I want youの使い方

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そして次の日。夜会当日。

いつもは静かなバンジークス邸は、朝から多くの人間が行き交い、騒がしさに包まれていた。主であるバンジークスが出宅した後は、ラディとノーラ、そして來の3人しか残らないのが常だった屋敷に、今日は夜会の手伝いで他家から使用人が来ているのだ。段取り、打ち合わせ、準備…様々な作業に追われる使用人達の気配を、來はゲストルームで感じ取っていた。屋敷全体がこんなにも浮きだっている雰囲気は初めてで、來もつられてそわそわしてしまう。

『ライちゃん、いいかしら?』

『?…はい、大丈夫です』

ノックと共にノーラの声が聞こえ、來ははっと我に返って返事をした。やがてがちゃりとドアが開いて、ノーラとコレットが共にやってくる。そんな彼女達が運んできたトルソーを見た來は、大きく目を見開いた。

『………これ、一体…』

『もちろん!今日の夜会でライちゃんが着るドレスでございますよ!今、ロンドンで人気の仕立屋さんに作って貰ったそうですけど…まぁまぁまぁ、夢見るような素敵な仕上がりで、溜め息が出ちゃいますわぁ』

トルソーが着ているドレスを見つめてノーラがうっとり語る。桜色を基調としたドレスはレースが幾重にもたっぷりあしらわられていて、おとぎ話のお姫様が着るようなデザインだ。ずっと前に貰った…令嬢が外出着として着るようなワンピースドレスとは全く違う、マジモンのドレス。

『…あの。このドレス、誰からの……』

『そんりゃあ、もちろん!御主人様からですだよ!!』

興奮しきったコレットから予想通りの答えを聞いて、來は気後れしたように黙り込むとドレスをまじまじと見つめる。少なくとも明日には屋敷を出ていく人間にこんな高価そうなモノをプレゼントするなんて、一体どういう価値観なんだろうとぼんやり思う。餞別にしては度が過ぎるような…

『御髪のセットやメイク、準備は山のようにありますのよ。だから早速これに着替えていただきますよ!アタクシとコレットでお手伝いいたしますわ』

楽しげに告げるノーラが、ベージュのコルセットを手に取る。どこかで見たような光景…もっというと嫌な経験が脳裏を過り、來は反射的に身構えて1歩後ずさる。そして下がった分だけノーラがずいっと迫った。あくまでもにこやかな彼女と、ますます警戒を深める來が互いに向かい合う様子を、コレットは不思議そうに見ている。

『…コレット。ライ"お嬢様"をしっかり押さえておいてね』

『はい!任せてくんなまし!暴れガチョウさ捕まえるの、田舎じゃよ〜くやっとりましたから!!』

「……!」

結託した2人を見た次の瞬間、來は彼女らに背を向けてその場から逃げようとする。しかし2対1な上に室内では逃げようもなく、あっという間に捕まってしまった。抵抗も虚しくあっという間にコルセットを巻かれ、この次にやってくるであろう痛みと苦しみに備えて來はぐっと奥歯を噛み締めた。

が、そんな備えも意味はなく。屋敷に響き渡る絞め殺されそうな呻き声に、邸内の使用人達は何事かとぎょっと辺りを見回したのだった。




***





『……ガチョウの下ごしらえは、済んだようだな』

小一時間後。呻き声がようやく止んで暫くしてから、バンジークスがやってきた。口元に苦笑を浮かべる彼を、姿見の前に立つ來は鏡越しにじとっと不満げに見やる。文句言いたげな視線に気付いたバンジークスはますます苦く笑うと、その場にいたノーラとコレットに対して軽く手を掲げすいっと流す。退室を促すジェスチャーに、2人は恭しくお辞儀をすると黙ってゲストルームを後にした。

『………』

「………」

2人きりの部屋を、静寂が包み込む。コツコツとブーツを鳴らしながらこちらへ歩み寄るバンジークスに、來は振り返ろうと少し体を傾けた。

『待て。そのまま…前を向いていろ』

『……?』

そう言われて、來は振り向きかけた体を元の体勢に戻す。バンジークスは彼女のすぐ背後にまでやってくると、細い項をじっと見てから手に持っていたネックレスをその首に巻いてみせた。シャラッと音を立てて巻かれたネックレスに、來は驚いて目を丸くさせる。

『あっ、あの……これって』

『ジュエリーには疎いのだが…気に入っただろうか?』

『え?はぁ………あの、はい』

ぱちっと留め具を付けて、バンジークスはネックレスから手を離す。首元で輝く大粒のアクアマリンに、來はおずおずと触れてみた。これ…本物なのかな?いくらするんだろうと、ロマンに欠けた感想を抱く來である。

ふっと目の前の姿見に視線を向ける。バンジークスが鏡越しにこちらを見つめている眼差しとかち合い、瞬間、胸がどきっと高鳴った。瞬きもせずまっすぐに見つめてくる彼の視線から逃れるように、來は慌てて俯く。頬が少し熱い。

『あのっ……こんな素敵なの用意していただいて、ありがとうございます』

『………あぁ』

『ドレスなんて、生まれて初めてです。着慣れないし、こんな格好も見慣れないし何か…ヘンですね。私』

深まる緊張をほぐしたくて、へらっと笑って軽口を叩いてみる。しかしバンジークスは表情を崩さず、鏡の來をまっすぐ見つめながら答えた。

『自分を卑下するのは、日本人の悪い癖だ』

『え?』

バンジークスの台詞に、來は伏せていた顔をはっと上げる。鏡越しに写るアイスブルーの瞳に、一瞬で全身の感覚が奪われる。そんな來の瞳を縫い止めるように、バンジークスは見つめたまま告げた。

『それは、君に必要だと思ったから用意した………少しも可笑しくなどない』

『…ご、ごめんなさい』

『そうやってすぐに謝るのも、日本人の悪い癖だ。堂々としていろ。その方がいい』

言葉と共に、バンジークスの両手が來の肩を柔らかく掴む。まるで励ますような仕草に、來の鼓動がまた大きく震えた。心が絞られるような感覚に、思わず胸元をきゅっと握り締める。ここで過ごすのが、彼の傍にいられるのが、これで終わりだなんて信じられない。いや、信じたくない。

「………」

來は、ふっと顔を俯かせる。悲しみや寂しさが胸の内を満たし、溢れたそれが涙になりそうな予感に、唇を引き結んで堪える。

『あの……』

『何だ?』

『…………本当に。ありがとう…ございました』

目を閉じ、深呼吸をしながら、來は改めて感謝の言葉を口にする。

ここに来てから今日まで。

何から何まで、すべては

彼のおかげ。

これから新しい生活が始まっても、それだけは変わらない。ずっと。彼がいたから、自分は――…

『………』

礼に対するバンジークスの答えはなかった。ただ、肩に置かれた彼の手は、來を支えるように離れなかった。



***続
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