D-Novel:短編
□おふろあひる
3ページ/5ページ
「とにかく。アレ、大事にしてくださいね。私はもう帰りますから」
「………は?」
ソファに落ち着くなり唐突に変わった話題に、私はぽかんと彼女を見た。
「帰る…?」
「今から夜行バスとか乗り継いで実家帰るんですよ。あれ?言ってませんでした?」
「…聞いてないな」
思わず渋い顔で答えると、杏はからからと明るく笑いながら「ごめんごめん」と適当に謝った。
…いつもそうなのだが、というより性格なのだろう。彼女はとても適当で軽い。いや、男女関係のアレは軽くないようだが、こういうスケジュールの有無に関しては特に適当だった。
「そんな訳で――…ワタクシ、実家に帰らせていただきます」
「………っ」
不意に真顔でそんな台詞を言うものだから、飲んでいたミネラルウォーターが軽く気管に触れて不覚にもむせてしまった。
杏はそんな私の姿に声を立てて笑う。してやったり、といった具合だ。
「だーいじょーぶですよ〜。1週間くらいで帰ってきますから」
「ごほっ…ず、随分と長い滞在だな」
「ウチ、すんごい田舎で移動だけで1日かかちゃうような所なんですよ。2泊3日とかじゃ、1泊の弾丸ツアーみたいな感じになっちゃうんで、帰る時は長く帰る事にしてるんです」
ふむ。なるほど。筋が通る話に1人納得してると、杏の声が続けてこう告げてきた。
「そういう訳なんで、携帯も繋がりませんから」
「え?」
「実家、携帯の電波届かないんですよ…っていうか、田舎自体電波ないんですけど」
「……君に対して緊急の連絡をする場合は、どうすればいいんだ?」
「んじゃー、実家のイエデンの番号教えときますね〜」
「……いや、いい」
彼女と私は同業者ではないから、緊急の連絡はないだろう。実際、付き合ってから今まで差し迫った連絡があった事はない。
しかし彼女は「いいからいいから念の為〜」と、歌うように呟きながら実家の電話番号をメモし、その紙を私の手に握らせてきた。
「んじゃ、帰ります〜お邪魔しました〜」
「ま、待て!こんな時間に、1人でバス亭に行くのか!?」
「バス停じゃなくて駅のターミナルですけどね。夜行バス出てるの」
「バス停でもターミナルでもこの際関係ない。そこまでどうやって行くつもりなのだ?歩きか?」
「歩きでもいいかなーって思ってたんですが、気になるならタクシーでも拾いましょうか?」
適当すぎる彼女の回答に、思わず頭を抱える。深夜とも言える時間帯だと言うのに、この考え無しな行動にはさすがに開いた口が塞がらない。
私は溜息と共に立ち上がり、すたすたと杏の脇を通り過ぎると玄関へ向かった。
杏はその場に留まったまま、私の行動を右から左へと視線で追う。
「御剣さん?」
「送る。車に乗りたまえ」
「え?いや、いいですよ。御剣さん、お風呂入ってゆっくりしてるところでしょ?」
「いいから。乗りたまえ。このままでは気になってゆっくり出来ん」
玄関横のクロークから掛かっているジャケットを羽織り、靴を履きながらそう告げると、杏がようやくとたとたとこちらへやってきた。
「……何を笑ってる?」
顔を上げた時にそこにあった彼女の笑みに、訝しげに眉を寄せる。彼女は肩を微かに震わせて何やら嬉しそうに「ふふふ」と息を零した。
「私の事、気になりますか?」
「………いいから。来るんだ」
言葉に刺を含ませて呟くが、彼女はまた「ふふふふ」と嬉しそうに息を弾ませて靴を履き始めた。
***