I want youの使い方
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閉塞感に満ちた世界から逃げ出してしまいたい。
どこか、遠くへ。
***
塾からの帰り道。しんと静まり返った夜の道を、來は1人黙々と自宅を目指して歩いていた。時刻は21時をとうに回っていて、辺りは闇夜にどっぷりと浸かっている。等間隔に灯る街灯と民家の窓から漏れる灯りが、まるで闇夜の濃さを証明するかのように煌々と眩しいくらいに輝いていた。
「………」
冬の気配を感じ始める秋の暮れ。澄んだ空気はアスファルトから上がるコツコツとした靴音を、周囲へ響き渡らせる。民家の路地裏でありながら彼女の足音以外、何の雑音もない夜道を來は無表情のまま見つめ、歩き続ける。
そんな最中、來の肩口に掛けていたトートバッグがするりと滑り落ち、どさっと籠った音を立てて地面に落ちた。唐突な、そして小さなアクシデントに気付いた來だったが、暫くぼんやりと落ちたバッグを眺め、やがて腰を屈めると無言のままのろのろと緩慢な動きでそれを拾い上げた。
ふぅと口から漏れた、疲労と脱力感に満ちた溜め息。そうして來は、しゃがんだまま手にしたバッグをじっと眺めていた。
一ヶ谷 來。
来年18歳になる高校3年生で受験生。
受験生を灰色に例えた人は、いい感性を持っていると思うほどに來の毎日は灰色に澱んでいた。大学進学を希望してはいるが、彼女には特別これといった将来の目標はない。友人らも進学するし…という動機で選択した進路だ。とはいえ、塾にまで通って受験勉強するからには低偏差値のFラン大学に行くつもりは毛頭なく、かといって所謂MARCHと略されるエリート大学に行けるほど優秀ではない。実力のちょっと上の大学を志望した來はこうして受験勉強に追われる日々を過ごしている。
学校生活に、夜遅くまでの塾通い、そして自宅での学習……まさに灰色以外に例えようのない、無味で単調な毎日の繰り返し。サクラサク日が来たら、こんな日々は少しは輝くのだろうか?
今、輝きを感じないというのに。
「………あーあ」
來が重い溜め息と共に小声でぼやくと、トートバッグから1冊の分厚い本を取り出した。深みのあるワインレッドの表紙には金の縁取りが施されていて、本とはいえなかなか豪勢な作りだ。左開きの表紙の中央には縁取りと同じ金色の書体で、"大英帝国の歴史"と記されている。"British Empire History"ではなく、"大英帝国の歴史"と日本語で。タイトルのすぐ下にある大振りシーリングスタンプが如何にもイギリスらしい雰囲気を醸し出しているのに、タイトルは何故か日本語というミスマッチさに妙に惹かれて、図書館から借りてきたのだ。
…別に、本の雰囲気に惹かれたからわざわざ借りたのではない。今日の5時間目の事。世界史担当教諭が
【明後日までにイギリスの歴史を調べて、それを英語に訳してきなさい】
……などという、世界史なのか英語なのか分からない宿題を出してきたからに他ならない。あの教師は普段から何かとイギリス留学を自慢してくる嫌味で空気が読めない奴で、だから皆が受験勉強に必死なのにこんな意味不明な宿題を簡単に突きつけてくるんだ!
……と、授業終了後に友人らと盛大に愚痴りあった。文句は尽きないが、内申点に響くとあっては無視する訳にもいかない。しかし、來にとって英語は鬼門に相当する超苦手科目。単に歴史を調べるだけでなくそれを英語に訳せだなんて意味が分からない。帰路につく今ですら不満は膨らんでいく一方だ。
「………」
胸中に渦巻く、どんよりと重い溜め息を静かに吐き出す。3年に進級してから、何だか見えないモノに追い詰められるような感じがする。学校の授業、塾、自宅での勉強、訳の分からない宿題…起きている間は常に勉強で。自分は一体どこに向かっているのだろうか。
勉強という閉じられた空間から。
逃げ出せたら。
どんなにか清々しいだろうか。
ほんの少しの間でもーー…
脳裏を掠めた現実逃避の欲求に、來は無意識のうちに手にしていた"大英帝国の歴史"を真ん中から割り開いた。
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