単品
□閉ざされたこの世界に
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幼い頃の記憶だ。
俺は母親に手を引かれて歩いていた。
多分習い事の帰りだった。冷たい雨が降っていて、俺は黄色い傘をさしていた。
家までの道を歩いている途中で、母親がふと立ち止まった。
「あら嫌だ、お母さん、お財布を先生の家に忘れてきたわ」
母はおっちょこちょいだった。忘れ物もいつものことで、俺は「じゃあ待ってる」と口にした。
家まであと少しの距離。雨の中、先生の家まで戻るのは面倒だった。母はすこし逡巡したが、そこが近所だということもあったのだろう。
「じゃあ此処で待っててね。すぐ戻るから、動かないでね」
「うん」
「知らない人に、ついていったら駄目よ」
「わかってる」
頷いた俺を心配そうに見たものの、母は仕方なさそうに息をつき、来た道を走って戻っていった。俺はそんな母の後ろ姿が曲がり角で消えるまで眺めていた。
ざあざあと雨が降っていた。俺はしばらくその場で母の帰りを待っていた。
だがふと、一人の女性が道の反対側に立っていることに気がついた。
黒い髪の女性だ。雨なのに傘を差していない。見慣れない人だった。
どうしたのだろう、と俺は思った。女性は俺に背を向けるように立っていて、表情や顔立ちは分からなかった。
「こんにちは」
と、俺は女性に声をかけた。ここにいるのなら、きっとこの女性は近所の人なのだろう。近所の人にはきちんと挨拶しなさいね、と母にいつも言われていた。
女性は俺に気づいたようだ。ゆっくりと、こちらを振り向く。何故か、背筋に悪寒が走った。
「・・・・・・っ」
息が詰まる。
雨の音が、一気に遠くなった。
「ああああああああ」
不快なうめき声をあげる女性の目は、白目の部分まで血のような赤に染まっていた。