I want youの使い方
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同日同時刻。
バンジークスは夜のロンドン市街地を黙々と歩いていた。
『………』
局を目指すバンジークスの表情は冴えない。寝食を惜しんで捜索した5日間に対し、仮眠2時間では疲労は完全に回復しない。しかし、それだけが理由ではない。市内の売春宿を全て調査しても、來の手掛かりは何一つ出てこなかった。皆目見当がつかない状況と、脳裏を巡るあらゆる推測が、彼の表情を暗くさせているのだった。
…少なくとも、売春組織による拉致ではないようだ。とはいえ、こちらが把握している宿に限った話であって、モグリの…いわゆる非合法な組織が拉致した可能性もある。あとは人身売買組織。彼女の労働力目当てで売買されたのなら、まだ生存の見込みはあるのだが……黒魔術に被れた貴族が、儀式用の生け贄として買うという例もある。もしそうだとしたら、彼女はもう――…
『……っ』
どろどろとした黒い予感が胸の内でうねる度に、バンジークスは奥歯をぐっと噛む。職業柄、様々な事件を目の当たりにしてきただけあって、様々な予想が思い付く。どれも悪い予想だが。
いなくなって、やがて6日目。"ここ"にいるのなら、生きている可能性は低い。もし生きているとしたら、それは……
【元の場所へ帰ったという可能性もお忘れなきよう】
『………』
ふとラディの言葉が脳裏を過り、バンジークスは思わず歩みを止める。來が使っていた使用人室をくまなく探したが、結局"あの本"だけは見つけ出すことが出来なかった。ワインレッドの表紙に国章が刻まれたシーリングスタンプが付いた…大英帝国の歴史書。彼女が元の世界へ帰るための鍵となる本。それが彼女と共に消えたとなると……
そんな結論を振り切るかのように、バンジークスは再び歩き出した。決め付けるのはまだ早い。全ての可能性を吟味してからでないと……先程より足早に歩くバンジークスは、ふと前方を見てまた立ち止まった。ここから遠い…場所的にいうと市外に位置する遥か先に、ぽつんと妙に明るい光が見える。星にしては随分と低い。それに、まるで燃えるように揺らめいて見える。そんな不思議な光を、バンジークスは目を細めて凝視した。
『………なんだ…?』
なんだ?
なんだろうか、この……
胸がざわつくような…まるで
呼ばれているような感覚は……?
『………』
闇夜に浮かぶ、点のような光。瞬きもせず見つめていたバンジークスの背後から、1台の馬車が近づく。オムニバスではなく、貴族の持ち物らしい2頭立てのキャリッジだ。そんな気配を感じ取ったバンジークスは、徐に馬車の前に飛び出した。
『うおっ!?どっ、どおぉ〜!!』
突然前方に躍り出てきた男に、御者は大慌てで手綱を引っ張る。馬は前足を荒々しく跳ね上げ、甲高く鳴いてからバンジークスの目の前で止まった。暫く呆然と手綱を握り締めていた御者の男だったが、次の瞬間『バカがどこ見てやがる!?死にてぇのかテメェ!!』と怒鳴り散らした。バンジークスは泰然とした様子で、軽く黙礼する。
『いきなり力ずくで進路を妨害した無礼、どうかお許しいただきたい』
『………っ!!!!しし、し、しっ…死神!?』
飛び出した男の正体にやっと気付いた御者が、一転青ざめて凍り付く。するとキャリッジ内から『何の騒ぎだ!?』と不満めいた声が上がり、バンジークスはそちらへ移動すると断りもなくがちゃりとドアを開け放つ。中に居たのは、立派な身なりをした壮年の男性が1人。見覚えのある顔に、バンジークスはハットを取るとうやうやしく頭を下げた。
『…これはこれは、伯爵殿。最近何かと噂の貴公にお会いできるとは』
『…………っ。ば、バンジークス卿』
それまで苛立たしげに顔をしかめていた伯爵だったが、相手がバンジークスだと理解するやいなや、座ったまま後ずさる。彼は確か…脱税疑惑でヤードが水面下で調査している男だ。そんな事を思い出しながら、バンジークスは怯える伯爵を見据える。
『火急の用件につき、ご協力をお願いしたくこの度呼び止めた。目下の者からの要請など不躾で申し訳ないが…ご協力頂けるだろうか?』
『え?!え。えぇ、もっ、もちろん…ワタシに出来ることならば喜んで!それはもう!それで、ご用件は?』
キャリッジ内の隅っこまで後ずさった伯爵は、首をがくがくと縦に振りつつ問いかける。バンジークスは、視線をすいっと馬へ向けた。
『馬を借りたい』
『うっ、う…馬?馬というのは…このキャリッジを引く、馬…??』
『左様。ご協力頂けるだろうか?』
『え、ええ…もちろん!1頭とは言わず2頭ともどうぞ!』
『…1頭だけでいい』
バンジークスは薄く笑って『ご協力、誠に感謝する』と胸に手を当てて深く頭を下げると、すぐさま馬の方へと向かった。やり取りを聞いていた御者が、既に馬1頭を馬車から外し、その手綱を戸惑いながらバンジークスへ差し出す。
『あの…サラブレッドとはいえ乗用馬車を引く馬ですので、鞍はないのですが』
『構わん。箍と手綱さえあればそれでいい』
御者から奪うように手綱を手にしたバンジークスは、馬の鬣を掴んでひらりと馬に跨がった。突然の騎乗者に、それまで静かだった馬は嘶いて暴れだすが、バンジークスが何度か手綱を操ると途端に元の従順な馬に戻った。華麗な捌きに、御者と様子を見に外へ出てきた伯爵は、揃って彼をぽかんと見ていた。
『………』
バンジークスは顔を上げ、闇夜に浮かぶ光の点を見つめる。最初に見た時よりほんの少しだが大きくなっている。そして大きくなった分だけ更に強く呼ばれているような気がする。理由は分からないが…己の感覚に全てを委ねて、バンジークスは掛け声と共に馬の横っ腹を蹴ると、光を目指して一直線に駆けていった。
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