I want youの使い方

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着替えた來は、ゲストルームのドアをそっと開けて廊下へ出ると辺りを伺いながら足音を忍ばせつつ1階を目指す。広すぎるバンジークス邸の間取りは依然として不明な部分が多いが、1階へ降りる吹き抜けのエントランスまでの道のりなら自分1人でも行ける。曲がり角手前の壁に背中を張り付かせ、角の向こう側をじっくりと見渡し人がいない事を慎重に確認しながら、なんとかエントランスに辿り着いた來は静まり返る1階へ軽やかに降りていった。

「………」

大きな両開きの玄関ドアを正面に、きょろきょろと辺りを伺う。ゲストルームがある2階も広いが、1階も1階で整然と並ぶドアやどこぞやへ続く廊下があって広い……以前、病院に置いていかれた際に屋敷の主・バンジークスは「仕事に行く」と言っていたが、一体何の仕事をしている人なんだろうか。見た感じは貴族っぽいのだが、貴族って仕事をするのかな。そんな疑問を抱えながら、來はとりあえず行き先を廊下に決めて歩き始めた。相変わらず周囲をそろそろと伺いながら。

そうやって進んでいくうちに、きらびやかな内装がどこか質素になっていく。店でいう関係者以外立ち入り禁止のバックヤード的な雰囲気を帯び始めた周囲の様子に、目的地が近い事を感じつつ來は先を進んだ。やがて奥の方から何やら作業するような気配と音を聞きつけて、來はそおっと近づくとドアのないその部屋を覗き込んだ。

「――…」

そこは間違いなく厨房で、中ではノーラが1人ばたばたと忙しそうに仕事をしていた。勘だけですんなり目的地へ到着出来た達成感に、來はこっそり笑う。そんな彼女に、ノーラがはたと気付いた。目を丸くして來を凝視する。

『まぁ!まぁまぁまぁまぁ…アナタ、いつの間にそんな所に…どうしたの?お腹空いたの?もうすぐイレブンジス・ティーの時間だから、ちょっと待っててもらえないかしら』

「………あの」

おずおずと日本語を口にした來だったが、ノーラは微笑みながら見つめてくる。こちらの言葉を待つ態度に、來はぎこちなく話し出した。

『………ワタシ、アナタを、助ケタイ』

『ええ!?』

『……ワタシは、少シ、助ケのチョーリ、デキマス』

『え、えーっと…?』

「…………」

英語は苦手な來だが、それでも単語なら少し知っている。しかし、それを意味のある文章にして相手に伝える事が難しい。困惑するノーラの様子に挫けそうになりながも、來はたどたどしく話を続けた。

『ワタシは、少シ、チョーリを、助ケル、できまス』

『チョーリ、ちょーり、調理?アナタ、料理が出来るの?』

『ちょうり、デキマス……すこし』

『もしかして…助けるって、アタクシのお手伝いをしに?』

『オテツダイ、しまショウ』

ようやく合点がいったノーラは感激した様子で『んまぁ!』と声を上げると、両手をぱちんと合わせた。

『なんて素晴らしいことなんでしょう!さぁさぁさぁ、いらっしゃいいらっしゃい!』

『ハイ!』

はしゃぐノーラに手招きされて、來も嬉々として厨房の中へ駆け込んだのだ。



***



『じゃあ、これをこうやって、よーくかき混ぜてね。粉がなくなるまでしっかりと』

『ハイ!』

ノーラはボウルに入ったどろどろの生地を泡立て器で混ぜてみせてから來に渡す。彼女がしてみせた通りに、來も泡立て器でぐるぐると生地を混ぜ始めると、ノーラはくすくすと楽しげに微笑んだ。

『ふふふ。未来の人とこうやって並んでお料理なんて、ミステリアスで神秘的でワクワクしちゃいますわ』

『ハイ!』

『それにしても、100年後もこうやってボウルと泡立て器で料理をするものなのね。とっても手際がいいわ、アナタ』

『ハイ!』

『今ね。イレブンジス・ティーで食べるスコーンを作ってるのよ。知ってる?スコーン。すこーーん、よ?』

『……すこーん。オカシ、です。いちごじゃむ、つけル。そして、食べマス』

『そうそうそれ!まぁ、100年後もスコーンは変わらずスコーンであり続けるのねぇ』

しみじみと、そして感慨深く呟くノーラを、來は手を動かしながら見上げる。ラディと違ってとても人懐っこい。年齢は40代ぐらいだろうか――…自分の母と、同じくらいの年かもしれない。

「…………」

ふと思い出した母の姿に、來の手が止まる。母は、大柄で快活なノーラとは違って小柄でほっそりした感じで、穏やかでどちらかというと大人しい人で。料理が好きでお菓子作りも得意で…あぁ。卵焼き、私のだけ甘めに作ってくれて、それがホントに――…

『…まぁ!まぁまぁまぁ、どうしたのアナタ?』

不意にこちらを見たノーラが、驚きに目を丸くする。そして自らのエプロンの端を來の目尻に押し当てて優しく拭い出した。突然の行動に、來も思わずきょとんと目を瞠る。

『どこか具合が悪いの?それともお腹が痛い?』

「…………あ」

彼女の言葉は理解出来なかったが、來は自分がいつの間にか泣いてしまっていた事にようやく気付いた。そうして意識してしまった瞬間。胸が、心が、張り裂けそうに痛みだし、ますます涙が溢れてくる。堪えようとすればするほど、肩の震えが大きくなり掠れた嗚咽までもが漏れてしまう。母の事をほんの少しだけ思い出しただけで、こんなに泣く事はないはずなのに…

『まぁまぁ…どうしましょう。お部屋に戻りましょうか?』

『っ………ゴメ、なさ――…』

『どうしたの?大丈夫??』

『ゴメンナサ……ワタシ、母、思イダシタ……』

『…あ――…』

涙に濡れた來の呟きを聞いて、ノーラははっと息を飲むとますます表情を曇らせてこちらを見てくる。いつも優しく世話を焼いてくれる彼女を困らせたくないのに、どうしても涙を止める事が出来ない。

『思イダシタ…ソレダケ。ゴメンナサイ――…』

『…大丈夫。大丈夫よ。きっと、絶対、大丈夫。悪い事にはならないわ。きっと、上手くいく』

頬を伝う雫が、持ったままのボールの中へとめどなく落ちていく。そうやって泣きじゃくる來を、ノーラは優しく励まし続ける。

言葉は分からなくとも、それは暖かく來の琴線に触れた。



***
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