I want youの使い方

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夜も更けた頃。

廃墟に、ランプを持つ医師が入っていった。



***

ここはロンドン市街地から少し離れた丘にある、かつては病院だった建物だ。経営悪化の果てに捨てられてしまった病院は年月と共に荒れ果て、ネズミと蔦の住み家と化している。元病院という経歴からか近寄る人もおらず、特に夜はその不気味さゆえに浮浪者すらも寄り付かない。そんな建物の中を、医師がたった1人、行き先をランプで照らしながら歩く。夜の廃病院という恐ろしい雰囲気に飲まれることなく、むしろ鼻歌を歌い出しそうな上機嫌さで先を進んでいた。最上階…屋根裏だが。そこに自分の"女神"がいると思うと、1歩1歩近づくにつれ気持ちが高ぶって、唇の端に笑みが滲む。

――…"女神"を迎え入れて6日目。最初は嫌がっていた投薬も、今はされるがままに受け入れてくれる。これまで頑なに協力を拒んでいた彼女が落ちる日も近い。自分の壮大な計画が実行に移される日は、もうすぐそこまで来ているのだ。

『ふっ――……ふふ、っふ…ふふふ………ふふふふふふっ』

"女神"がいる部屋へ続く階段を上がりながら、医師は堪えきれない笑いで肩を震わせる。女神に"予言書"を読んでもらい、そこから得た情報を少しずつ公表し――…最初は信じてもらえないだろうが、当たるにつれて人々は自分に注目しだす。やがて、貴族共は金を積んででも予言を聞こうとするはずだ。

日々の貧しさに抑圧されている労働階級の奴らは、次々に予言を当てる自分を"神"と畏れ、救済を求めるだろう。目に見えない神よりも、実際に目の前で先を照らす自分の言葉を望むようになるのだ。

そしてそのうち、政府も注目し始める。確実に先を予言する自分を迎え入れ、国民からの熱烈な後押しで国を統べるようになるだろう。誰もが自分の言葉を望み、欲し、受け入れる。全ての人間が、自分の言葉を待ち望む。操り人形のように容易く言うことを聞くようになる。

金も地位も、大英帝国も…そして世界も。

この世の全てが、自分の思い通りになるのだ。



『…ふふ。ふっふっ……ふふふふ――…』

屋根裏の出入り口を前に、医師はようやく笑い声を飲み込み、大きく深呼吸する。階段を登った先にある天井板を押すと一部が真四角に大きく持ち上がり、屋根裏へ続く入り口となった。中へと入り込んだ医師は、入り口は開けたまま奥に歩みを進める。ぎしぎしと床が軋み、やがてランプの明かりがベッドを静かに照らし出した。

『………やぁ、よく眠れたかな?』

ベッドに寝そべるシーツの膨らみに、医師は優しく言葉をかける。頭まですっぽりと被さるそれは、身動ぎ1つしない。いつもなら目が覚めている頃合いなのだが、今日は特に薬が効いているようだ。そう考えながら、医師はそっとシーツを捲る。

『……っ、え?』

医師の柔らかな笑顔が、戸惑いに強ばる。シーツを捲った先に現れたのは、丸めた毛布だった。そして、そこには毛布しかなかった。思わぬ光景に、医師が絶句して固まっていたその時――…

「……えいっ!!」

『!ぐあっ!?』

医師がこちらを振り返るよりも先に、來は手にした大英帝国の歴史書を彼の後頭部目掛けて思いっきり叩きつけた。分厚い本から繰り出される破壊力は、ここへタイムワープした時に実証済みだ。打ち込まれた衝撃に、医師は目の前のベッドに倒れ込む。手に持つランプが反動で前方に飛び、そのまま床へ落ちてかしゃんと割れた。

「はぁ…はぁ……はぁ…」

乱れる呼吸をそのままに、來はベッドに突っ伏したまま動かない医師を凝視する。立つのもやっとという様子だが、がくがく震える足に力を込め、ふらつきながら開けっぱなしになっている出入口へ向かった。造りからして屋根裏なのは分かるが、ここがどこで何の建物か分からない。しかし、とにかくここから何がなんでも逃げなければ…!



『…………っ、…………ふ。ふ、ふ。ふ…ふふふふ、ふふふふふ……まさか………このタイミングで…こんな反撃を受けるとは…』

「………」

背後から遠く聞こえてきた医師の声に、屋根裏から階下へ降りようとしていた來は、びくりと全身を震わせた。体の内から沸き上がる恐ろしさを押さえようと、抱える歴史書をぎゅっと胸に押し付けて階段を1つ1つ降りていく。その間も、医師の声は続いていた。ゆっくりと…しかし着実に自分の後を追ってくる気配に、來は必死になって階段を降りる。

『抵抗する気力が残ってたなんて……完全に油断してたよ………さすがは"女神"だ』

「……っ、わっ!?」

次の瞬間。降りていた來が、階段を踏み外して一番下まで一気に転がり落ちた。どすんと勢いよく床に叩きつけられ、來は痛みに呻く。それでも、もがきつつ何とか立ち上がると、ふらふらと壁に寄りかかりながら歩き出した。投薬の影響下にある彼女の体を動かしているのは、もう気力と根性だけだ。

助けを待つだけじゃ、状況は変わらない。

逃げないと。

とにかく、ここから絶対逃げる…!

「はぁ…はぁ……はぁ……!」

がむしゃらに外を目指す來。歴史書をしっかり抱えて、とにかく先を目指した。











殴打を受けた後頭部を擦りながら、医師もまた屋根裏を後にする。反撃を受けても尚、医師は不敵な笑みを浮かべていた。やがて、逃げた來を追う彼の背後が妙に明るくなり、ぱちぱちとはぜる音が小さく鳴り出したのだった。



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