単品

□三宗吉さんは今日もゆく。
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 三宗吉(みそきち)の朝はラジオ体操から始まる。

 とはいっても、ラジオ体操の時間に起きるわけではない。三宗吉が起きるのはその半時前、まだ辺りが薄暗い頃である。
 目覚まし時計はかけない。そんな物がなくても長年続けている早起きは、体にしっかり染み込んでいる。

 目を覚まし、体を伸ばす。節々が痛くないのが不思議な気分だ。
 口の中が乾くこともないし、腰に違和感も感じない。

 若いとは素晴らしいことである。今日もしみじみ感じながら、三宗吉はベッドから足をおろした。

 立ち上がると視線が妙に高かった。
 身長が高くなったからだ。もう三ヶ月も経つのに慣れないこともあるのだ。そう思いながら髪を手で梳く。

 髪があるというのも不思議な感じだ。
 三宗吉は三ヶ月前まで禿げていた。顎ほどまである黒髪は、さらさらとこぼれるように指の隙間を流れていって、その光景もまた三宗吉には不思議な光景に感じられた。

 部屋の中は薄暗い。
 三宗吉は、高校の学生寮で暮らしていた。最近の学校はリッチなもので、二人部屋とはいえ、各個人には寝室が与えられている。
 寮といえば二段ベッド、三段ベッドが当たり前だと思っていた三宗吉は、最初はたいそう驚いた。同時に、これなら鼾で迷惑をかけずにすむなと喜んだものだった。
 三宗吉の鼾はうるさい。妻や子供達にはよくそれで怒られた。

 とはいえ寝室の壁は薄いようなので、鼾をかかないようにと三宗吉は毎日気を使っていた。同室者に迷惑であるし、同時に漣(れん)にも迷惑がかかる。
 漣がこの部屋に戻ってきたとき「あいつは鼾がうるさいんだぜ」なんて噂を立てられていたら可哀想だ。この場所は本来、漣が住むべき場所なのだから。

 同室者を起こさないように、ゆっくりと部屋を出た。
 寮は無駄に豪華である。廊下には絨毯まで敷かれていて、寮というより一流ホテルといった風情だった。
 とはいうものの、三宗吉は一流ホテルなど泊まったことはない。妻との新婚旅行は熱海だったし、泊まったのは小さな温泉宿だった。

 廊下を進み、寮を出る。すると眼前に一面の緑が広がった。この寮は、森の中に建てられているのだ。寮の前には広場があり、そこには芝生が植えられている。

「おお、いい天気だ」

 腰を伸ばしながら三宗吉は空を見上げた。夜明け前の薄紫色の空には雲一つない。雀がぴちぴちと鳴いていて、深呼吸をすれば新鮮な空気で肺がいっぱいになった。

 なんと気持ちのいい朝だ。

 三宗吉は誰にともなく感謝をした。こんな新鮮な空気を吸えることを、ここの寮に住む若者たちはありがたいと思うべきだ。
 だが若さとは厄介なもので、実際に若いときにはその有り難みにちっとも気づかないものなのだ。
 三宗吉自身も、若い頃には朝の空気を吸いたいなどと思わなかった。
 だから、仕方のないことだろう。

「ふむ、膝も軽いのう」

 屈伸をすると膝は軽々と折れ曲がる。これもまた素晴らしいことだと三宗吉は思う。
 三ヶ月前まで三宗吉は通風持ちだった。膝を曲げるたび激痛が走ったものである。

「今日も良い一日になるといいな」

 誰にともなく三宗吉は呟いた。

 そうしてから、寮の周りを散歩して、ラジオ体操をした後、部屋に戻る。
 それが、三宗吉の日課だった。
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