単品
□檻と足音
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人生は、何が起こるか分からない。
日曜日の昼、とくにすることもなくて部屋でごろごろしていると、玄関からチャイムの鳴る音がした。新聞の集金だろうか。俺は腹をかきながら欠伸をしつつ玄関に向かった。
俺の住んでいるのはデザイナーズマンションで、一人暮らしにしては広い間取りだ。選んだのは妻だったが、妻とは一ヶ月前に離婚していた。
妻が離婚を切り出してきたのは突然で、理由はよく分からなかった。今付き合っている相手がいる、その人の方が好きになった・・・と言われたけれど、浮気をしている素振りは全くなかった。だからだろう、一ヶ月たった今でも俺は現実を受け止めることができなかった。
そんなわけで、最近は何をするにもやる気がない。結果外に出る気も起きず、せっかくの日曜日をだらだらとだらけて過ごしていた。
チャイムの音は鳴りやまなかった。はいはい、と返事をしながら扉を開くと、そこにいたのはいつも見る集金の親父ではなかった。
「はじめまして。今度となりに越してきた、常盤といいます」
にっこりと笑う風貌に、目を奪われた。
知ってます。
思わずそう口に出しそうになっていた。
常盤竜二。
俺の目の前に現れたのは、俗にいう芸能人という奴だった。アイドルグループの出身で、今はソロで活躍している。俳優やモデルもこなしていて、若い女性の間で絶大な人気を誇っていた。
妻も熱狂的なファンだった。アイドル時代から追っかけをしていたらしく、ファンクラブにも入っていた。俺も飽きるくらいライブに付き合わされたから、顔を間違えるはずもない。
しかし何故、常盤竜二がこんなところに。
俺は少し呆けてから、ああ引っ越したとか言ってたなと一瞬前の台詞を思い出した。
ここは家賃の割にセキュリティがしっかりしている。しかも立地が目立たないので、たしかに芸能人の住居としてはうってつけの物件だった。
「あの、どうかされましたか?」
ぼんやりしている俺が気になったのか、常盤がためらいがちに尋ねてきた。俺は慌てて首を振ると「いや、びっくりしたもので」と苦笑した。
「芸能人を見るのは初めてだったんで。近くで見ても格好いいですねぇ」
初対面の相手におべんちゃらを口にしてしまうのは、営業でおぼえた癖のひとつだ。だが常盤が格好いいのは事実なので、まるっきり嘘というわけじゃない。
日本人離れした彫りの深い顔立ちや、癖のついた漆黒の髪。くすりと笑う顔はとても綺麗で、厚みのある唇は妙な色気を持っている。
妻もたしか、唇が一番好きだとか言っていた。ただのたらこ唇じゃないか、と馬鹿にして怒られたのは結婚する前の話だ。
その唇がゆっくり動いて、口角をあげるだけの笑顔を作った。
「どうもありがとうございます。これ、お近づきの印です」
格好いいなんて言われなれているんだろう。さらりとお世辞を躱された。確かに芸能人相手に「格好良い」はなかったかなと俺は思い、渡された箱を手に取った。
箱はずしりと重かった。てっきりタオルだろうと思っていただけに、意外な重みにびっくりした。
「失礼ですが、お名前は何と仰るんですか?」
「ああ、吉野です」
このマンションには表札がない。だから名前を訊かれた俺は、自然と問いに答えていた。
「吉野さん、ですか」
常盤は何故かにやりと笑い、すぐにその笑みをかき消すと「では、また」と頭を下げて去っていった。
ひとり残された俺は首を傾げた。はて今の笑いは何だったのだろう。平凡な名字なので馬鹿にされたか。少し疑問に思ったが、別に気にするほどのことではなく、まあいいかと思い直して部屋に戻った。
箱の中身はお菓子の詰め合わせだった。有名なパティシエのサインが書かれた品は、人気が高くてなかなか買えないと噂の一品だった。
さすがは芸能人。たかが引っ越しの挨拶なのに、くれる品もセンスがいい。
俺は感心しながらお菓子をひとつ口に運んだ。甘味が少ないのに果実の香りがふんわりと漂い、味はたいそう美味かった。
二個めの菓子を手に取りながら、ふと妻に電話しようかと考えた。
常盤竜二が、隣に越してきた。
そう言えば、妻はこのマンションに戻ってくるかもしれない。そう思って携帯を手に取ったが、しばらく逡巡したあと電話はやめた。
あまりにも未練がましい行為だと思ったからだ。そんなことをして妻を手元に戻しても、きっと気持ちはもう昔には戻らない。
「・・・・・・阿呆くさ」
呟いて、携帯をベッドに放った。床にごろりと寝ころんで、俺は二個目のお菓子を頬張った。咀嚼しているうちに眠気がしてきて、俺はお菓子を飲み込むとそのまま惰眠をむさぼった。