D-Novel:短編

□己自身が知らぬ間に、恋の花咲くこともある
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そして、それから更に数週間後。杏はオールドベイリー内の廊下を歩いていた。



成歩堂と出会ったあの日以来、今まで会わなかったのが不思議なくらいに彼と顔を会わせる機会が増えた。そんな縁で杏の手が空いた時は、成歩堂の勉学の手伝いをしている。法務助手がいたらしいが、今は一時的に日本へ帰国しているらしい。

とはいえ、自分は法務助手ではないので審理に参加することはない。過去の判例とやらをまとめるといった、データ収集が主な作業である。大量の紙資料を綴じた分厚いファイルから要点をまとめるという作業は、それが医学だろうが法律学だろうが大変なことには変わりはない。今は休憩がてらこうやって施設内を散歩しているが、もう少ししたら成歩堂が待つ書庫へ戻らねばならない。

――…が。

杏は数歩歩くごとに立ち止まっては床に落ちているモノを拾い、袂へと仕舞うという一連の行動をずっと繰り返していた。ずっと集めている白くて小さな花びらが、ここにはあちこちに落ちているのだ。もしかしたら…この花びらの主が、ここのどこかに咲いているのかもしれない。シロツメグサのような、地面に咲く花だろうか。それともツバキのような、低い木に咲く花だろうか。それとも…

「まぁ!やはりこれは…!」

次に拾ったものを一目見て、杏は嬉しそうに声を弾ませた。今まで見つけてきたものはどれも散った花びらだけだったのだが、これは萼片(がくへん)までついている"花"のままだ。そしてその形は、間違いなくソメイヨシノ。日本の桜が大英帝国にあるだなんて…もしかしたら自分は、すごい発見をしたのかもしれない。そんなことを考えながら、花を熱心に見つめていた時だった。

『…………そこで何をしている?』

「っ!?」

しんと静まり返った空間に響く冷たい声音に、杏はぎょっとして顔を上げる。廊下の少し先の方から、1人の紳士がこちらをまっすぐに見ていた。会うのは数週間ぶりだが、紳士はかのバンジークス卿に間違いなかった。日本人嫌いだという彼に、日本人である自分は声を掛けていいのかと考えあぐねているうちに、バンジークスがこちらへ歩いてきた。眉間にシワを寄せ、まるで睨み付けるような鋭い眼差しを向ける彼に、杏は全身を固く強張らせて手にしたままのソメイヨシノを握りしめる。

杏のそんな仕草を見たバンジークスは、次の瞬間。驚いたように目を剥くと、勢いよくこちらへ駆けてきた。あ、と声を上げる間すらなくやってきた彼は、花を持つ杏の手首を力任せにぐいっと掴み上げる。痛みに思わず小さく呻く杏に構わず、バンジークスは険しい表情で花を見た。

『――…この花………っ!何故これをそなたが手にしている!!?』

『もっ、申し訳ございません!!あちこちに落ちていたので…』

『花など捨て置けばいいものをっ!!何故拾う!?』

物凄い剣幕で怒鳴るバンジークス。恐ろしさに全身が小刻みに震える。目に涙がみるみる滲んで、溢れてしまうのを顔を伏せて懸命に堪えながら杏は告げた。

『この花………私の故郷に咲く花と同じモノで…!異国の地で見つけて、なんだか愛しくて……あ、集めておりました………どうか、お許しください…っ!』

『集め――…っ!!』

杏の告白に、バンジークスが愕然とする。しかし不自然に途切れた台詞に違和感を覚えて、杏は顔を上げて彼を見つめた。ほの白い顔は血の気を失って青ざめ、微かにだが唇が戦慄いている。そして次の瞬間。掴んでいた杏の手首を、まるで突き飛ばすように振り払うとそのまま勢いよく走り出した。あまりの異様さに杏は一瞬あっけに取られたが、去っていった彼を追いかけるべく走り出す。バンジークスの姿は見えない……が、激しく咳き込む音が響いてくる一室へ杏は入っていった。物置らしいそこは薄暗く、埃っぽい。

「………」

緊張で、胸がドキドキする。

杏は自分の胸元を両手でぎゅっと握り締め、意を決して足を踏み出した。奥へと進むにつれて暗さは増し、咳き込む音も次第に大きく響いてくる。

『…バンジークス様』

部屋の一番奥の隅で、バンジークスが蹲っていた。彼が咳き込む度に、背中が大きく揺れる。

『……バンジークス様、大丈夫でございますか?』

『…………』

背中にそっと呼び掛けると、彼は少しだけこちらに顔を向けた。苦悶の表情には冷や汗が滲み、アイスブルーの瞳もまた苦しげに歪んでいる。しかし、バンジークスはすぐさま顔を背けて、再びけたたましく咳を始めた。尋常ならない様子に、杏は堪らず駆け寄る。蹲る彼の大きな背中をさすると、驚いたようにびくりと打ち震えた。

『バンジークス様。私は少しだけ医学の心得があります。これは単なる咳ではありません。喘息かもしれな――…』

『……。見、る、な――…っっ!』

呻きながら、バンジークスは頑なに拒絶する。それでも何とか看ようとする杏を、彼は腕を振り上げ力任せに突き飛ばした。「きゃん!」と細く悲鳴を上げて、杏は床に尻もちを付く。

その時。一片の花びらがはらりと杏の足元に舞い落ちた。暗闇を跳ね返すような、白く小さな花弁。

「え……?」

戸惑いながら、杏はもう一度バンジークスをよくよく観察する。彼は右手で口元を押さえ、尚も激しく咳き込んでいた。

そんな彼の右手から、はらりはらりと白い花びらが溢れ落ちる。そんな光景に、杏は息を飲んだ。



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