D-Novel:短編

□己自身が知らぬ間に、恋の花咲くこともある
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白い花びらを1枚ずつ、瓶の中へ入れる。

それが大英帝国へ来てからの、杏の日課だった。



***



「………」

瓶の中へ音もなく落ちた花びらを暫く無言で見つめて、杏は蓋を閉める。元はミルクが入っていた透明の瓶だが、今はその半分が集めた花びらで占められていた。小さく白いそれは、遠く離れた故郷を思い起こさせる。

――…ソメイヨシノ。出会いと別れを見守る日本の花。英国で医学を学ぶという父の助手として日本を離れた時も、この花が見送ってくれた。出航を告げる汽笛の音と同時に春風が強く吹き、満開に咲き誇ったソメイヨシノの花びらが青い空に向かってぱっと舞い上がったあの鮮やかな光景……今でも瞼に焼き付いているほどだ。

言葉にならないほど美しくて。

言葉にならないほど切ない。

ソメイヨシノというただ1つの花に様々な思いを織り込んでしまうのは、この花がこれまで数多の出会いと別れを見守ってきたのを知っているからで。そしてそんな風に感じる自分は、間違いなく日本人なのだと…早数ヶ月になる異国での生活で息苦しくなった心に、そっと教えてくれるような気がする。

息苦しい…そういえば、こうも息苦しく思うのは、慣れ親しんだ故郷とは真逆の環境にいるせいだけではないような気がする。ふとそんな事を思った杏は、瓶に詰めた花びらを無言で見つめた。




凛として

綺麗で

無味で

冷たい



「………」

そんなイメージに思い当たった時、杏の脳裏を過ったのは1人の英国紳士だった。彼は黒いハットに黒いマントを纏っていて、白の要素は何1つ無かったが。そう思ったのは、彼と初めて出会ったのが月夜だったからかもしれない。あの日、帰宅が遅れて夜の街道を急ぐ自分は、辻強盗に襲われたのだ。ぎらつく刃物を向けられ、悲鳴すら上げられないほど恐怖にがんじがらめになった杏を助けてくれたのがあの紳士だった。辻強盗が逃げた後、ひどく不機嫌な様相でこちらを睨み付けるように一瞥してから立ち去った紳士は、腰が抜けて立てない杏に気付くと再び戻り、溜め息をつきながらも抱き上げて下宿先まで送ってくれたのだった。見上げるほどに上背のある紳士に抱えられると視線が一気に高くなり、月が随分と近く感じて…場違いではあるが感動して「わぁ」と感嘆の声を洩らした杏である。

蒼くて白い月の光。凛としていて、でも冷たさを感じるその光に照らされた紳士は、とても神々しく見えた。こんなにも綺麗な人は見た事がないし、そんな紳士にこうやって抱えられている自分は、まるで前に読んだグリム童話の姫君にでもなったかのようだ。

――…自分の器量が姫君に値しないのは重々自覚しているし、ましてや日本の小娘が外国の姫とは別物である事もよく分かっている。が、あの紳士に送ってもらったあの夜は、胸に宿るときめきがなかなか治まらなかった。怖い目に遭ったというのに、杏は夢見心地のまま眠りに付いたのだった。

「………」

そんな事を思い出してから、杏は瓶を枕元のサイドテーブルに置いてベッドに横になる。眠る体勢になっても尚、一度思い出した紳士の姿は脳裏から消えることなく留まっていた。

彼は己の素性も、そして名前すらも明かさなかった。杏を目的地まで送り届けるやいなや早々に去っていってしまった。助けてもらったというのにろくにお礼もできず、何となく心に引っ掛かるものを抱えながらあれから2ヶ月が経った。

紳士は一体何者なのだろう。

童話のように、実は自分が見た幻だろうか。

正体の分からない紳士の姿をぼんやりと思い返しながら、杏はゆるゆると目を閉じた。



***
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