローに答えると、跡部は息を吐く。
「他人のもの盗って楽しい? 侑士のこと嫌いなの?」
跡部のそんな反応にムッとしたのか、ジローの口調に力がこもる。
「……ふざけんなよ。郁はモノじゃねぇし。それに、そもそも悪いのは、ぶつかっていかねえ忍足だろうがよ」
表情を険しくし、跡部はジローに言い返す。
「ふーん…… まあ確かに跡部は積極的だもんねぇ」
「つーか、さっきからいやに絡むじゃねえか、ジロー」
「別にー!」
二人の雰囲気はどんどん悪くなる。
「でもさ、跡部は何で郁がいいの?」
不意に真顔になって、ジローは跡部に問いかけた。
「……何でだろうな」
「えー! ナニソレ!」
答えになってない返答に、ジローは怒る。しかし。
「……理由がいるのかよ。きっかけはどうあれ、人を好きになるのに理由なんていらないだろ」
それが跡部の答えだった。
『ずっと好きだった』忍足先輩の信じられない言葉に、心臓が止まりそうになる。
「跡部にとられたときも、俺が関西戻る言うたときに、お前が寂しい言うてくれへんかったときも、ホンマはむっちゃ悔しかったしショックやった」
言葉が出ない。だって私は、あのとき忍足先輩にフラれたと思ったから……。視界がにじむ。先輩は言葉を続ける。
「もっと早く言おう思うとったんやけど、お前にあんなことがあって、それで苦しんどるお前見とったら、なんや言えんくなってしもてな」
「先輩……」
「……すまんな。お前にはもう跡部がおるのに」
そんなふうに言われてしまうと、何も言えなくなってしまう。私には忍足先輩に何か言う権利なんて、ないような気がして。
「そんな顔すんなや。俺はただ、お前に自分の気持ち伝えときたかっただけなんや」
先輩は苦笑すると、私の頭を撫でた。
「でもな郁、今までもこれからもずっと、俺はお前の幼なじみで、お前の味方やから、何かあったらいつでも、頼ってきてくれてええんやで」
優しい言葉と一緒に微笑みかけられて、私は今までの、忍足先輩と過ごした数年間を思い出していた。……嬉しかったことも、苦しかったことも。思えば全部、いつだって忍足先輩と一緒だった。
「……ほなな、郁。跡部と仲良くやりや」
忍足先輩はいつもみたいに微笑むと、ゆっくりと踵を返した。屋上の出入り口の扉が閉まる音が聞こえたのは、それからしばらく経ってからだった。
本当は追いかけたかった。でも、追いかけてどうするんだろう。今の私に、忍足先輩を追いかける資格なんてあるの? ……急に携帯が震えた。まるで、先輩と入れ替わるみたいに。
『……郁ちゃん。侑士と会えた? 話きけた?』
電話をかけてきてくれたのは、ジロー先輩だった。
『侑士はね、ずっと前から郁ちゃんのことが好きだったんだよ。あんなこと言ってたけど、本当は今でも郁ちゃんのことが好きなんだよ』
さっきの告白で、忍足先輩のその気持ちは苦しいほどに伝わってきている。
『ねぇ、なんで跡部なの? どうして侑士じゃだめなの? 跡部だって、卒業したらいなくなっちゃうんだよ?』
いなくなる、その言葉を聞いた瞬間、涙があふれた。
「わかっ…… てっ……」
苦しくて声が出ない。なんで私の大事な人は、みんないなくなっちゃうんだろう。
『郁ちゃん、もっぺんよく考えてみてよ。無理して頑張って跡部と付き合うより、侑士と付き合った方が、俺は絶対、郁ちゃんにとってはイイって思うよ……』
ジロー先輩の声も、なんだかひどく苦しそうだった。
『遠い外国なんかより、侑士と関西に行けばいいって、俺は思ってる……』
