D-Novel:短編
□れいじくんのおつかい
4ページ/4ページ
それなのに。
マンションに帰宅して数分後、御剣は仁王立ちする杏の前で正座して俯くという、想像の斜め上以上の事態に陥っていた。
「では、被告に質問します。これは何ですか?」
「……玉ねぎ」
「――…」
「……です。」
「そうです。玉ねぎです。それでは、この玉ねぎ、ここにいくつありますか?」
杏の声はあくまでも平静だ。しかしいつも魅了してしまう笑みすら浮かべず、むしろ冷ややかな眼差しで御剣を見下ろしている。杏が両手で横抱きに抱える徳用玉ねぎの赤ネットを、御剣はおずおずと見つめた。
「………じ、15個ほど」
「――…」
「……です。」
「そうです。およそ15個くらいです。では、改めて被告に質問します。何故この玉ねぎを買ってきたのですか?」
「や、安かったから――…です」
「確かに。15個入って800円なら、お得ですね。しかし…」
「………」
「この大量の玉ねぎを消費するのに、私と被告の2人がかりで何日ほど掛かるのか、想像出来ませんでしたか?」
「ぐっ…!」
「私も毎日ここに居る訳ではないの、分かってますよね?被告1人で晩御飯を食べる事もありますよね?…消費しきれると思って購入したんですか?」
「そ、その…安かったからで――…」
「消費する前に傷む物も出てくる。そうすると捨てざるを得ないですね?…どっちが得ですか?」
「――…さ、3個入りの方、です。」
「今日から毎日、玉ねぎ祭りです。分かりましたね?」
「あぁ」
「――…」
「…わ、分かりました」
「では、次の質問に移ります。これは何ですか?」
「…太陽の涙、です」
「包装紙には太陽の雫って書いてますけど。さっきも聞きましたが――…これ、いくらですか?」
「1玉500円です」
2回目の告白だというのに、杏はうっと呻いて眉根を寄せる。やはり何度聞いても聞きなれない値段設定だ。
「私はトマトを買ってきてと被告に言ったはずです。太陽の雫とやらを買ってこいとは言ってません」
「し、しかし…それも同じトマト――…」
「違います。これはトマトでも、太陽の雫という名前です。私は"トマト"を買ってきて欲しいと言ったのです。違いますか?」
「……違いません」
「1玉500円。5個で2500円…それくらいあればちょっとリッチな昼食が食べられます。トマトじゃなくて」
金銭感覚の違いを指摘されると、御剣も項垂れるしかない。そして杏は、最後にして最大の謎を手に取ると御剣に見せた。
「……コレ、なんですか?」
「…た、匠の奇跡包丁です」
「私は包丁を買って来いと頼みましたか?」
「…いいえ」
「では、何故わざわざ頼みもしてない包丁を買ってきたのですか?」
「そ。それは凄い包丁なのだ!その軽さからは想像も付かない切れ味で、トマトから角材からなんでもサクサク切る事が出来るのだよ!」
「被告は…角材を包丁で切るのですか?」
「うぐっ!」
「私は今まで、被告宅の食卓にぐちゃぐちゃに潰れたトマトしか出してませんでしたか?」
「…い、いや」
「弘法筆を選ばず、ということわざは知ってますか?」
「う。は――…はい」
杏は暫く御剣を見下ろしていたが、不意にはぁと重く溜息をついて項垂れる。そして謎の包丁をテーブルに置くと、財布を取り出して中身を確認した。
「まさか諭吉さん1枚消えるとは思わなかった…」
「そ、その――…すまない。間違えて買ってきた物は、今すぐ返してくる」
「あのスーパー。今日は18時までしか開いてません。棚卸だから」
御剣は思わず顔を上げて時計を見た。あと1、2分で18時。下手したらもうシャッターは降りてしまっているかもしれない。
しん、と心底まで冷え切った空気が、御剣の肩に重くのしかかった。
「…杏。本当に、すまない」
「……いいよ。怜侍君に頼んだのは私だから」
こんな機会でもないと、こんないいトマト食べられないだろうし…と、杏はトマトを手にとって苦く笑った。ようやく見せてくれた笑顔。御剣は思わずほっと安堵の微笑を浮かべる。
が…
「でも。怜侍君の意思で買って来たんだからね」
「ム…」
「ちゃんと返してね。諭吉さん」
「こ、心得た」
これを以て、今回のおつかいは終了した。
この日の夕食は、御剣リクエストのハンバーグと、嫌味のように玉ねぎとトマトをふんだんに使ったサラダが出てきた。
ついさっき、御剣がやらかしたばかりの苦い失敗を容赦なく刺激するサラダだったが
それでも、トマトは美味しかった。
これ以降、御剣がおつかいに出る際は財布すら持たされず、ワンコインのみを手に持って行く事になったのは言うまでもない。
***END.