D-Novel:短編
□己自身が知らぬ間に、恋の花咲くこともある
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翌日の、夕刻というにはまだ早い時刻。
杏は両手で抱えるほどの量の本を持ち、よちよちとした足取りで街道を歩いていた。父から頼まれた買い物の帰りだ。ほんの3〜4冊程度と思っていたのだが、どれも専門書とあって1冊1冊が分厚く、そして重い。用意していた風呂敷に包みきれず、こうして抱えて運ぶ羽目になってしまった。貴重な専門書を落とさないようにと、杏は1歩1歩を確実に踏みしめながらふぅふぅと息を弾ませて歩く。日本とは違う石畳は固くて、歩くだけで腰に響いてくるものがある。
その時、左手側にそびえ立つ大きな建物の中から、1人の紳士が颯爽と表へ出てきた。唐突に目の前を横切る彼に、杏は驚いて立ち止まる。大英帝国の紳士らしくステッキを手にし、ハットを目深に被る姿を見上げた杏は、息を飲んで凝視した。声を掛けようかと躊躇うよりも前に、反射的に呼び掛ける。
『あっ!……ぁ、あの!もし!』
『………』
呼び止められた紳士が一瞬足を止めてこちらを振り向く。ちらりと垣間見えた彼の面立ちにやっぱりそうだと確信して、杏は彼へ歩み寄ろうと1歩を踏み出した。
『あの、貴方様は以前…!』
『………』
話し掛ける杏に、紳士は無言で背を向け歩き出す。立ち去ろうとする彼に戸惑いつつも、杏は歩みを速めて追いかける…が。石畳の窪みに足を取られ、盛大に転んでしまった。抱えていた本がどさどさと重い音を立てて地面に散らばり、杏は起き上がるなり慌てて拾う。そんな騒ぎに気付いたのか、紳士はその場に立ち止まり、彼女へと足を向けた次の瞬間。
「大丈夫ですか?」
杏にそう声を掛けてきたのは、黒の詰襟服を着た男性だった。紳士は思わず動きを止める。杏と同郷らしいその男は、日本語を口にしながら散らかった本を拾う手伝いを始めた。そんな光景を暫く見ていた紳士だったが、再び背を向けるとそのまま去っていった。遠ざかる彼に気付いて、杏ははっと顔を上げる。
『もし!あの……少々お待ちを!』
「…バンジークス検事をご存知なんですか?」
最後の1冊を拾い上げて男が問う。行ってしまった彼の背中を見つめて肩を落とす杏は、その言葉に驚いて振り返った。
「先程の御方をご存知なんですか?」
「えぇ。バロック・バンジークス卿…ここオールドベイリーの検事ですよ」
ここ、と言われて杏は左側にそびえ立つ建物を見上げた。屋根の天辺には、天秤と剣を手にした金の女神像が堂々とした佇まいで空を仰いでいる。荘厳な雰囲気に、杏は思わず息を飲んだ。
「バンジークス検事に、何かご用事でしたか?」
「いえ……以前、助けていただいたのでその御礼を言いたかったのですが」
「助けて、いただいた…?」
杏の話に、男は面食らったように目を剥く。思わぬ反応を不思議そうに見つめていると、男は慌てて軽く居ずまいを正した。
「あ。いや……その。バンジークス検事が日本人を助けるだなんて、意外だなと…つい」
「意外――…で、ございますか?」
「………バンジークス検事はその…どうも日本人をあまり快く思ってないようなので」
今度は杏が、男の話に面食らった。が、よくよく思い返してみれば、確かに彼……バンジークス卿の態度はよそよそしいというより刺々しい感じで。それが"日本人嫌い"に起因するのだとしたら――…
「そう……なんですか。でしたら、面向かって御礼を言われるのはお嫌かもしれませんね」
「ですが、バンジークス検事は紳士ですから。貴方のような婦女子に対して剣呑な態度はとらないと思いますよ」
男はそう告げると、杏の手にあった本を取り上げた。「あ」と戸惑う杏をよそに、重い本を軽々と抱えてみせる。
「そして僕も、日本男子としてこんな重い物を持つ婦女子を放っておけないのです。お運びしますよ」
男は自らを成歩堂龍ノ介と名乗り、司法を学ぶために大英帝国へ来たのだと説明する。杏も遅ればせながら自己紹介をし、彼の言葉に甘えて本を運んでもらうことにした。日本ではないが、異性と肩を並べて歩くのはどうにも気恥ずかしくて、杏は成歩堂の隣ではなく1歩斜め後ろを付いて歩く。
「………?」
ふと、足元に視線を向けた杏は、そこに白く小さな花びらが数枚落ちていることに気が付いて立ち止まる。拾い上げてみれば、それは自分が集めている花びらと同じものだった。一面石畳の、こんな所にもあるなんて。新しい発見に杏は胸を踊らせながら袂に花びらを入れたのだった。
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