I want youの使い方

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「はぁ…はぁ…」

歩いているだけだというのに、空腹すぎて体に力が入らないからか息がすぐに乱れてしまう。

ずるずると床に引きずってしまう程に長いネグリジェの裾を持ち上げながら、來は最初に目覚めた寝室と同じくらいきらびやかな廊下を歩く。整然と統一された内装のお陰で、來は自分が一体どこをどう歩いているのかさっぱり分からないまま、ただただ逃げ続けた。まるでそれが己に課せられた宿命かのような…むしろ強迫観念に近いモノが來のふらつく足を動かしていた。

等間隔に並ぶ窓から外を見る。朝…だろうとは思うが、外は白く靄がかかったように見えにくい。しかしぼんやりと見える外の景色から、今いる場所は1階ではなさそうだと來は思った。とりあえず下へ降りる階段を……

「……!?」

遠くからこちらへ走り寄る足音が聞こえた気がして、來は背後を振り返る。そこにはさっきのおばさんと、更に黒の燕尾服を着た男性が一緒になってやって来るのが見えた。來は息を飲むなり、すぐ先にあるドアノブへとっさに手を伸ばす。

『まぁまぁまぁまぁ!いつの間にこんな所まで…』

『待ちなさい!そこへ勝手に入っては…!』

2人の声に背を向け、來は掴んだドアノブを回してドアを開けると中へ体を滑り込ませる。そしてすぐさまドアを閉じて鍵を掛けた。



かちゃん。



鍵が確かに掛かった音を耳にして、思わずほーっと安堵の溜め息をつく來だったが、すぐさまドアがダンダンダンと強くノックされて慌てて飛び退く。

どうしよう……來は辺りを見回す。ここの内装もなかなかきらびやかだが、身を隠すような場所は見当たらない。ベッドがあるが、こんな分かりやすい所に隠れても真っ先に調べられるだろう――…繰り返されるノックの音に急かされながらも、來が見たのは窓だった。うっすらとだが、近くに樹木が佇んでいるのが見える。

「…………」

來に迷っている時間はなかった。まっすぐに窓へ小走りに駆け寄り、思いきって開く。途端、身を切るような冷気が流れ込んできて、來は反射的に窓を閉めてしまった。

「さ……寒っ!」

考えてみれば、今の格好はネグリジェ1枚。制服と比べてかなり薄着だ。逃げたところで、凍死してしまうのがオチじゃないか?

……そんな予感が脳裏をよぎったが、來は意を決したように窓の外を睨み付けると、ずるずると長いネグリジェの裾を膝上までたくし上げ、邪魔にならないように1つにぎゅっと結んだ。そして再び窓を大きく開き――…先程と変わらない冷たい空気に首を縮ませつつも、來はよいしょと窓枠に跨がって樹木を見据えて深呼吸した。

手を伸ばせば届く……確証のない考えに1つ頷いて、來は片手で窓枠を掴みながらもう片方の手を力の限り伸ばす……しかし。どうにもあと少しが届かなくて、じりじりと身を乗り出しながら樹木との距離を縮めていった。指の爪先が、ふるふると小刻みに震えつつも枝へ近づいていく。

「……うーーっ!」

呻き声が唇の端から零れる。背後では相変わらずダンダンと荒々しいノックが続いていた。樹木から伸びる枝を目指してめいいっぱい腕を伸ばす來の手が、ようやくその枝をぱしりと掴み取る。達成感に笑みがぱあっと明るく咲いたその次の瞬間――…




べきっ



「うわぁ!!?」

掴んだ枝はあっけなく乾いた悲鳴を上げ、無慈悲にもばっきり折れてしまった。そして、來の体も折れた枝を追いかけるようにぐらっと窓の外へ倒れていく。あまりにも突然すぎて、來自身どうしようもなかった。崩れるバランス。落ちていく重心。ほどなく受けるだろう痛みと衝撃を想像して、來は固く目を瞑った。

