I want youの使い方

□13
2ページ/5ページ


時計を持っていないので正確な時間は分からないが、とにかく随分と遅くなってしまったと屋敷の門扉をそっと抜けて庭へ入る來。こんなに遅くなってしまって、ノーラは酷く心配しているだろうか…でもラディは目をつり上げてカンカンに怒っているはずだ。キツイお説教は勘弁したいところだがそうはいかないだろうなとどんより肩を落としつつ、使用人エリアに続く裏口へ足を向けた時だった。



ばたん!



「!」

不意に開かれた玄関扉に驚いて振り向くと、そこには大きな人影が立っていた。部屋の明かりが逆光になって顔がよく見えない…が。こちらを見たらしい人影は一瞬だけその場に立ち尽くしたものの、すぐさまずかずかと足早に歩み寄ってきた。ぐんぐん迫る人影を立ち止まったまま見ていた來だが、近付いたことによってようやく判別できたその顔を見た瞬間、はっと息を飲む。



――…バンジークスだ。



「…………」

普段は感情の起伏が乏しい彼の表情は、今は激怒していることがはっきりと分かる。瞳の奥に迸る怒りを見たような気がして、來は自分がしでかしてしまった事の重大さをようやく思い知った。

『ゴッ、ゴメンナサイ。わたし――…痛っ!」

バンジークスは來に近づくなり手首を無言で掴み上げ、引きずるようにして屋敷へ戻る。もつれそうになる足で懸命に付いていく來だったが、開けっぱなしだった玄関扉から中へ乱暴に放り込まれた。小さな悲鳴と共に冷たい床にごろりと転がった來が起き上がるよりも先に、ステッキの先が目の前に刺さらんばかりの勢いで叩きつけられる。ガン!と硬い音が上がり、來はうつ伏せのまま恐る恐る上を見た。

『……』

「――…」

エントランスホールにはラディとノーラがいたが、彼らに気を向ける余裕はない。こちらを見下ろすバンジークスの凍てついた瞳に、胃の底が冷えて縮み上がる。來の眼前にステッキを叩きつけたまま暫く黙っていた彼は、こちらを見据えながらゆっくりと口を開いた。

『……今の今まで――…一体どこで、何をしていた?』

低い声音が心底恐ろしい。これならラディの説教の方が数千倍マシだ。恐怖で強張る心臓の鼓動が胸の奥から痛いくらい響いてくる中、來は『こっ、公園に…いましタ』と掠れた声で答える。途端、バンジークスの瞳が厳しさを増した。

『公園にいた、だと?』

『っ、ハイ…!すみませんでシタ……ッ!』

『……公園で何をしていたら、こんな時間になるというのだ?』

『…………』

口を噤む來を、バンジークスは無言のまま見据える。息も詰まりそうな威圧感から逃げるように、來は視線を少しだけ伏せてから小さく小さく答えた。

『………………空を……見て…マシタ』

『――……』

あんな結末になった"本当の事情"は話せない來の、間の抜けた言い訳にホール全体が気まずい空気に包まれる。明らかに呆れ返った様子を肌で感じて、來はますます視線を伏せた。バンジークスは俯く彼女を視線で縫い止めるように睨みながら『…………空、か』と静かに呟く。

『何が見えた?』

『…………そ、空が。その……星、とか』

『星が出ている空を見て、夜だとは気付かなかったと?』

『………………』

再び黙ってしまった來を暫く見ていたバンジークスだったが、やがて疲れきったように溜め息をつく。その重く深い響きに、來の肩口がぴくりと震えた。

『………もういい』

『!』

吐き捨てるような呟きに來がはっとなって顔を上げると、コツコツと靴音を鳴らしながら足早に去っていくバンジークスの後ろ姿が目に入った。遠ざかる彼を、來は呆然と見つめる。

