*みえない星(完結済)*
□第1話 言えない秘密
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――最中は、声も涙も出なかった。
土曜日の学校からの帰り道。いつもの道をいつもと同じように、私は一人で歩いていた。そのとき、不意に後ろからクルマのエンジン音が聞こえた。
普通なら、クルマはすぐ私を追い越してあっという間に見えなくなってしまう。だけど、そのクルマは私を追い越してはいかなかった。ずっと後ろで聞こえ続けるエンジン音に、違和感を覚えた。
そこから先は、よく思い出せない。覚えていることは、横付けされて運転手に声をかけられたことと、必死で走って逃げる私を、そのクルマは面白がるように追いかけてきたこと。激しい嫌悪感と『嫌だ』という本能に突き動かされて、私は住宅街を全力で走った。駅から家までの十分ちょっとが、ひどく長く感じられた。
けれど、私はなんとか自分の家に辿り着く。だけど、玄関扉に手をかけて硬直した。
(開かない!)
予想された通りのことなのに、全身から血の気が引いた。もし、家の鍵を開けようとしているところを『あの人』に見られたら。でも他に逃げる場所なんて、こんな状況では思いつかなかった。私は慌てて鞄を開けて、家の鍵を取り出そうとした。そのとき、背後からクルマの急ブレーキの音が聞こえた。
私は振り返る。乱暴な音を立てて運転席のドアが開き、その人が降りてきた。なぜかその手には刃物が握られていて、私の足は恐怖で竦んだ。
「――お前が悪いんだぞ」
言いながら、その人は私に近づいてくる。ここは家のドアの前。後ずさろうとしても、もう出来ない。
「こんなに好きなのに」
その瞬間。腕を掴まれて、力任せに引き倒された。思い切り身体が床に打ち付けられる。石造りの床は冷たくて固い。背中が痛い。乱暴に押さえ込まれて、ブラウスが一気に引きちぎられる。私がどんなにもがいても、男女の圧倒的な体格差の前では全ての抵抗は無意味だった。
刃物で切りつけられた傷と、押し倒されたときに打った頭と背中がずきずきと痛む。素肌の胸に思い切り顔を押しつけられる。全身をおぞましい感覚が走り抜ける。
『嫌だ、やめて』
本当はそう言いたかった。でも喉がつかえて、私はなんの声も出せなかった。……それがすべての始まり。
***
氷帝学園高等部。ここが私の通う学校。幼稚舎から大学部まである都内の一等地にある私立の学園で、何か特徴を挙げるとすれば、勉強もスポーツもとても盛んで……。
そう、特に中等部と高等部の男子テニス部は全国常連の強豪なんだ。といっても、私は部活には入ってないんだけど……。
「郁!」
急に声をかけられる。教室で携帯をいじっていた私の前には、クラスメイトの朋子がいた。
「ちょっといい?」
朋子は私の真横でしゃがみこむ。
「ねえねえ、こないだ青春学園のテニス部の三年の男子フッたってマジ?」
「えっ……?!」
誰にも話していないことを急に聞かれて、私は焦る。
「な、なんで知ってるのそれ」
「だって私、青学の桃城くんと友達だもん」
「えー、桃城くんに聞いたの」
桃城くんめ、余計なことを……。心の中で、私は桃城くんを恨む。だって、こういう話ってあんまりしたくないよ。それがたとえ、クラスで仲のいい子とでも……。
「すごいイケメンなのにもったいないじゃん! ねえなんでフッたのよ? 教えてよ」
「えー……、別に理由なんてないよ。今は誰ともつきあいたくないだけ」
私はお茶を濁す。だって、本当のことなんて言えるわけがなかったから。
去年の学校帰りの出来事。切りつけられた胸元の傷は治ったけど、私の心の違和感はまだなくならない。『好きだ』とか『付き合って欲しい』って言ってくれる男の子たちに対しても、気持ちは嬉しいけど、怖いとしか思えなかった。
だって付き合ってしまったら、キスしたり、それ以上のこともしなきゃいけなくなる。
