I want youの使い方

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そして、その日の午後。

ラディは自室の机で、分厚い帳簿と向き合っていた。



『――…』

普段は掛けない丸眼鏡を鼻先にひっかけるように掛け、眉間の深いシワと共に帳簿を睨み付けながら万年筆で書き込んでいく。しかし。計算が合わないのか、訂正線が帳簿の至るところに書かれていた。そうやって何度目かの訂正線を引いたところで、ラディは大きな溜め息をつくと眼鏡を外し、頭をがしがしと掻きむしる。

『あぁああぁ、もう、何で僕がこんな事をしなければならないのか…っ!』

思わず漏れてしまった愚痴。そもそもこの帳簿は、只今絶賛行方不明になっている娘・來に任せていた帳簿だ。とはいえ、元々自分の仕事であるにもかかわらず遅々として進まない苛立ちに、帳簿に向かって万年筆を放り出すラディである。書いてある数字がぼやけてちっとも見えやしない。

『全く…かのバンジークス家が小娘1人に振り回されているなど、聞いて呆れますぞ』

來が忽然と消えてからというもの、屋敷まるごとまるで死に絶えたように沈んでいる。ノーラは事あるごとに自分を責めては泣いているし、主であるバンジークスに至っては『局に戻る』と言ったあの日以来、屋敷に帰ってこない。心配になって局に問い合わせると、彼は執務室に籠りきりらしいと聞かされた。これまで仕事が長引いて外泊する事はあった。が、伝言もなしに屋敷を空ける事は初めてだ。

何もかもがいっぺんに様変わりしてしまった現状に、ラディは深い深い溜め息をつくぐらいしか、やることがなかった。

『………』

ふと、窓の外を見る。角部屋に位置するここは、屋敷の表玄関と裏口とが見渡せる場所だ。30分ほど前にノーラが裏口から外へ出掛けたのを見かけたきり、何の変化もない。くすんだ灰色の空を暫く眺めていたラディは、何度ついたか分からない溜め息をつき、外した丸眼鏡に手を伸ばした。

『……ん?』

目の端に異変を捉え、ラディは再び窓の外へ視線を向ける。表玄関の門扉を押し開ける人影…見慣れた主の姿を確認した瞬間。ラディは弾かれたように椅子から立ち上がると、掻きむしって乱れた頭髪を整えながら駆け足で玄関ホールへ向かったのだった。



***



『おかえりなさいませ、御主人さ――っ!』

実に5日ぶりの帰宅となった主を意気揚々と出迎えたラディであったが、彼の姿を一目見るなり絶句する。無精髭をこさえた顔面。疲労で淀んだ目の下にはくっきりとクマが浮かび上がり、いつもはキレイに撫で付けた髪も今は見る影もなくバサバサだ。風呂にすらまともに入ってないらしく、すえたような体臭に甘ったるい匂いとが混じりあって、ラディは僅かに顔をしかめた。

『………』

世界に名高い英国紳士とはかけ離れた主の風貌に愕然とするラディを押し退け、バンジークスは無言のまま邸内へ入る。そこでやっとラディは我に返った。

『ごっ、御主人様!なんというお姿…!お待ちください。今、湯殿のご用意を……』

『いや。いい…水をくれ』

掠れた呟きに、はっと立ち尽くすラディだったが、すぐにキッチンへ駆け込むと彼の指示通りに水をなみなみと入れたグラスを持って戻ってきた。バンジークスは受け取るなり中身を一気に煽り飲む。ごくごくと鳴る喉に、口の端から溢れたのか水が伝い落ちていく。なりふり構わない荒々しい仕草に、ラディは唖然としたまま口を開いた。

『よもや…あの日からずっと、娘の行方を……?』

『………』

濡れるのも構わず1杯を飲み干したバンジークスは、空になったグラスをラディへ返すとくるりと踵を返した。出掛けてしまう雰囲気を察したラディが、慌てて彼を引き留める。

『おっ、お待ちください!お出になる前にその身なりを整えましょうぞ!皆の笑い者ですぞ!』

『構わん。笑いたいヤツは笑わせておけ』

『ならば、どうか休息をお取りください!いつから休まれてないのか存じませんが、このままでは倒れてしまいます!』

必死に追いすがるラディに一瞥もやらないまま、バンジークスは唐突に立ち止まる。大きな玄関扉を前に暫く無言でいたが、やがて呻くように呟いた。

『…仮に。イチガヤが今、誰かからの救助を必要とする状況にあるとして――…私は暢気に茶でも啜れというのか?』



【ライちゃんがどうなってしまったのか分からないのに!暢気に質屋巡りなんて…アタクシは出来ません!!】



『………』

ラディの脳裏で、バンジークスが吐露した台詞と、ノーラの涙声の絶叫が重なる。言葉を失った執事の脇をすり抜けて、バンジークスは玄関扉を押し開けた


――…その手を、ラディが力強く掴む。はっとなって振り向いたバンジークスの視界に、憤怒の形相でこちらを睨み付けるラディの顔があった。

『全く…!オールドベイリーの死神と恐れられた貴方様が、小娘1人になんてザマ…!』

『――…』

『よろしいですか!?仮に、あの小娘が誰かからの救助を待つ状況にあるとして…そんな時に御主人様がお倒れになったら、一体誰が娘を助けるというのですかっ!?』

それまで暗く淀んでいたバンジークスの瞳が、息を吹き返したかのように見開かれる。驚く主人を見据えながら、ラディは尚も声を張り上げた。

『己自身で手一杯なその状態で、他の者に手を差し伸べる事など出来ません!この世で娘を助ける事が出来る人物が御主人様だけならば、まずはご自身をお助けなさいませ!!』

『………』

執事からの叱咤をバンジークスはまじまじと見つめ、ラディも弁解する事なく主を真っ直ぐ見る。そうやって互いを見ていた2人だったが、やがてバンジークスが溜め息を重苦しく吐きながら目を伏せた。

『………分かった。しばし、仮眠を取る。2時間後に起こしてくれ』

『かしこまりました…』

渋々と折れた様子の主に、ラディは頭を深く垂れる。

『御主人様に対し声を荒げてしまった事、誠に申し訳ございません。罰はいくらでもお受けする覚悟です』

『………いや。お陰で頭が冷えた』

礼を言う、と付け加えてからバンジークスはようやく玄関扉に背を向けると、寝室へ続く階段へ歩き出した。そんな彼に、ラディが付き添う。

『…娘の手掛かりは、何か分かりましたか?』

『………取り合えず…市内の売春宿は全て当たってみたが、ニホン人がいる様子はなかった。聞き取りもしたが、東洋人が個人で客を取っているような光景は見てないらしい』

売春婦に聞き取り……だから、彼から甘ったるい匂いがするのかと合点がいったラディだが、市内だけでも数百以上あると言われる売春宿を全て調査したのかと思うと、想像するだけで途方に暮れてしまう。

何故。

何故、そこまで――…



『御主人様』

『分かってる。今は、少し休む』

『えぇ、勿論でございます。ですが……娘は元々、ここの人間ではございません。元の場所へ帰ったという可能性もお忘れなきよう』

辿り着いた主寝室のドアを静かに開けつつ、ラディは諭すように告げる。バンジークスは目を伏せたまま、その言葉に対して何も答えず中へ入っていった。



***
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