「……………」



憂慮の言葉も

なじる言葉も

――…責める言葉すらも。



彼は何1つ………自分に言わなかった。



『………ライちゃん、怪我もなく無事でホントに良かったわ。本当に…本当にみんな心配したのよ』

バンジークスが立ち去ってから、ノーラが急いで來の傍に駆け寄る。未だに起き上がらない彼女の傍に膝を付き、肩を優しく撫でた。

『さぁさぁ、お腹空いたでしょう?ライちゃんの分もちゃんとあるから心配しないでね。使用人ホールの暖炉にはまだ火は入ってるから、そっちで食べましょう。あぁ、こんなに冷えて可哀想に』

『………ゴメンナサイ』

『いいのよ、いいのよ、ライちゃん。貴方が無事で、本当に良かった』

『ゴメンナサイ……ゴメンナサイ……ゴメンナサ――…ッ!!』

謝罪を繰り返す唇が小刻みに震えだし…その次の瞬間。來は床に突っ伏してわぁわぁと声を上げて泣き出した。伏せた体を、ノーラは慌てて抱き締める。

『まっ、まぁまぁまぁ…泣かないでライちゃん。ちょっとウッカリしちゃう事は誰にでもあるのよ。だからね、大丈夫よ』

懸命に慰めるノーラの言葉など耳に入らない様子で、來は号泣する。頬に触れる冷たい床以上に冷たかった彼の瞳の鋭さが、瞼にちらつく。彼に、失望されたのだろうか…そう考えるだけで心が張り裂けそうで、來はますます声を上げて泣くのだった。



***




一向に泣き止まない來を、ノーラは支えるようにして使用人ホールへ連れて行き、テーブル席にひとまず座らせるといそいそとキッチンに消えて行った。やがて温め直した夕食と淹れたてのホットミルクを手にしたノーラが戻ってくると、來の前に盆ごと置く。しかし、泣き腫らして赤くなった目で食事を見つめるものの、手を付けようとはしない。見かねたノーラが食べるように促すも、嗚咽で肩を震わせるだけだ。

『元気出してちょうだい、ライちゃん…御主人様は怒ってらっしゃったように見えたかもしれないけれど、誰よりも心配なさってて、夕食も後回しにあなたを探そうと外にお出になったところだったのよ』

「…………」

『心配の裏返しで、あんなキツイ当たり方をしてしまっただけで、ただそれだけなのよ。ほら、御主人様はご自分のお気持ちを表現するのがちょっと不得手で、勘違いされやすい御方だから。でもライちゃんを嫌いになったとかそういう事は決して――…』

『……使用人ごときが御主人様のお心を勝手に推測するなど、どうかと思いますよ。ノーラ』

割り込んできたラディの静かな声に、ノーラは途端に口を閉じる。そんな彼女をちらりと横目で見てから、ラディは來に視線を向けた。

『御主人様から直接お叱りを受けた今、僕からはもう言いませんが…』

俯いて座っているだけの來に、ラディが諭すように告げる。

『その食事を持って、部屋に戻りなさい。頭を冷やして、今日の事をよくよく反省なさい』

『――…』

暫くしてから『ハイ』と弱々しい返事を口にした來は、ノロノロと席を立った。盆を持ち、力ない足取りで立ち去る來の背中にノーラが声を掛けようと立ち上がるも、ラディに止められて渋々と黙って見送る。

「…………」

使用人ホールから1歩外へ出た來だったが、ふと立ち止まると持ったままだった"紐"に視線を向ける。必死になって探した…今はもう価値も意味もない彼への贈り物だったモノ。暫くぼんやりと見つめてから、來はそれをそのまま近くのゴミ箱へ捨てた。あっさりと、そして音もなく落ちていく様を見ても、何の感情も生まれない……ただ、あんなにも懸命になっていた事が全て夢であったかのような虚無感が、じわりと心に染み込んでいく。

「………」

來はゴミ箱から顔を背け、無言のまま歩き出した。



***
次へ
前へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