「つーかホントもったいないよ。ちょっと前はウチのテニス部の準レギュラーにも、コクられてたらしいじゃん。郁は」
「えええ…… そっ、そんなことないよ。誰に聞いたのその話」
違う。コクられたのは正レギュラーにだ。フッたけど……。でもそんなこと、訂正できるわけもなくて……。
「くーやーしー! なんでアンタなんかがモテんのよ! 大して可愛くもないくせにッツ!」
ふざけて言って、朋子は私の首をしめるマネをしてきた。
「ちょっと、朋子ってば!」
私もふざける。そのとき、チャイムが鳴った。
「あっヤバ!」
それを耳にした朋子は、慌てて自分の席に戻っていった。
放課後。今日もいいお天気で、夕焼けがとても綺麗だった。私は校舎の屋上で、桃城くんに抗議のメールを打つ。
『そういうの勝手に話されたら困るよ。朋子に聞かれてタイヘンだったんだからね』
返信は数分で返ってきた。
『ゴメンゴメン』
桃城くんらしい軽いノリの謝罪のコトバ。でもその続きは、
『でもなんで、結城は誰ともつきあわないの?』
「………………」
みんなにその質問をされるたびに、私は胸が苦しくなる。あんなことがあったから、だなんて言えない。男の人が大嫌いで怖いなんて、言えない。あのことがあってすぐは、先生やクラスの男の子たちでも怖かったのに。
身体が震える。ふたりの無邪気な、でも年頃の子なら当たり前の質問に、なぜか私は責められて、追い詰められているような気持ちになる。
『なにそれ、なんで付き合わなきゃいけないの?』
本当はそう言ってしまいたかった。彼氏がほしい。彼女がほしい。みんなそんなことばっかり言うけど、私には全然わからない。やっぱり私は普通の子とは違うのかな。
「……郁! やっぱここにおったん」
不意によく知った声が聞こえて、私は振り返った。
「忍足先輩……」
忍足先輩は、私のひとつ年上の幼なじみ。家が近かったから、子供の頃からお互いのことを知っていて、そして私の身に起きた出来事を知っている、ただひとりの人だ。先輩は、ちょっと困ったような笑顔を浮かべると。
「今日はホンマに大変やったんやで。帰ろ思うたら滝に泣きつかれてん。お前郁と仲良いんやろー、て」
「う……」
滝先輩。その人は、私がこの間フってしまったテニス部の正レギュラーの先輩だ。忍足先輩にはやっぱり何もかもがバレてるみたい。気遣うような眼差しを私に向けながら、忍足先輩は言った。
「なあ郁、お前やっぱ彼氏とか無理なん?」
先輩のその質問に、私の胸の鼓動は不意に早くなる。
「…………」
無理なんです、とは答えられなかった。喉がつかえて声が出なくなる。また責められているみたいな気持ちになって、私は俯く。
「……すまん。無神経やったな」
ほんの少し間を置いてからの、忍足先輩のその一言に、私は泣いてしまいそうになる。気を遣ってもらえるのがうれしくて。でも申し訳なくて。
あの出来事以来、忍足先輩は私にすごく優しくしてくれるようになった。まるで壊れ物を扱うみたいに。
「でも、滝のヤツめっちゃ落ちこんどったで。ホンマにお前のこと好きやったみたいでな。……その男心は、わかったってな?」
忍足先輩はふっと微笑むと、屋上から去っていった。
ひとりになって、私は滝先輩のことを思い出していた。忍足先輩たちと一緒にいるところをよく見かけたことがある。何回か話したこともある。でも、たったそれだけだった。
「……おかしいよ。たったそれだけなのに、好きとか」
私を乱暴しようとした、あの男の人も言っていた。
『――こんなに好きなのに』
……好きって、何なんだろう。でもその問いは、私にとっては強敵すぎて、私の足りない脳ミソは思考するのを停止する。急に目の前が暗くなる。いつもそうだ。あの時のことを思い出すと、私は具合が悪くなるんだ。
いつか、わかる時がくるのかな。滝先輩や、青学のあの先輩の気持ちが……。気がつくと私は、ひとり座り込んで、ただ涙を流していた。
***