「…………

………………―――?ぁ、あれ?」

なかなかやって来ない痛みと衝撃に、來は固く閉じていた目を恐る恐る開け…自分が目指していた樹木が、変わらずそこにあるのを見てぽかんとした。枝は確かに折れていて、でも落下しなかった今の状況を最初はぼんやりと受け止めていた來だったが、ようやく我に返ると自分の体にゆっくり視線を向けた。

「……」

腹部に、誰かの腕が背後から回されて落ちかけた体を支えている。思いのほかがっしりと支えられている様子に、來はやっと後ろを振り返った。

「――…」

すぐ近くに男の顔があって、來は目を見開く。自分の体を片手で軽々と抱える男の、アイスブルーの双眸が自分をまっすぐ見つめていた。額から頬骨にまで斜めに伸びる大きな刀傷が物々しい雰囲気を帯びていたが、不思議と來の中に恐ろしさはなかった。

男は來を黙って見下ろしたまま、支える腕に力を込めると窓の外にはみ出た彼女の体を起こした。ゆっくりとした時間の中、來も男もまばたき1つせずお互いを見つめる。そうやってようやく床に立たせてもらったところで、閉じられていたドアが勢いよく開き、2人が慌ただしく中へ入ってきた。

『んまぁ!まぁまぁまぁまぁ!御主人様、どうなさいました!?』

『申し訳ありません。失礼ながらスペアキーでこちらを開けさせていただきました』

「!」

こちらへ足早に駆け寄ってくる2人に來は表情を凍りつかせると、未だ緩く自分を支えてくれている彼の腕にしがみついた。まるで隠れようとする彼女の仕草を男――…バンジークスは一瞥した後、近づく2人を見る。

『ラディ。ノーラ。あまり騒ぐな。娘が怯えている』

『っ、申し訳ありません…』

『まぁ!そんな。怖がらせるつもりなんてアタクシは』

『……痣や傷から見るに、娘はこれまで酷い目に遭ってきたのだろう。そのような大声で話しかけたら、ただ恐ろしいだけだ』

「………」

バンジークスと2人のやりとりを、來は不思議そうに見つめる。彼らが何を話しているのか、全くもって分からないのだが。

その時……



ぐぎゅーーーーぅうぐるるるる……



『……』

『んまぁ……!』

「―――…」

空気を読む気が全くない腹の虫の鳴き声が、來の腹部から切なく響いた。自然の摂理とはいえ、恥ずかしさのあまり來は顔を真っ赤にして俯く。

『…ちょうどアーリーティーの時間だな。ラディ、娘に食事を。ここへ持ってきてくれ。私も着替える事にしよう』

バンジークスはフッと一笑しつつ告げる。命令を受けたラディは胸に手を当てると『…かしこまりました』と一礼して、すぐその場を後にした。ノーラも慌ててスカートを軽く持ち上げながらお辞儀をすると、先に退室したラディを追うようにばたばたと走り去る。

「………」

一気に静まり返った室内。來はあっという間にいなくなった2人を呆然と見送る。そんなぼんやりとした様子をバンジークスは見ていたが、太ももまで露になった彼女の格好に気付いて思わず眉根を寄せた。次の瞬間、問答無用に來を抱き上げ、ベッドへ歩いていく。

「きゃ!」

『そなたの田舎ではそのような格好が許されたかもしれんが、ここは大英帝国だ』

バンジークスはベッドに來を降ろすと、シーツで彼女の生足を隠すように被せる。

『我が国の地に足を付けている以上、淑女は慎み深い格好でいる事だ』

「…………」

小難しい表情の彼を見て、何だか小言を言われたような気がした來は素直に小さく頷く。その反応で良しとしたのか、バンジークスは軽く黙礼するとドアへと颯爽と向かい、そのまま出ていったのだった。

「……―――」

しんと静まり返る部屋に1人取り残された來。あれだけ"逃げなきゃ!"と思っていた事すら忘れ、3人が再びやってくるまで大人しくベッドにいたのだった。



***
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