春の終わりからずっと、跡部先輩と一緒にいたけど、忍足先輩のことを忘れたことなんて一度だってなかった。思えばいつも、誰かに『好きだ』って言われるたびに、思い出していたのは忍足先輩だった。
だけどこの数ヶ月、まっすぐな気持ちをぶつけてくれて、踏み出す勇気を私にくれた跡部先輩も、大切なのは本当。
「私、どうしたらいいんだろ……」
その問いの答えは、だけど自分で見つけるしかない。
急に携帯が震えて、跡部はポケットに手を入れた。発信者名を確認し、電話に出る。
「……なんだよ。ジロー」
先ほどのいざこざのせいか、跡部の機嫌は悪かった。低い声で対応する。
『跡部、俺ね』
しかし機嫌が悪いのは、向こうも同じようだった。
『さっき郁に跡部の留学のことバラしちゃった』
悪びれもせずしれっと、ジローは跡部にそう告げた。
「……テメェはどこまでも俺様を怒らせたいらしいな」
跡部の声は怒りに震えていたが、ジローもまた強い口調で言い返す。
『だって、あんな嘘くさい理由じゃ納得できないんだもん。俺がムカつくんなら、本当の理由教えてよ』
ジローの詰問に、しかし跡部は押し黙る。……彼女のことが好きな理由。でもそれを話すことは、とりもなおさず、自分と彼女の秘密を暴露してしまうことだった。
自分はともかく、彼女の秘密だけは守りたかった。だから言えなかった。ジローに何となじられようとも。
『……言えないならいいよ。別に。理屈じゃないっていうのも、わかんないわけじゃないし』
ジローの冷たい声が響く。
『――跡部は、知らないと思うけど』
唐突にジローの声のトーンが変わり、跡部は微かに動揺する。
(まだ何かあるのかよ……)
そう思うが、話を遮るのもはばかられて、大人しく耳を傾ける。
『去年の夏ぐらいからかな…… 郁、なんか変わったんだ』
去年の夏、それはあの事件が彼女の身に起きた時期で。一瞬、跡部は焦るが。
『多分、春にお父さんたちが、海外行っちゃったからだろうけど』
ジローの次のセリフに安堵する。しかし……。
『あんまり笑わなくなったんだ。前はもっと普通だったのに。それで、なんか時々苦しそうにしてた』
ジローの言葉を聞きながら、跡部は彼女と、初めて言葉を交わした時のことを思い出していた。そう。車のナンパから、彼女を助けたあのとき。
一方ジローは、全国大会の決勝に郁を誘ったときのことを思い出していた。あのときも何だか苦しそうだった。だから、少しでも気晴らしになればと思ったんだ。そんなことを回想しながらも、ジローは続ける。
『でも侑士といるときだけは、郁は昔みたいに笑うんだ。だけどそんなこと、跡部の知ったことじゃないよね』
確かに自分の知らなかったことだ。けれど。
「……昔のことなんて、確かに俺は知らねえよ。だがな、アイツと今付き合ってるのはこの俺なんだよ!」
だからといって、簡単に譲れる程度の想いではもうなかった。どうしても放っておけない。惹かれて構って求めてしまう。
理由は未だにハッキリしない。同じ痛みを背負っているから? 好みの容姿と性格だから? ただ、どちらにしろ明らかなのは、もう後戻りできないということだけ。
ジローは『跡部らしいね』と笑ってから
『そうだ、いいこと教えてあげる。今、郁は屋上にいるよ。それで、侑士に告白されたとこ』
「……ッ!」
出し抜けにそんなことを告げられて、跡部は絶句した。さっきの生徒会室でのやりとりが思い出される。これは、意趣返しなんだろうか。
『早く迎えにいってあげた方がいいんじゃない?』
冷たい忠告を伝えてすぐ、電話はブツリと切れた。
「クソっ……!」
誰にともなく毒づいてから、跡部は駆けだした。目的地はもちろん、彼女のいるはずの屋上だった。