I want youの使い方

□Last
1ページ/5ページ




あの台詞は

この瞬間のために――…



***



そして、全ての準備が整った。

夜会の開始時間ぴったりに大広間の上座へバンジークスが立ち、集まったゲスト達に向かって挨拶を始める。來はというと、大広間ではなくその上座の端っこ…パーテーションの影に隠れるように立っていた。合図があるまでここにいろという、ラディからの指示だ。ちなみにそのラディも、來に付き添って隣に立っている。

『御主人様が挨拶の途中で、貴方をお呼びします。そのタイミングでここから出て皆様の前に移動し、一礼してください』

『……何で?』

思わず質問する來。自分のお別れ会だと聞いていたが、何だか…違うような気がする。疑いの眼差しに、ラディはすっと目を細めた。小言を言われる前触れだと察して、來は口を噤んで身構える。

『新たなる門出を迎える者を、皆様にご紹介するためです。今後のために自身の素性を知ってもらうのです』

『…そうなの?』

『貴方は知らないでしょうが、バンジークス家といえば英国でも屈指の上流階級者。そこで従事していた貴方の素性は、その名に懸けて保証すると皆の前で宣言するのですよ。だから…御主人様が呼んだら、ここから出て皆様に一礼なさい』

『………はい』

確かに。メイドが他の屋敷へ転職するには、主人が書く"身上書"が必要不可欠だとノーラが教えてくれた事がある。そこに書かれる内容如何で、転職の可否が決まるという。彼はその"身上書"代わりにこんなパーティーを開いたのだろうか。

……ちょっと大袈裟な気もするが。

『…………それでは、改めてご紹介しよう。ミス・ライ イチガヤだ』

『ほら、呼ばれましたぞ。先程も言ったように、前に出て一礼』

『は、はい!!』

ラディに背中を押され、來はパーテーションの影から出ていく。一礼しようとゲストの方を見るが、そこでぎくりと体の動きは止まってしまった。頭の中も同時に硬直する。

ささやかな規模のパーティー…そう聞いていた。だが実際は、大広間を見渡す限り…しかも奥の方までも人でいっぱいだった。そんな大勢の人間が、自分に注目している。皆一様に目を丸くさせ、驚愕の言葉を口々に呟いている。それがざわざわと空気を震わせて、それに晒される自分自身の足元もがくがくと震えてきた。

『――…礼!一礼!一礼なさい!』

呆然とする來に、パーテーションの影にいるラディが小声で指示を飛ばす。その声にはっと弾かれたように我に返った來は、慌ててぺこりと頭を深く下げた。途端、『それはニホンの一礼でしょうに!スカートを軽く持ち上げてから膝を少し曲げるんですよ!』と、これまた小声の叱咤が飛んでくるが、やり直すよりも先にバンジークスが話し始めてしまった。苛立たしげなラディの視線を感じつつ、來はおずおずと顔を上げる。

『……ご覧の通り、彼女はれっきとした東洋人である。しかし』

バンジークスは來を一瞥してから、ゲスト達を見渡した。

『階級に全てを縛られる我々英国人と違い、彼女は何物にも縛られない自由な人間だ。自由とは無限の可能性を秘めている。その存在が今後、英国の更なる進化と発展を後押ししてくれると…私は思うのだ』

彼が、自分に対してそんな風に思っていたなんて…と。來は驚いたようにバンジークスを見つめる。

『これからの時代、国や人種・階級といった区別に縛られるべきではない。大英帝国が今後も世界のトップであり続けるには、そういった区別に己自身が囚われず、広い視野を持って物事を見ていく必要がある』

煌々と輝くシャンデリアの下で堂々と語るバンジークスの姿を、來は一心に見つめる。気高くて、なんて美しいんだろうか。

『――…おこがましいかもしれないが、私と彼女がそんな"象徴"となれたらと思う。今宵、ここへご参集された方々に私の決意を見届けていただき、今後を見守って下されば幸いだ』

バンジークスの挨拶に見入っていた來の傍に近寄る気配を感じ、思わず振り返るとパーテーションの影にいたはずのラディが立っていた。彼は赤葡萄色の液体が入ったワイングラスを差し出し、來は思わず手に取る。

『……これ、ワイン?』

『えぇ。御主人様自ら葡萄園へ赴き、選び抜いた当家が誇る逸品です』

ぽそりと呟くと、ラディが頷きつつ答える。來は深い色合いの液体を興味深そうに見つめ、再び呟いた。

『………お酒、飲んだことないんです』

『ならば、一口だけお飲みなさい』

ラディの進言に、來は少し驚いたように目を瞬かせる。ゲストらにもワインが行き渡ったのか、バンジークスは手にしたグラスを軽く掲げた。

『…女王陛下と、これからの未来へ』

静かに、そして厳かに告げられた乾杯の合図に、一同も手にしたグラスを軽く掲げる。繊細な造りのグラスを打ち合わせず、アイコンタクトのみを交わしてワインに口を付ける。來も皆と同様にワインをほんの一口だけ含んだ。舌の上に広がる深い苦味と、胸の奥でじわりと滲む熱に、來は戸惑いつつ目を丸くさせた。



***
次へ
前の章へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