I want youの使い方

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闇夜が濃く残る、冬の朝。

まだ目覚めないバンジークス邸の廊下を、ラディはランプを手に歩いていた。



***



屋敷の全てを取り仕切る立場の執事は、誰よりも早く起きる必要がある。それはバンジークス邸の執事・ラディも例外ではない。厳格な主人ですらまだ眠っている中、足音も密やかにラディは己の仕事の段取りについて考えを巡らせながら歩いていた。

……もうすぐ起きてくるであろうノーラに指示を出し、それから新聞にアイロンを掛けてアーリー・モーニングティーと共に主人の部屋へ運び、彼を起こしてそれらを渡す。使用人ホールに戻ってノーラが作った朝食を素早く食べて再び主人の部屋へ向かい、彼の着替えを手伝ってから今度はパーラーへ行き主人の朝食の配膳。彼の朝食が済むとそれらを片付け、届いている郵便物を仕分けて主人の元へと運び、彼から今日1日の予定を確認

――…公爵ほどに地位が高いと予定は目白押しだろうが、主人は検事職ゆえほぼ毎日同じ日程だ。裁判があればオールドベイリーへ行き、ない場合は局へ行く…どちらにしろ外出な訳だが、彼の仕事はあくまで警察と共に行う為、執事ラディの出る幕はない。出勤する主人を見送り、そして帰宅を労いもてなす。それは秘書の役割も行う一般的な執事とはだいぶ異なっていた。

しかし、主人不在だとはいえラディの多忙さは他家の執事と同様だ。何しろ屋敷の広さに対して使用人は執事のラディと女中のノーラの2人だけ。女主人がいないのでメイドは不要とはいえ、コックもハウスキーパーも庭師すらいない。だから主人不在中のラディの主な仕事は屋敷中の清掃になる…が、広い屋敷・人手不足・老齢などの事情で隅々まで手が届かないのが実情だ。来客もパーティーもないバンジークス家なので、主人が行く場所の清潔を保つのが精一杯なのだった。

「………」

――…数年前はそうではなかった。ラディはふと昔を思い返す。使用人は10人以上いたし、自分にも部下にあたる従僕(フットマン)がついていた。自家用馬車も所有し、もちろん馬だって御者ごと持っていた。パーティーを開く事は昔もしなかったが、個人の来客との会食はよくあった。

世間から"オールドベイリーの死神"とまことしやかに囁かれ恐れられる我が主。担当する裁判の被告人は、例え無罪になっても無事では済まされない…そんな噂から生まれた彼の異名だ。そんなある意味"有名な"主人に仕える事は、ラディの誇りであった。社会的影響の強い裁判をこなし、知名度も信頼ももっと高みを望める……はずだった。数年前までは。

数年……もう、5年も経つのか。ラディは表情を少しだけ重くし、静かに溜め息をつく。あんなにも活躍し功績を重ねてきた法廷から突然去った主人は、使用人を次々解雇すると部屋に引き込もってしまった――…まるで全ての何もかもを拒絶するかのように。呼び掛けても反応すらせず、食事も拒否する彼だったが…それでも傍にあり続けたラディと、何故か居続けたノーラの2人だけは今もバンジークス家の使用人としてそのまま残された。

一体、彼の身に何が起こったのか。何が、誰が、彼をこんなにも傷つけたのか。その詳細はラディの知るところではないが、きっかけは絶対…アレ――…

『オハヨーゴザイマス!らでぃサン!』

『ほぁああああああああああああっ!!?』

黙々と廊下を歩く彼の前に突如として現れた人物に、ラディはガラにもなく情けない悲鳴を上げて勢いよく後ずさった。早鐘のようにばくばくと脈打つ心臓を抑え、目玉を丸く見開く彼が凝視するのは……黒いお仕着せを着てトートバッグ――…中身は辞書各種と、元の世界へ帰る鍵とやらとなる例の本が入った――…を持った1人の少女だった。彼女は爛漫の笑みでラディを不思議そうに見ている。

――…ライ・イチガヤ。日本出身で、ここでの滞在をつい昨日認められたばかりの……未来人、だ。信じられない話だが、115年後の未来からやってきたというぶっとんだ結論を、主であるバンジークスが認めてしまった以上、ラディもその考えに従わざるを得ない。信じられない話なのだが。

『なっ。なっ。な、な、な―――…っ!』

驚きのあまり『何なんですか』という台詞すら出てこないラディに向かって、來は全身に気合いをみなぎらせて『ワタシ、手伝ウ シマス!オ助ケ、いりマス カ?』と熱意のこもった瞳を輝かせ告げる。異様なまでに高いテンションの彼女に、ラディは暫し声を失っていたがようやく我に返ると、取り繕うように咳払いした。

『――…い、いりませんよ。大体、僕の職務に貴方のようなド素人は必要ありません』

『何デモ シマス!何を シマショウ?ソージ?もしくは、センタク………あ!ばんじーくすサンに、オハヨーのお茶、持ッテ――…』

『いりません!貴方の助けなど、僕には必要ありません!!』

無邪気な様子の來に、ラディは目尻を吊り上げて一喝する。特殊な出自の彼女だが、所詮はただの小娘。手酷く当たれば早々に尻尾でも巻いて逃げ出すだろう…そんな打算を胸に抱えてフンと冷笑するラディだった

……が。怒鳴られた來はきょとんとした表情で数度まばたきすると、にっこりと笑ってみせた。思わぬ反応に、ラディはウッと呻いて僅かに体を反らす。

『ナラバ――…エーゴ、ベンキョー、する。イイデスカ?』

『……………』

『ベンキョー、する。イイ?』

『………………………………。どうぞ』

呻くように許可するラディ。來はそれでも嬉しそうに微笑むと、くるりと背を向けて足取り軽やかに去っていった。1人取り残された形のラディは、気味の悪いモノを見るようなしかめ面で彼女の背中を見続けたのだった。



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