単品

□星の彼方のなほ遠く。
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 松任は後輩だった。

 ただの、部活の後輩だった。



***



 部室に行くとまず漫画を読むのは、習慣みたいなものだった。
 俺の所属する天文部は、もう使われていない廃校舎の一室を部室として使っていた。狭い部屋の片隅には、新旧さまざまな漫画が積み重ねてあった。
 全ては引退した先輩たちの置きみやげだ。不要物処理、ともいう。

 乱雑に積まれた漫画の山から引っ張りだした古い不良漫画を、パイプ椅子に座って読みふけった。昨日から続きが気になっていたのだ。さすがに不要物処理なだけあって巻数が時々抜けているものの、抜けている場面は勝手に想像することにした。
 しばらく漫画に夢中になっていると、扉の開く音がした。古い部室の扉は立て付けが悪くて、開け閉めのたびに心臓が縮みあがるような音がする。

「あれ、先輩だけですか?」

 顔を見せたのは松任だった。きれいな顔立ちを緩ませて、甘い雰囲気の笑みを浮かべる。
 俺は松任の、そんな笑顔が苦手だった。俺だけに見せる笑みだと知っているから、余計に直視できなかった。
 微妙に視線を逸らし「いつものことじゃん」と呟いた。言い方は言い訳めいていたけれど、確かにそれは事実だった。
 天文部員はほとんどがオタク系男子だ。部員のほとんどは、部室で無為に時間をつぶすより、自宅に帰って撮りためたアニメを鑑賞するのが楽しいらしかった。
 おかげで部室はいつも閑古鳥が鳴いている。そもそも、全員そろっても十人に満たない弱小部活なのだ。

「なに読んでるんですか」

 と、松任が隣のパイプ椅子に座ってくる。爽やかな香水の匂いが鼻につき、心臓がどきりと跳ね上がった。
 間近に寄せられた顔は整っている。漫画をのぞき込むように腰を伸ばした松任は、けれど絶対に漫画など見ていなかった。
 松任はきっと、俺のことを見ているはずだ。頬のあたりに、ちりちりとした視線を感じた。

「先輩」

 松任が俺を呼ぶ。ふつうの後輩の顔をして。
 返事をすれば動揺してしまいそうで、俺は漫画に集中している振りをした。
 けれど内容なんて頭に入ってこなかった。普段自分は、どれくらいの速度でページをめくっているのか。ぐるぐると考えながら、震えそうになる指で必死にページをめくった。

 松任は、ただの部活の後輩だった。
 松任にとっても、俺はただの部活の先輩であるべきで。そう接してほしいと、頼んだのは俺だった。言葉にはしなかったけれど、俺の態度で松任はそのことに気づいたはずだ。
 年は下だけど、松任は俺より大人だった。分かりました、そう言って、松任は諦めたように頷いた。

「あ、そのページ、ちょっと待ってください」

 ページをめくろうとした俺の指に、松任の手が重ねられた。マネキンのような、白くてきれいな手のひらだった。皮膚は生温かく、濡れたような感触にどきりとして顔を上げると、松任の視線がぶつかった。

「・・・・・・深巳先輩」

 意味もなく、松任が俺の名前を呼んだ。
 いや、意味はあるはずだ。だって俺を見つめる松任の視線は、堪えきれない感情を抱えて揺れている。

 でも松任が、それを言葉に出すことはない。
 俺がそう望んだからだ。機微に敏い松任は、それ以来、俺に何かを告げようとはしなかった。

 もし、俺が先輩のことを好きだって言ったら。

 松任がそう言ったのは二ヶ月前のことだった。告白とも言い切れない微妙で曖昧な松任の言葉。けれど、その言葉の真剣さに気づかないほど俺は鈍感ではなかった。

 けれど俺は。

「・・・・・・どした、松任?」

 何でもないことのように、俺はにへらと笑った。松任が少し笑みを浮かべる。傷ついたような表情に、少しだけ心が痛んだが、けれども俺は松任の気持ちに答えるつもりは全くなかった。
 松任は、部活の後輩。
 それだけで、いいと思う。

 二ヶ月前に告げられた、松任からの曖昧な告白。

 俺はそれに、気づかない振りをしようと決めたのだ。


 
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